デンマークの劇作家。ノルウェーのベルゲン生れ。学生時代からコペンハーゲンで暮らす。18世紀のデンマーク文化と文学界で重要な位置を占める。哲学,形而上学,ラテン修辞学の教授職を経て専門の歴史教授となる(1730)。またハンス・ミケルセンHans Mikkelsenのペンネームで社会批評,風刺をはじめ,喜劇詩《ペーダ・ポールス》(1719-20)を書く。当時レパートリーの少なかった新しい王立劇場のために短期間(1722-28)に28の喜劇を提供した。その後再開した劇場(1748)に数編を追加する。創作の基盤にはイギリス,フランスの劇があるが,独自の方法でデンマークの市民を登場させつつ,その会話の妙をとらえている点,今日まで新鮮味を失っていない。とくに百姓を主人公とした《山の上のエッペ》(1723)や,過度にラテン語重視に染まった当時の社会を風刺した《エラスムス・モンタヌス》(1731)などはいまだ古典中の重要作品として上演される。デンマークおよびノルウェーにおける演劇の祖とされている。《デンマーク・ノルウェー史》(1732-35),《教会史》(1738)の著作もある。
執筆者:岡田 令子
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デンマークの劇作家、学者。ノルウェーのベルゲンに生まれ、早く父母を失い孤独な青春を過ごす。コペンハーゲン大学に学ぶが、中退しヨーロッパを放浪、オックスフォード大学で史学を専攻。帰国後執筆した『ヨーロッパ列強史序説』(1711)で学位を得、コペンハーゲン大学教授となる。法律、哲学、古典語、歴史、地理などを講じ万能学者として知られる。初め文学的関心は薄かったが、同僚の学者を風刺した詩が評判をよんだことから、偽善的社会を暴露する長詩『ペーデル・パウルス』(1719~20)を書く。この作品は市民を侮辱するものとして訴えられたが、国王が読み「無害なおもしろい本」と裁決したため、無罪となる。
1722年、首都に初めて劇場が創設されるにあたり、依頼されて劇作を試み、ほぼ1年半の間に『産室』『山のエッペ』『居酒屋政治家』『エラスムス・モンタヌス』など26編を書き、上演。その多くは風刺喜劇として成功を収め、「北欧のモリエール」とよばれ、北欧文学の存在を世界に知らせた。前記の諸作は今日でもしばしば上演される。30年、篤信家の王がたち「劇場は諸悪の源」として閉ざすに及び学業に復帰。またラテン語でスウィフト流の風刺小説『ニイルス・クリムの地下旅行』(1740)を発表。その後劇場が再開され、新作七編を書いたが、これらの作には往年の生色がみられない。書簡五巻も知られる。
[山室 静]
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… 18世紀はルイ14世のフランス文化が全ヨーロッパで国際的威信を享受し,デンマークもその啓蒙主義と古典主義から強く影響される。この時代の申し子,〈デンマーク文学の父〉と呼ばれるノルウェー人ホルベアは広く文学,歴史,哲学の分野で超人的な著作活動を行い,モリエールとユウェナリスに多くを負う人間・社会風刺の喜劇多数と,哲学的な書簡体エッセーをまとめた。18世紀中期までのデンマーク文学は概してフランス的,次いでイギリス的色彩を帯びていったと言えよう。…
…14世紀半ばの黒死病流行により人口の3分の2を失ったノルウェーは,その後400年間デンマークに従属して,口承民話や歌謡以外に自らの文化を失うが,国を出たすぐれた芸術家の活躍はその間も続く。北欧啓蒙期最大の文学者ホルベアはコペンハーゲン大学の教授となるが,ノルウェーのベルゲンの生れで,〈北欧のモリエール〉と称される彼の喜劇もまた,デンマークとノルウェーの両文学史で扱われる。1772年にコペンハーゲンで結成された〈ノルウェー協会〉による作家たち,ウェッセルJohan Herman Wessel(1742‐85)やブルンJohan Nordahl Brun(1745‐1816)らもまた同じである。…
※「ホルベア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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