中部ヨーロッパのボヘミア地方(現在のチェコ西部地方)で,13世紀ころより発達してきたガラス工芸。その伝統は今日のチェコ,オーストリア,ドイツなどのガラス工芸に継承されている。その特色は,無色透明のカリ・クリスタル・ガラスを素材に使ったテーブル・グラスに,豪華な彫刻やカットを施した点にあった。ボヘミアン・バロック・グラスとして盛名を馳せた17世紀以降は,ヨーロッパ市場を独占していたベネチア・ガラスにかわって,ボヘミア・ガラスが市場を独占していった。もともとボヘミア・ガラスは,15,16世紀には,もっぱらベネチア・ガラスの影響下にあって,エナメル彩色のやや民芸的な製品を製造していたが,シュレジエン山系の豊富な良質のケイ石原料に,堅木の森林材を木灰として使用するようになってから,独自の透明ガラス(森林ガラスWaldglasと呼ばれる)を生み出した。ちょうどその頃,神聖ローマ皇帝のルドルフ2世がプラハにその都を置いて,芸術,学問を奨励して,ガラス工人や水晶彫師などを援助したことから,ボヘミア・ガラスが大展開を遂げることになった。名工レーマンCaspar Lehman(n)(1590ころ-1605)が活動し,無色のガラスに水晶彫の技法を応用した豪華なグラビュール・グラスを生み出したのもこの頃であった。18世紀には約100の工場が林立して最盛期を迎え,製品もテーブル・グラスからクリスタル・シャンデリア,鏡,宝飾品などに大きな広がりをみせた。しかし,19世紀に入ると,各国の保護関税に門戸が閉ざされて輸出が急減して,ボヘミア・ガラスは衰退期に入った。その起死回生策として,色被せガラスにカットを施したり,エナメル彩色を施すなど,装飾的な多種多様なガラスが生み出された。また,イギリス流のカット・パターンを導入したカット・グラスも生まれ,エナメル絵付,カット,グラビュール(レリーフ彫刻)の3技法を使った製品が,新しいボヘミア・ガラスの様式として確立してきた。19世紀末から20世紀初頭にかけては,当時の流行を受けたアール・ヌーボー様式のガラス製品が作られていたが,主流はやはりカットとグラビュール,エナメル絵付のガラスにあった。第2次世界大戦後チェコスロバキアは,数千に及ぶ個人工房や工場を統廃合して,コーポレーション・システムでガラス業界を再編成した。その振興策が効を奏し,ボヘミア・ガラスはチェコ・ガラスと名前を変えて,再び世界をリードする盛況を示している。
執筆者:由水 常雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパ中部のボヘミア地方(チェコ)のガラス製品。この地方では14世紀ごろからガラス窯が開かれ、16世紀の末、イタリアのソーダ灰のかわりに、ポーランドのシュレージエン地方の森林から得る木灰をアルカリ源として高度の透明度をもつ良質のクリスタルガラスを産出した。皇帝ルドルフ2世はボヘミアのプラハを居城としてガラス工芸を保護奨励した結果、ボヘミア・ガラスの名声はイタリアのベネチア製品をしのいでヨーロッパ中に広まった。首都のウィーン移動や数度の戦乱による打撃で一時衰退したが、19世紀に復興、現在に至っている。製品にはカッティングやエングレービングによるクリスタルガラス、また2層のガラスの間に金箔(きんぱく)を挟み図柄を刻んだ金サンドイッチガラスがある。
[友部 直]
…その結果,各国はガラス製品の自給を考えるようになり,ムラノ島からのガラス工人の引抜きを図った。
[ボヘミア・ガラス]
まずフランスで鏡の生産が始まり,それはやがてベネチアに代わってヨーロッパ市場を独占する。中部ヨーロッパのボヘミアでは,ビザンティン・グラスの技術導入のあった11世紀ころからの伝統の上に,ベネチアの技術を加えて16世紀ころより急速にガラス工芸を発達させた。…
※「ボヘミアガラス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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