日本大百科全書(ニッポニカ) 「マクデブルク」の意味・わかりやすい解説
マクデブルク
まくでぶるく
Magdeburg
ドイツ中東部、ザクセン・アンハルト州の州都。1949~90年は旧東ドイツに属した。エルベ川中流部沿岸に位置する。人口23万1500(2000)。ミッテルラント運河とエルベ・ハーフェル運河が市の北方でエルベ川に交わる水運の要衝で、河港をもち、鉄道・道路も集中する交通要地である。とくに1938年ミッテルラント運河の開通でルール地方と結ばれたことにより、工業化が促進された。鉄鋼、機械(機関車)、食品(製糖、コーヒー、チョコレート)などの工業が盛んで、穀物、石炭、カリ塩、砂糖の取引中心地ともなっている。工業大学、教育大学、医科大学などのある学都でもあり、都心にはリープフラウエン教会や大聖堂などがある。12世紀ロマネスク様式の大聖堂には、オットー1世の墓や鋳造家フィッシャー作の像がある。
[佐々木博]
歴史
市はエルベ川の渡河地点に位置し、早くからエルベ川以東に住むスラブ人との交易の基地となった。カール大帝時代の805年、すでに市場が存在したという最初の記録がある。その後、スラブ人へのキリスト教布教、ドイツ人の東方進出の拠点となり、そのため937年オットー1世は聖モーリッツ修道院を設立し、968年これを本山聖堂として大司教を置いた。12世紀後半より商業が著しく発達し、1188年大司教ウィヒマンは都市法を賦与したが、この都市法はブランデンブルク、シュレージエン、ポーランド各地の都市に流布し、受容された。市民は大司教の都市支配権と闘い、13世紀末に自治を獲得し、他方、ハンザ同盟に加入、その有力なメンバーとなった。宗教改革に際してはいち早く新教化したが、三十年戦争のときティリの率いる皇帝軍に襲われ、1641年徹底的に破壊された。その後、「マクデブルクの半球実験」で知られる市長ゲーリケの適切な指導下に復興し、1680年ブランデンブルク選帝侯領、1814年プロイセン領となり、ドイツ有数の商業都市となった。
[瀬原義生]