改訂新版 世界大百科事典 「マフノ」の意味・わかりやすい解説
マフノ
Nestor Ivanovich Makhno
生没年:1889-1934
ウクライナの農民運動の指導者。アナーキスト。エカチェリノスラフ県グリャイ・ポーレ村(現,ザポロージエ州)に農民の子として生まれた。1905年革命のころからアナーキスト・グループの一員として警察や商人,富豪への襲撃に加わり,08年逮捕された。17年の二月革命後釈放されて故郷に帰り,農民運動の指導者となった。18年ドイツ軍占領下でマフノは農民パルチザン部隊を組織し,しだいに軍事指導者として知られるようになった。18-21年の内戦のなかで,マフノ軍は常に農民に支持され,食糧や隠れ家を提供されながら戦闘を続けた。ときには農民家族とともに1000kmにおよぶ移動を行った。マフノ農民軍はドイツ軍撤退ののち,ウクライナ農民の代表としての立場を堅持し,ウクライナ民族派のペトリューラSimon Vasil'evich Petlyura(1879-1926)の軍,白衛軍のデニキン,ウランゲリの軍との戦闘においてはボリシェビキと協力したが,のちに1919-20年にかけてはソビエト政権の穀物徴発政策をめぐってボリシェビキと厳しく対立するようになった。この点タンボフ県のアントーノフの反乱や同じウクライナのゼリョーヌイZelyonyi(緑)の反乱と同じ性格をもっている。1919年後半の最盛期には5万名以上の勢力を擁し,マフノはウクライナ農民の強い支持を受け,〈バチコ(父)〉の愛称で呼ばれた。20-21年のマフノ軍とソビエト軍の戦闘は悽惨をきわめ,双方に数万の犠牲者を出した。21年夏マフノはソビエト軍に追われてルーマニア国境を越え,パリに亡命。34年病死するまでパリで妻と娘とともに亡命生活を送り,ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。3巻の回想録(1929-36)をはじめとしていくつかの著作がある。マフノを題材にした小説,歴史書などもある。日本では大杉栄による紹介(《無政府主義将軍ネストル・マフノ》1923)以来知られている。
執筆者:中井 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報