チェコスロバキアの画家、装飾画家。チェコ語読みはムハ。モラビアのイバンチッツェ生まれ。プラハの美術学校の入試に失敗、ウィーンに出て舞台美術工房で働く。その後クーエン・ベラシ伯爵に認められミュンヘンで修業、1888年からパリに移りアカデミー・ジュリアンなどで学んだ。その経済援助が打ち切られた1890年代から自活の道を挿絵にみいだす。また、1894年の暮れ、図らずも女優サラ・ベルナールのポスターを制作する幸運を得、大ヒットして一躍名声を博す。サラとの契約6年間に生まれたポスター、花と女の華麗なミュシャ様式は、アール・ヌーボーの代名詞になった。1904年以後、何回かアメリカに行き、制作し教鞭(きょうべん)もとる。1910年から祖国に帰り、1918年の歳月をかけた絵画の大作『スラブ叙事詩』を完成。国章・切手・紙幣のデザイン、プラハの聖ビート大聖堂のステンドグラスなどを手がけ、終生愛した祖国の首都プラハで没した。
[浜田靖子]
『中山公男他編『アール・ヌーヴォーの世界1 ミュシャとパリ』(1987・学習研究社)』
チェコスロバキア出身で,パリで活躍した画家。チェコ語ではムハ。イバンチツェIvančice生れ。ミュンヘンのアカデミーで学び,1887年パリに出る。94年サラ・ベルナールの《ジスモンダ》のポスターを描いて,一躍,世紀末の代表的なグラフィック・アーティストになった。1904年まで,《椿姫》《ロレンザッチョ》《ハムレット》など,ベルナールのためのポスターを描きつづける。さらに,装飾パネルからブローチにいたるおびただしい装飾美術を手がけた。花と女を曲線によって平面的に描く彼のスタイルはアール・ヌーボーの典型であった。日本でも雑誌《明星》(1900創刊)の表紙やさし絵を描いた一条成美,藤島武二などにミュシャの作風があらわれている。13年ロシアに旅してスラブ民族の血を呼びさまされ,晩年は故国で大作《スラブ叙事詩》に全力を傾けた。画業のかたわら撮りつづけた写真も再評価されつつある。
執筆者:海野 弘
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