翻訳|cavalry
軍馬に乗り戦闘する兵種の一つ。時代とともにその使用兵器,役割等が変遷し,現代では軍馬は原動機を使用する兵器に代わり騎兵の名称もなくなりつつあるが,戦場をより速く機動して戦闘するという騎兵の機能は別の形態で保持されている。
古代においては,騎兵の任務は軍の主兵である歩兵集団の決戦のための捜索,警戒が主であったが,ハンニバル,アレクサンドロス大王は騎兵の軽快性を活用した作戦を指導してしばしば大勝した。歩兵中心の古代の軍隊でも,末期には騎馬民族の数次の侵攻に対処するため,逐次騎兵の地位が高まり,ローマ帝国においては,初期には歩兵の約10分の1に過ぎなかった騎兵は約4分の1まで増加した。
中世は,ローマ帝国に対するゲルマン民族の侵入,ビザンティン帝国に対する騎兵によるアラブ・イスラム軍の侵入,ヨーロッパ北部に対するバイキングの襲撃等に刺激され,騎兵の全盛期となった。これらの侵入は古代における歩兵集団の整然とした戦闘と異なる流動的な戦闘を要求し,必然的に速度の優れた騎兵の隆盛をもたらした。また,これを可能にしたものの一つに馬具の改良があり,特に蹄鉄は軍馬の行動力を著しく高め,鐙(あぶみ)の発明は騎乗戦闘能力を向上させ,騎兵の第一線における使用を可能にした。かくして騎兵は歩兵に代わって軍の主兵となったが,弓,弩(いしゆみ)/(ど)を増強する歩兵に対抗するため甲冑を着る重騎兵化の道をたどり,本来の軽快性を失うとともに高価なものとなって諸侯の財政を圧迫し,諸侯の保有できる騎兵は数百騎に過ぎなくなった。この結果騎兵戦闘は一騎討ちの小規模なものに変化し,さらに,高価な重騎兵を維持するために,大・小地主に兵力提供を義務づけるようになって封建制度への引き金となった。中世末期,ヨーロッパの重騎兵はモンゴルの軽騎兵集団によりその重装備と小兵力のために随所で撃破された。
→騎士
近世に入り,火器の発達にともなう大砲の地域制圧力,小銃の狙撃力によって,戦場でその目標になりやすい騎兵はその力を失い,軍の主兵の地位から脱落した。しかし,ピストルの発明に着目して軽騎兵をピストルとサーベルで武装したスウェーデン王グスタブ2世によって,騎兵は歩兵,砲兵と並んで戦闘3兵種として復活した。グスタブ2世の騎兵運用は砲兵,歩兵によって組織戦闘力を崩したのち敵の側方から襲撃をかけて勝利を決定するもので,プロイセンのフリードリヒ2世はさらに騎兵に小型砲を装備させて,いわゆる横隊三兵戦術を完成し,騎兵の襲撃を多用した。
近代に入ると,ナポレオンは諸兵種連合の師団を創設したが,騎兵は師団内において3兵種の一つとして活躍した。しかし,火力の著しい向上はふたたび騎兵の地位を低下させ,かつ,国民兵役をとるようになった各国では歩兵に比べて訓練上の困難性をもつ騎兵を制限したので,各国の騎兵勢力は激減しその役割も捜索,警戒に変わった。第1次世界大戦には騎兵の大きな活躍は見られなかった。第1次大戦末期に馬に代わる戦場機動力として出現した戦車は,第2次大戦で集団用法を完成し,重騎兵の機能を復活させて現在に至っている。また,装甲車,軽戦車を採用した偵察部隊,ヘリコプター装備の空中機動部隊はともに軽騎兵の機能を復活している。
古代の日本には騎兵として見るべきものはない。平安末期~鎌倉時代ごろからさかんに乗馬戦闘が行われるようになったが,全員騎乗の戦闘は少なく,戦国時代には歩兵,騎兵を併用する戦闘がもっぱらとなった。明治時代に秋山好古により騎兵が創設され,日清・日露戦争で活躍したが,やがて西洋と同じ道をたどり,機械化捜索部隊へと変容した。自衛隊には騎兵はない。
執筆者:村松 栄一
殷・周の都市国家時代に,4頭立ての戦車が用いられていたが,騎兵は,おそらく戦国の趙や秦で設けられたのが最初であろう。元来,中国には騎兵による騎馬戦術はなく,周辺異民族からの新戦術の輸入採用によって秦の中国統一ができた。中国内部では自然条件によって軍馬を自給することができず,北西方の遊牧民族から軍馬の供給を仰いだ。騎兵は軍馬輸入が可能な勢力だけがもち,中国本来の戦力は歩兵であり,戦術は密集歩兵戦術であった。
→ウマ
執筆者:衣川 強
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各兵乗馬により編制される陸軍七兵科の一種。軍刀、槍(やり)、拳銃(けんじゅう)、騎銃、機関銃などで武装し、迅速な機動性を駆使して、敵情捜索、地形偵察など情報収集をおもな任務とした。実戦では、敵への奇襲戦、追撃戦や退路遮断などにその威力を発揮した。戦闘手段としては集団の衝突力を利用し、軍刀・槍によって襲撃を行う乗馬戦と、騎銃・機関銃による火力戦を行う徒歩戦とがある。とくに乗馬戦は古来から多用され、乗馬戦に優勢を占める者が勝利を得た事例は少なくない。しかし、20世紀に入り重火器、自動車、戦車、飛行機などの発達によって騎兵の能力は著しく制約されることになった。戦闘集団としての騎兵は、第一次世界大戦を最後の活躍舞台とし、第二次世界大戦においては実戦参加の機会をほぼ完全に失うことになった。旧日本陸軍では、遠距離偵察や戦闘を任務とする騎兵師団と、近距離偵察や小規模戦闘を任務とする騎兵旅団とに分けられていた。
[纐纈 厚]
…その最初の証拠が現れるのは前1300年代末のころである。エジプトの新王国第19王朝セティ1世時代,ヒッタイト人を撃退する図で,ヒッタイト軍の中には戦車に混じって数少ないが騎兵の姿が描かれている。エジプト軍は弓を引く戦士を乗せた戦車で示されている。…
…【大林 太良】
【ヨーロッパ】
巨視的に見て,ヨーロッパ世界での戦争の様相が大きく変化する時期として,14~15世紀の百年戦争,18世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争,そして20世紀の第1次世界大戦をあげることができるであろう。
[重装歩兵戦術]
ギリシアでは初め貴族からなる騎兵や戦車兵が勝敗の鍵を握っていたが,民主政治の成立と並行して一般市民からなる重装歩兵戦術が主力としての地位を確立する。3回にわたったペルシア戦争(前492,前490,後480)で歩兵密集戦列の優位が確証され,この戦法は決戦の基本的な型としてローマに受け継がれ,かつ大規模に組織された。…
…この番頭は奉公衆の成立期である足利義教のときから,1番畠山,2番桃井,3番上野または畠山,4番畠山,5番大館の諸氏に一定し,これが番衆の譜代的な固定性と相まって家族的な信頼感情を育て,番ごとの連帯性を支えて後世の番衆制度の範となった。【福田 豊彦】 戦国・江戸時代には武家の職名あるいは格式の一つで,一般に侍組(騎兵)の頭(侍大将)をいう。足軽,同心,徒士(かち)などの組(歩兵)の頭(足軽大将)である物頭の上位,家老につぐ地位にあった。…
…エジプトとの戦いでは2輪式の戦車3500両,歩兵1万7000人を繰り出した。 白兵主体の戦闘の期間,陸軍は歩兵と騎兵との戦場における主導権の争いの歴史でもあった。歩兵は〈方陣(ファランクス)〉によって,強力な盾と長槍による突進力の威力を発揮して,陸軍の主兵としての地位を保っていたが,前8~前7世紀ころから,騎兵の機動力によって圧倒されるようになった。…
※「騎兵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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