モラレス
Morales, Evo
[生]1959.10.26. イサジャビ
ボリビアの政治家,労働運動指導者。大統領(在任 2006~ )。フルネーム Juan Evo Morales Ayma。高校で学び兵役についたのち,家族とボリビア東部チャパレに移住。農家を営む一家は,同地でコカ(→コカノキ)の栽培を手がけた。コカはコカインの原料だが,ボリビアでは先住民の伝統作物でもある。1980年代初めから地域のコカ生産者組合の活動に積極的に参加し,1985年組合事務局長に選ばれた。3年後,コカ生産者組合連合の事務総長に選出。1990年代半ばにボリビア政府がアメリカ合衆国の援助を受けコカ生産弾圧を始めると,左派政党の社会主義運動 MASを発足させるとともに,コカ生産者組合連合の名目上の会長を務めた。1997年,下院議員に当選。2002年には MASの候補として大統領選挙に立候補し,僅差でゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダに敗れる。2005年の大統領選挙に再度 MASから立候補,得票率 54%で,ボリビア初の先住民(アイマラ族)出身大統領にして,1982年以来初めて第1回投票で過半数を獲得した大統領となった。2009年1月,新憲法が国民投票で承認され,大統領の再選が認められ,国会解散権も付与された。2009年4月,大統領選挙を含む総選挙を同年 12月に前倒し実施することを認める法案に署名。ボリビアの多数派である先住民の支持を引き続き受け,再選(任期 5年)を果たした。
モラレス
Morales, Francisco de
[生]?
[没]元和8(1622).9.10. 長崎
スペインのドミニコ会士,殉教者,福者。マニラを経て,薩摩に上陸 (1601) 。薩摩,長崎で宣教,京都に聖堂や癩病院を建設したのち,慶長 18 (13) 年江戸におもむき幕府に厚遇された。元和3 (17) 年ドミニコ会管区長代理となったが,捕縛され,壱岐島で投獄,長崎で火刑に処せられた。 (→元和大殉教 )
モラレス
Morales, Diego de
[生]1604.10.13.
[没]寛永20(1643).3.25. 長崎
スペインのイエズス会宣教師,司祭,福者。メキシコを経て (1625) ,フィリピンに渡り (26) ,マニラのサン・ホセ学校の校長となった。ルビノの一行に加わり,江戸時代前期,鎖国下の薩摩に上陸 (42) したが,捕えられ,翌 1643年長崎で穴つるしの拷問を受けたのち処刑された。
モラレス
Morales, Cristóbal de
[生]1500頃.セビリア
[没]1553.9/10. マラガ?
スペインの作曲家。 1526~29年アビラ大聖堂の楽長をつとめ,35年ローマの教皇聖歌隊歌手となった。 45~47年トレドの楽長,51年マラガの楽長となる。スペイン最初のポリフォニー教会音楽の巨匠で,21のミサ曲をはじめとしてマニフィカト,モテトなど多数の教会作品を残した。
モラレス
Morales, Rafael
[生]1919
スペインの詩人。ソネット集『闘牛の詩』 Poemas del toro (1943) ではなやかに詩壇に登場,リベラ賞を受けた『アスファルトの歌』 Canción sobre el asfalto (53) が代表作。
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モラレス
没年:元和8.8.5(1622.9.10)
生年:1567.10.14
スペイン人ドミニコ会士。マドリード出身。1598年マニラに渡り,1601年同地の聖ドミニコ修道院長に任命された。翌慶長7(1602)年日本布教長として薩摩(鹿児島県)の甑島に渡来。その周辺の布教に従事していたが,同14年この地のキリシタン迫害が激化したため長崎に赴いた。同19年10月他の宣教師と共に追放されたが,沖に出たところで,あらかじめ待機していたキリシタンの小舟によって長崎に戻り,長崎代官村山等安の長男・村山徳安にかくまわれた。元和5(1619)年捕らえられ壱岐の獄につながれ,のち大村の牢に移され,元和8年長崎において殉教した。<著作>J.デルガード編『福者フランシスコ・モラーレス書簡・報告』(佐久間正訳)<参考文献>J.Delgado Garci´a《El Beato Francisco Morales O.P.ma´rtirdelJapo´n.Supersonalidadhisto´ricaymision‐era》,D.Aduarte《Historia de la Provincia del Santo Rosario de la Orden de Predicadores en Filipinas, Japo´n y China》Ⅰ,Ⅱ
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
モラレス(Luis de Morales)
もられす
Luis de Morales
(1515/1520―1586)
スペインのマニエリスムの画家。南西部のバダホスに生まれ、同地に没。生涯と作品に関しては不明な点が多い。孤高の宗教画家であるが、彼がフランドル絵画とイタリア絵画に通じているところから、その画業はポルトガルもしくはセビーリャで形成されたと思われる。イタリア滞在説もあるが、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチに学んだことは確かで、初期のマニエリスト、ベッカフーミらとの共通性もある。彼は各地の教会に数多くの祭壇衝立(ついたて)画を描いたが、その中心的主題は「聖母子像」「ピエタ」「エッケ・ホモ」などのキリスト受難図で、とくに後の二つの主題に関してはスペインにおける図像決定者の一人とされる。また人体の長身化において、スペインではエル・グレコを先駆する。彼の作品を支える精神は中世的なもので、その深い宗教性ゆえに「聖なるモラレス」Morales “El Divino”と通称される。
[神吉敬三]
モラレス(Francisco de Morales)
もられす
Francisco de Morales
(1567―1622)
スペイン人のドミニコ会宣教師。マドリード生まれ。聖グレゴリオ学院文学教授などを経て、1601年(慶長6)マニラで薩摩(さつま)(鹿児島県)の船員に勧められ、翌1602年同志14人とともに同会初の宣教師として来日した。薩摩で布教活動を行い、聖堂建立やハンセン病の病院設立などに尽力したが、1608年退去命令を受けて患者とともに長崎に移り、キリスト教禁制下の1619年(元和5)潜伏中に逮捕され、1622年長崎の首塚で火刑に処せられた。1867年、福音(ふくいん)殉教者に列せられた。
[磯見辰典 2018年2月16日]
モラレス(Cristóbal de Morales)
もられす
Cristóbal de Morales
(1500ころ―1553)
スペインの作曲家。セビーリャに生まれる。アビラやプラセンシアの大聖堂楽長を務めたあと、ローマに出て、教皇庁聖歌隊歌手として活躍。晩年にはスペインに戻って、トレドやマラガの大聖堂楽長を務めた。モラレスは16世紀前半のスペインにおける最大の作曲家で、当時ヨーロッパの音楽界をリードしていたフランドル人作曲家たちの影響を受け、フランドル様式によるミサ曲、モテトゥス、マニフィカト、ラメンタツィオなど、多数の宗教曲を書いた。ほかに、スペイン語とイタリア語による世俗作品もすこし残している。
[今谷和徳]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
モラレス Morales, Diego de
1604-1643 スペインの宣教師。
1604年10月13日生まれ。イエズス会司祭。マニラでコレジヨ院長をながくつとめる。布教と背教者フェレイラ(沢野忠庵)に回心をすすめるため,寛永19年ルビノらとともに薩摩(さつま)(鹿児島県)の下甑(しもこしき)島に上陸。捕らえられて長崎におくられ,拷問ののち寛永20年2月6日処刑された。38歳。ソリア出身。
モラレス Morales, Francisco de
1567-1622 スペインの宣教師。
1567年10月14日生まれ。ドミニコ会士。慶長7年(1602)薩摩(さつま)(鹿児島県)に来日し,14年島津氏に迫害されて長崎にうつった。19年禁教令によりマニラに追放されたが,長崎の村山徳安のもとに潜伏。元和(げんな)5年捕らえられ,8年8月5日火刑に処せられた(元和大殉教)。54歳。マドリード出身。
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