スペイン美術(読み)スペインびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「スペイン美術」の意味・わかりやすい解説

スペイン美術 (スペインびじゅつ)

スペイン美術が,ヨーロッパ美術の中でも特異な性格をもっている最大の理由は,スペインが地中海,ヨーロッパ大陸,アフリカ大陸そして大西洋という四つの文化圏が交接する半島国だというところにある。スペインは,古代からもろもろの民族と文化の坩堝(るつぼ)であった。旧石器時代から新石器時代にかけての,フランス南部と共通する,北部地方の洞窟壁画や南方系と思われるレバント地方の岩陰画(レバント美術),古代から歴史時代初期にかけてのフェニキア=カルタゴ,ギリシアといった植民民族と,同時代のイベロやセルティベロ(ケルト・イベリア)など原住民族の遺産,さらにローマ属州時代,そのローマ支配下の初期キリスト教時代,続く西ゴート時代,そして8世紀にわたるイスラム文化とキリスト教文化の併存・対立時代,および1492年に始まるキリスト教時代の遺産が重層的に残されているという,他に例のない多様性が見られるのもそのためである。

諸文化圏の交接点に位置するということは,各文化圏の中心からは最も遠いということで,文化原理が波及するのに時間はかかるが,一方その原理が,発生地で力を失い始めたときに,外縁部ではまったく新しい様式にさえ発展する可能性をもつという利点もある。フェニキアがもたらしたオリエント文化,続いて到来したアルカイク期のギリシア文化に刺激された前4~前2世紀のイベリア彫刻,14世紀にアルハンブラ宮殿のような,西欧世界唯一の人工のオアシスを創造したイスラム美術,16世紀ベネチア派の影響の上に成り立った17世紀スペインの輝かしいバロック絵画など,その好例であろう。こうした外縁文化の特徴は,他文化圏と接している場合はいっそう増幅されるとともに,異種の文化原理と融合し,思わぬ成果を発揮する可能性もある。今日にいたるスペイン絵画の出発点となった中世のモサラベムデーハルの美術などその典型であろう。しかもスペインの場合,異なった文化原理は,ほとんどの場合に支配勢力の交代によってもたらされた。したがって新しい原理への交換は強烈であり,ゴヤが代表的な例であるように予想外の創造力を誘発することもある。またスペイン美術が,この国の歴史のように断続的なリズムを刻み,他のヨーロッパ諸国に例を見ないほど政治的・イデオロギー的な制約を受ける理由もそこにある。ゴシック様式が,イスラム教徒に対する〈勝利者様式〉となって16世紀まで行われた事実や,16世紀から18世紀中葉までのスペイン美術が,後に述べる特殊ケースを除いて,プロテスタンティズムに対するカトリシズムの対抗宗教改革(反宗教改革)運動に奉仕したことなどその好例である。

以上のような文化外縁性と境界性を最も激烈に経験したのが,他のヨーロッパ諸国には例のない,キリスト教圏とイスラム教圏が自国領土内で対立・併存した中世の800年間であった。その間に,前述したような特性が現れるわけだが,北部キリスト教圏はすでに11世紀から完全に西欧キリスト教圏に繰り込まれていたし,サンチアゴ・デ・コンポステラが,エルサレムとローマに並ぶ三大聖地の一つとなっていた。つまりスペイン美術は,最初の汎ヨーロッパ様式であるロマネスクから今日にいたるまで,時差はあっても,ヨーロッパ美術に見られる様式展開のすべてを経験してきたのである。しかしその間に,北部キリスト教圏には六つの独立王国が誕生し,それらが,イスラム教徒が最後まで支配した南部とともに,今日にいたる自治意識の強い地方を形成し,しかもそれら地方は気候風土を著しく異にしていた。さらに,元来フランスやイタリアとの関係が深かった東部地方は地中海への進出を第一にし,中央部はイスラムに対する国土回復戦争レコンキスタ)を推進する一方,それぞれが対ヨーロッパ外交を異にしていた。これらの諸要素がスペイン美術の多様性と地方性を強めたのである。首都がマドリードに定められたのが16世紀後半になってからであったこともその傾向を助長した。それ以前は,諸キリスト教王国やイスラム王国の首都がその時々の文化の中心をなしていた。17世紀のベラスケス,スルバラン,ムリーリョといった巨匠たちを生んだのも,マドリードではなく,イスラム支配時代から重要な都市として繁栄し,後に新大陸との交易を一手に掌握したセビリャであったのである。

イスラムと対立・併存した8世紀間,スペインのキリスト教はファナティックで好戦的なものに変質した。そのことは,祭・政一致的な体制を整えた近世以後のスペインが中世的な精神を維持し続ける決定的な要因となった。特に国土統一のために宗教の純化を必要としたスペインは,すでに15世紀末,俗に宗教裁判として知られる異端審問制度を復活し,異端排除の意味から美術に対する監視態勢をも整えた。したがって,スペイン国王でもあった神聖ローマ皇帝カルロス5世の要請で開催され,プロテスタンティズムを異端としたトリエント公会議(1545-63)が発布した教令(美術に対する教令をも含む)を最も歓迎したのがスペインであるのもふしぎでない。16世紀以降のスペイン美術では,カトリック教義を擁護する対抗宗教改革運動に即した美術が主流となり,その傾向はゴヤの時代,つまり教会と美術が決定的に分離する18世紀中葉まで続いたのである。絵画を例にとれば,宗教画が圧倒的で,神話画は数えるほどしかなく,裸婦像にいたっては,ともに宮廷画家という特殊な立場にいたベラスケスの《鏡を見るビーナス》とゴヤの《裸のマハ》の2枚しか現存しないのである。しかし,こうした非ヨーロッパ的とさえ思える古さが,さまざまな文化原理や様式の混在と同様に,決してマイナス要因のみでないことは,すでに触れた美術現象や巨匠たち,さらにガウディ,ピカソ,ミロ,ダリといった19世紀から20世紀にかけての巨匠たちを想起すれば明らかであろう。文化の外縁性,境界性という情況に由来するさまざまな障害をプラス要因に変え,それらを新生の原理と融合させ,自己の感性に一致した偉大な創造を達成しうるのは天才のみであろう。スペインが一世紀に1人ないし2人の,巨峰ともいえる芸術家を生む背景もそこにある。そして,そうした巨匠たちに共通した態度は,いわゆるヨーロッパの支柱をなしてきた合理に背を向け,情意を貴び人間を全人的に表現することに全力を傾注していることである。こうした傾向は,巨匠たちのはるか裾野を固めるマイナーの芸術家たちにも共通して認められるもので,スペイン美術の根本的な特質なのである。

前3~後5世紀にローマは,その優れた建築・土木技術によって,帝国一の属州であるスペインの各地に神殿,劇場,凱旋門,水道橋,橋,浴場などを数多く建設し,そのいくつかは今日も偉容を誇っている。続く西ゴート時代(5~7世紀)の建築遺産はイスラム教徒に破壊されて数少ないが,現存するスペイン最古の教会サン・フアン・デ・ロス・バニョスSan Juan de los Baños(661)などに,ローマとビザンティンの影響を融合し,馬蹄形アーチと幾何学的な装飾モティーフを特徴とする独特な建築様式を見ることができる。イスラム教徒の半島侵入は,8世紀から10世紀にかけての北部キリスト教地域にアストゥリアスとモサラベという,ともにユニークな様式を生んだ。イスラム勢力に追われた西ゴート・キリスト教徒は,半島北西端に退いてアストゥリアス王国を建設,西ゴートの伝統を継承発展させ,サンタ・マリア・デ・ナランコSanta María de Naranco(848)に代表される,石造筒形穹窿を横断アーチと控え柱で支えるという,ロマネスク様式を先駆する建築群を残した。これに対し,イスラム教圏に残留したキリスト教徒つまりモサラベが迫害を逃れて北部に造ったキリスト教建築が,モサラベ建築である。馬蹄形アーチをはじめ,コルドバのイスラム様式から多くを学び,サン・ミゲル・デ・ラ・エスカラダSan Miguel de la Escalada(913)のように,バシリカ形式にイコノスタシス,交差リブの丸天井などを特徴とするスペイン独自の教会様式を樹立した。スペイン独自といえば,優位にたったキリスト教支配地域に在住するイスラム教徒が,その建築技術をもってキリスト教に奉仕してできたムデーハル様式がある。煉瓦やセッコウを構造体に使い,タイルやアラベスク,さらに馬蹄形アーチや木組天井などを駆使するこの様式は11世紀に始まり,ロマネスク時代(サアグンのサン・ティルソ教会ほか),ゴシック時代(グアダルーペ修道院ほか)を通じて隆盛を極め,遠く新大陸にまで波及したばかりか,その好尚は今日にまで伝えられている。

キリスト教圏とイスラム教圏が対立・併存した中世は,以上のような混合様式を生むと同時に,イスラム教徒は主として南部に,キリスト教徒はまず北部にそしてレコンキスタの進展とともに全域に,それぞれが独自の様式を展開していった。スペイン・イスラム建築(8~15世紀)も戦乱によって破壊されたものが多いが,その代表作が今日に伝えられている。まず後ウマイヤ朝の遺産を代表するコルドバのメスキータmezquita(8~10世紀)は,平面が136m×186m,1000本の円柱が林立する巨大な祈りの殿堂で,ローマ時代の水道橋にヒントをえた二重アーチ構造をとるなど,スペイン・イスラム建築の独自性を見せている。偶像崇拝を禁ずるイスラム美術はアラベスク文様を発展させたが,後期コルドバ様式で豊かさを加えた装飾性は,続く北アフリカ系のムワッヒド朝によって発展し,セビリャのヒラルダGiraldaの塔(12世紀)にその優雅な結晶を見せている。この傾向は,グラナダのナスル朝において極限に達し,西欧世界で唯一のイスラム宮殿を生んだ。この地中海風の中庭形式によるアルハンブラ宮殿(13~15世紀)は,ヤシの樹を抽象化した優雅な円柱,タイル,スタッコ,アラベスク文様などを駆使した建物に,光,水,植物を配した,まさに人工のオアシスであり,地上の楽園である。スペイン・イスラム建築に共通しているのは虚空を嫌う傾向だが,この空間感情はキリスト教美術にも影響を与えた。
イスラム美術
 一方,ヨーロッパとの関連を強めたキリスト教圏では,まずロマネスク(10~13世紀)が,続いて勝利者様式としてのゴシック(13~16世紀)が採り入れられた。ロマネスク建築は,9世紀にカロリング朝から独立した北東部地中海岸のカタルニャ派と,聖地サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路様式という二様の展開を見せる。カタルニャでは,すでに957年に3列の筒形穹窿を架したロマネスク教会が建てられているが,イタリア・ロンバルディア様式の波及によって一大発展期を迎え,旧サン・ピエトロ大聖堂に似た5廊式の,リポルのサンタ・マリア修道院教会(1032)をはじめ,大小無数の教会群を残した。一方中部カスティリャを中心とする地方では,フランスの影響を受け,巡礼路に沿ってハーカ,フロミスタ,レオンなどの要所に,ラテン十字プランにトリビューンをもつ大規模な聖堂が建てられた。終着点のサンチアゴの大聖堂は,出発点の一つであったフランスのトゥールーズのサン・セルナン大聖堂などと共通する様式をもっている。ロマネスク様式は,南限のセビリャに近づくに従ってスペイン化されるが,《ヨハネの黙示録》に代表される終末論的な信仰の時代に,イスラムに対するレコンキスタを戦っていたスペイン・キリスト教徒にとって,この閉鎖的な建築様式は,地上の神の国を造る理想的な様式として愛され,中部以北を席巻した。同じくフランス起源のゴシックは,まず13世紀にブルゴス,レオン,トレドという当時の主要都市に純フランス様式の大聖堂を残し,レコンキスタの進展とともに南進,スペイン的な性格を強めていった。14世紀のカタルニャ地方は,単身廊で飛梁を周壁内におさめ八角形の鐘楼をもつ,水平性の強いマッシブなゴシック様式を樹立し,ヘロナやマリョルカ島パルマの大聖堂などを残した。奪回の遅れた南部セビリャに建てられた,世界で3番目に大きいキリスト教教会のセビリャ大聖堂(15~16世紀)は,モスクの跡地に建てられたこともあって長方形プランで水平性が強く,鐘楼となっているヒラルダの塔とみごとな調和を見せている。後期ゴシックが,そのムデーハル化ともいうべき国民様式のイサベル様式を発展させたのは注目に値する。
ゴシック美術 →ロマネスク美術

ルネサンス(16世紀)は,ゴシックとは逆に,きわめてスペイン的な様式から純イタリア様式へと展開した。これは,まずゴシックの構造にルネサンス的装飾モティーフ(円形浮彫,胸像,紋章,グロテスク文様など)をはりつけたような様式,その細工が銀細工plateríaを想起させるところからプラテレスコとよばれた様式から出発した(プラテレスコ様式)。その代表作はサラマンカ大学正面入口だが,時とともに,アルカラ・デ・エナレス大学ファサードのように構造と装飾の融合が進み,画家マチューカPedro Machuca(?-1550)がアルハンブラ宮殿内に設計したカルロス5世宮において純イタリア様式に,そしてフェリペ2世が心血を注ぎ,エレラがその理想を実現したエル・エスコリアル修道院において厳格様式に到達した(エレラ様式)。この近世スペインの一大記念碑は,離宮と修道院と教会と王家の霊廟を総合するというもので,対抗宗教改革運動の本部にふさわしい建物であった。バロック(17~18世紀)も,構造や内部空間のバロック化よりも装飾に重点が置かれたところにスペインの特徴がある。スペイン・バロック建築を代表するのが,もともとは祭壇衝立の制作者であったチュリゲラ一族であるところにもその特性がうかがえる(チュリゲレスコ)。ほとんどが18世紀のもので,チュリゲラの手になるサラマンカのサン・エステバン聖堂の祭壇衝立,弟子ナルシーソ・トメーがトレド大聖堂内に,建築,彫刻,絵画の3要素を融合して作り上げた幻視的な祭壇トランスパレンテTransparenteなどがその代表作である。構造そのものにバロック感覚が見られる例としてはムルシア大聖堂ファサードなどがあるが,バロック様式は,スペイン本国よりもむしろ新大陸において,マヤやインカの装飾伝統と融合し,けんらん豪華な花を咲かせた(ラテン・アメリカ美術)。
バロック美術
 スペインのバロック装飾は,1700年に支配勢力がハプスブルク王朝からフランス系ブルボン王朝に代わってロココ的色彩を加えるが,1760年ころに公式様式としての新古典主義が優位に立ち,19世紀まで行われた。ブルボン王朝が造営したマドリード王宮やグランハ離宮は,バロックと新古典主義が調和した建築で,内部にはロココ調の装飾が施されている。スペイン新古典主義の代表的な建築には,ビリャヌエバJuan de Villanueva(1731-1811)がイスラム以来の伝統的な建築材である煉瓦を石と混用して建造したプラド美術館(1787)がある。スペイン建築がその驚くべき個性を発揮したのは,19世紀末のモデルニスモの巨匠アントニー・ガウディにおいてであった。中世スペインのイスラム様式とゴシック様式を出発点としたガウディは,きわめて合理的な構造の上に中世的もしくは原初的な外皮をもつ独創的な建築を創造した。サグラダ・ファミリア教会に代表される合理による非合理の表現,見る者に語りかける建築は,20世紀後半になって世界的に注目を浴びつつある。20世紀のスペイン建築は,内戦(1936-39)という悲劇的な中断期はあったが,トローハEduardo Torroja(1899-1961)やセルトJosé Luis Sert(1902-83)など世界的な技術者や建築家を生み,1960年代以降は,その経済発展とともに,若い建築家たちによって国際的な潮流と軌を一にした個性的な実験が次々と試みられている。

古代イベリア彫刻,属州時代のローマ彫刻以後,スペインの彫刻も他のヨーロッパ諸国同様,ロマネスク時代に建築に付随して復活した。石彫の傑作としては,リポルの修道院教会の入口を飾る,キリスト教の凱旋門ともいえる大浮彫,シロス修道院回廊のレリーフや柱頭彫刻,さらにサンチアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の正面入口を構成する《栄光の門》などがある。ゴシック時代は,ロマネスクのファサード彫刻群の形式を継承する一方,石棺彫刻を発展させる。しかしスペイン彫刻史にとって重要なのは,ロマネスク時代に現れた木造極彩色の聖像彫刻である。それは,ゴシック時代に祭壇衝立が大発展期を迎えるとともに隆盛を極め,ルネサンス時代に入っても衰えるどころか,対抗宗教改革運動に即して,18世紀中葉までのスペイン彫刻のほとんどすべてが,このジャンルに終始したからである。こうした宗教彫刻が輝かしい成果を収めたのはマニエリスムとバロックの時代で,マニエリストとしては,きわめて表現主義的なA.ベルゲーテとJ.deフーニが傑出している。バロック時代に入るとカスティリャ派のG.フェルナンデスがマニエリスムの表現主義的傾向を継承発展させた。それに対して南部セビリャ派のマルティネス・モンタニェース,グラナダ派のA.カーノやP.deメーナが優雅なレアリスムを展開し,当時の民衆の素朴な信仰心にこたえたのである。

スペイン絵画の源流を遡及的に確認しうるのはモサラベ美術の写本挿絵までで,それ以前のものは現存しない。聖書や《ヨハネの黙示録》の注解書に付されたモサラベ・ミニアチュールは,古代末期の図像的形態,イスラム的モティーフと色調,スペイン的な表現主義,宗教的な幻視と象徴性が融合したきわめて特異な絵画世界である。その代表作は,8世紀後半にリエバナの修道院長ベアトゥスが《ヨハネの黙示録》に注釈と挿絵を加えたベアトゥス本だが,現存するものは10世紀から13世紀にかけての写本のみである。ロマネスク絵画--壁--は建築同様に,ロンバルディアとビザンティンの影響を受けたカタルニャ派と,フランスの影響を受けた巡礼路沿いの旧カスティリャ派に分かれる。カタルニャ派の傑作はすべて,バルセロナのカタルニャ美術館に収蔵されているが,なかでも表現性豊かで荘厳な《パントクラトル》は,ヨーロッパ・ロマネスク絵画の最高傑作である。旧カスティリャ派の代表作は,レオンのサン・イシードロ教会〈諸王のパンテオン〉の穹窿部全面を覆う壁画で,明るく牧歌的な感じを特徴としている。カタルニャでは祭壇の前飾や天蓋用の板絵も制作されたが,それは,ゴシック時代の大祭壇衝立画に発展していく。ゴシック時代には,13世紀後半にフランス・ゴシックが流入,14世紀後半には国際ゴシック様式が,そして15世紀にはフランドル様式が流入し,遅れて波及したイタリア・クワトロチェント様式(初期ルネサンス様式)とともにすべてが吸収されてスペイン絵画の基礎を形成していく。この時代を代表するのが,J.ウゲット,B.ベルメホ,F.ガリェーゴらの個性豊かな画家たちである。

 スペインの中世は15世紀末まで続くので,バレンシアのオソーナRodrigo de Osona父子,カスティリャのP.ベルゲーテ,セビリャで活躍したドイツ系のフェルナンデスAlejo Fernández(1470ころ-1543)を例外として,ルネサンスの開花はみられず,16世紀にはほとんどのスペイン画家たちはマニエリストであったといえる。バレンシア派のリャーノスFernando de Llanos(生没年不詳)とヤーニェスFerdinando Yanez(?-1560以前)がレオナルド様式を,またマシップVicente Macip(1490-1550)と息子J.deフアーネスがラファエロ様式を,カスティリャ派のP.マチューカがミケランジェロ様式を導入した。そして〈聖なる〉L.deモラーレスは,スペイン南西部のエストレマドゥラ地方でフランドル派とイタリア派を独学し,中世的な精神が息づく神秘的なマニエリスム宗教画を完成した。サンチェス・コエリョによって,スペイン肖像画の基礎が築かれたのもこの頃である。

16世紀は先に触れた通り,対抗宗教改革が始まった時代である。モラーレスの絵画は,中世から近世への過渡期におけるスペインの宗教的な自己規制および自己改革の過程で形成された。同様の傾向がトリエント公会議によってカトリック世界の公式態度となった後にスペインに現れた。それがエル・グレコである。彼は,クレタ島に生まれ,ポスト・ビザンティン様式の画家として形成されたと思われる。またベネチアとローマでイタリアの後期ルネサンスからマニエリスムにいたる美術を学んだのみならず,人文主義者としての教養をも積んだ。その後彼がスペインに渡って大成しえたのは,人文主義者でありながら対抗宗教改革の推進者でもあった大学出の神父たちがトレドにいて,彼のパトロンとなったからであった。まさに,〈クレタが彼に生命を与え,トレドが彼に筆を与えた〉のである。

 17世紀のスペイン・バロック絵画は,様式的には異なるが,対抗宗教改革路線に奉仕するという意味ではマニエリスムと同一線上にあった。その中で唯一の例外は,宮廷画家ベラスケスであった。それは,対抗宗教改革を推進した国王の宮廷こそ,唯一の宗教的治外法権の場であり,彼には別の任務が課せられていたからである。若くして,地方画家から一躍首席宮廷画家となったベラスケスの主たる仕事は,王家の肖像画を描き,王が希望する作品を描くことであった。そのため,宮廷役人でもあった彼の作品は実に数少なく,しかもほとんどの作品が門外不出という変則的な制約を強いられた。強烈な明暗法から出発したベラスケスは,そうした制約をプラスに転じ,膨大な王家コレクションの研究と自分の作品との比較,2度にわたるイタリア滞在でえた教訓,および生得の視覚的真実への忠誠を貫き,ベネチア派に始まる空気遠近法を完成するとともに〈純粋視覚の芸術〉を達成した。マネから〈画家の中の画家〉と絶賛される絵画に到達したのである。ベラスケスに対して,修道士の画家としてレアリスムと神秘主義を融合したスルバラン,マリア礼賛が異常な高揚を見せた時代にスペイン民衆の心をとらえた宗教画家ムリーリョ,ムリーリョと同時代人で,〈生の悲劇的感情〉の表現様式としてのバロックを代表するバルデス・レアルといった,スペインの美術行政の支配下にあった世俗の画家たちはいうまでもなく,若くしてイタリアに渡り,カラバッジョの明暗描法を継承発展させ,スペインの副王領ナポリで大成したJ.deリベラでさえ,スペイン王家の注文によって殉教図を数多く描いているという意味で,対抗宗教改革運動という制約内で制作した画家であったのである。

こうした,美術と宗教の密接不可分な関係がかなりゆるやかになった時代に活躍したのがゴヤである。1700年を期して,それまでの2世紀間この国を支配したスペイン・ハプスブルク王朝は,フランス系ブルボン王朝に取って代わられた。ゴヤの時代は,フランス直輸入の王立サン・フェルナンド美術アカデミーが創設(1754)されるなど,芸術の官制化が始まり,政治・文化のフランス化つまり啓蒙化を推進する一団と,伝統墨守派との間に抗争が繰り返される一方,ナポレオン軍によるスペイン支配とそれに対する独立戦争というように,国内外に起因するさまざまな流れと力が対立する危機の時代であった。こうした中にあってゴヤは,自らも波乱の人生を生きながら,彼が生きる社会の人間とその実相を,スペイン絵画に伝統的な自然主義と人間中心主義に則し,壁画,油彩画,版画,素描,ミニアチュールといった多様なジャンルを通して描き続け,時代の証人となった。そればかりか,46歳で全聾となり,啓蒙思想に傾倒し始めた以後の彼の絵画は,その研ぎ澄まされた洞察力,生得的な民衆の魂,卓絶した技法,自己表白的な傾向などにより,ロマン主義はもちろん,表現主義をはじめとする近代絵画の先駆となったのである。

 19世紀ヨーロッパ美術は,新古典主義からロマン主義,写実主義,印象主義へと移行し,その影響はスペインにも及ぶが,この時代の注目すべき画家といえば,19世紀後半に活躍したF.deマドラーソ,ロサーレスEduardo Rosales(1836-73),M.フォルトゥニー,J.ソローリャなどにすぎない。しかし,世紀末から20世紀初頭にかけて,マドリード派では,ゴヤの勇猛な流れをくむI.スロアーガ,J.G.ソラーナ,またモデルニスモを標榜し,パリの新潮流に注目するバルセロナ派では,カサスRamón Casas(1866-1932),ノネイユ(ノネル)Isidro Nonell(1873-1911)らが活躍した。ゴヤ没後53年目に,スペイン南部の港町マラガに生まれたピカソが,少年時代に学びつくした19世紀官学派(アカデミズム)絵画を自己否定し,〈青の時代〉を開拓したのは,19世紀末のバルセロナにおいてであった。それ以後のピカソは,パリとスペインを往復しながら,イベリア彫刻,黒人彫刻,エジプト壁画などのもつ現代的な創造性に着目した《アビニョンの娘たち》によって現代絵画の始祖となり,キュビスム革命によって,ルネサンス以来の絵画伝統を否定し,完全に自律的な二次元空間としての絵画への道を開いたのである。ピカソとともにキュビスム運動を進めたフアン・グリスJuan Gris(1887-1927),シュルレアリスムの枠を越したJ.ミロ,S.ダリ,さらにはタピエスAntoni Tapiès(1923- )を中心とした1960年代のスペイン・アンフォルメルの活躍などが,20世紀を,スペイン絵画史上の第2の〈黄金時代〉たらしめている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スペイン美術」の意味・わかりやすい解説

スペイン美術
すぺいんびじゅつ

スペインはヨーロッパ、アフリカ、地中海、大西洋という四つの文化圏の接点に位置する。そのために古代から民族と文化のるつぼと化し、歴史も外部からの衝撃によって断続的な展開を示してきた。こうした特殊条件のもとで美術も、特異な混合様式を生むとともに、中世から18世紀にかけて、政治と国教としてのカトリックに密接に結び付いて発展した。スペイン美術は17世紀と20世紀に一大発展期を迎えたが、その中心ジャンルは絵画で、総体的にいって自然主義、表現主義、人間中心主義的な傾向が強い。

[神吉敬三]

古代――民族と文化のるつぼ

旧石器時代のアルタミラ洞窟(どうくつ)壁画をはじめ、原始時代の美術遺産も数多いが、イベリア半島に個性的な造形美術が現れたのは、植民のために移住したフェニキア人、ギリシア人、カルタゴ人が東方美術を伝えてからで、その影響下に、先住イベロ人は紀元前4世紀から、造形性豊かな彫刻と陶器を中心とするイベリア美術を展開した。

 7世紀に及ぶローマ属領時代の遺跡も、イタリカ、メリダをはじめ各地に散在し、発掘が続いている。北方から侵入したゲルマン系のキリスト教徒による西ゴート時代(5~8世紀初頭)は、ローマの遺産に北方の抽象傾向を加えた美術を遺(のこ)した。

[神吉敬三]

中世――二つの宗教の併存対立

711年イスラム教徒が北アフリカから侵入、1492年までキリスト教とイスラム教の併存対立時代が続き、その後のスペイン美術の展開に大きな影響を与えた。イスラム教徒は南部を中心に、コルドバのメスキータMezquita(大モスク、8~10世紀)からセビーリャのヒラルダの塔La Giralda(12世紀)、そしてグラナダのアルハンブラ宮殿(14~15世紀)に至る華麗な建築様式を次々と展開、その装飾過多の傾向と特異な空間感情は、キリスト教建築にも影響を与えた。

 一方、北部のキリスト教圏では、西ゴートの伝統を継承するアストゥリアス美術(8~10世紀)、イスラムに学んだ技術でキリスト教の主題を扱ったモサラベ美術(9~10世紀)などが行われた。後者ではとくにミニアチュールが有名で、代表作『ベアトゥスの黙示録注解書』(ベアト本)は数多くの写本を生み、その後のスペイン絵画に影響を与えた。

 続いて西ヨーロッパとの関係強化を反映し、中世の二大様式であるロマネスク(11~13世紀)とゴシック(13~16世紀)が栄えた。ロマネスク建築は、リポール修道院などを中心とするカタルーニャ地方のロンバルディア系と、サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂を終着点とするサンティアゴ巡礼路に沿ったフランス系という二様の展開をみせ、南下するにしたがって民族的な性格を増していった。彫刻も復活し、「栄光の門」など建築に付随したもののほかに、18世紀まで行われることとなる木造極彩色の聖像彫刻が多くつくられた。壁画も盛んに行われ、バルセロナのカタルーニャ美術館には世界一のコレクションがある。

 ゴシックは、イスラムに対する国土回復戦争(レコンキスタ)の進展とともに勝利者様式となり、半島の最南端にまで及んだ。建築は、13世紀のレオン、ブルゴス、トレドの各大聖堂はフランスに倣ったが、南下するにしたがってスペイン化され、セビーリャ大聖堂のように水平性が強調されていった。その間、イスラム様式とロマネスク、ゴシックがそれぞれに融合したムデハル様式も生まれた。彫刻は、自然主義的傾向と表現性を増した。絵画は、イタリア・トレチェント(1300年代の様式)と国際ゴシックの影響に続き、15世紀フランドル派を積極的に吸収して、スペイン・レアリスム絵画の基礎を築いた。

[神吉敬三]

16、17世紀――黄金時代

15世紀末にイスラムを駆逐して国土統一を果たしたスペインは、「新大陸の発見」、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世のスペイン王即位(カルロス1世)などにより、一気に世界一の大国となり、今度は新興プロテスタントによる宗教革命に対抗するカトリックの旗手となった。16世紀はルネサンスとマニエリスム、17世紀はバロックの時代だが、スペインでは、これら両世紀の美術を鼓舞したのは、対抗宗教改革の精神であった。

 ルネサンス建築は、ゴシック的な色彩の強いイサベル様式に続いて、サラマンカ大学正面などにみるスペイン独特の装飾過剰なプラテレスコ様式に始まり、ホアン・デ・エレーラJuan de Herrera(1530ごろ―1597)のエル・エスコリアル(修道院・離宮)にみられる純イタリア様式に行き着いた。彫刻と絵画は逆に、マニエリスムを出発点として、次の世紀にスペイン的個性を確立する。彫刻ではアロンソ・ベルゲーテAlonso Berruguete(1489―1561)らによる祭壇衝立(ついたて)用の木造彩色の表現主義的な聖像が主流を占めた。絵画では、「聖なる」モラレス(ルイス・デ・モラレス)、スペイン初の肖像画家アロンソ・サンチェス・コエーリョAlonso Sánchez Coello(1531/1532―1588)に続き、宗教画家エル・グレコが黄金時代の到来を告げた。

 バロック建築もプラテレスコ同様に過剰装飾を特徴とし、チュリゲーラChurriguera一族とその弟子たちが活躍した。彫刻も、伝統的な聖像彫刻が主流をなし、カスティーリャの表現主義的なグレゴリオ・フェルナンデスGregorio Fernández(Hernández、1576ごろ―1636)、アンダルシアのやや甘美な傾向のホアン・マルティネス・モンタニェースJuan Martínez Montañés(1568―1649)らが傑出している。絵画では、ホセ・デ・リベラ、フランシスコ・デ・スルバラン、ディエゴ・ベラスケス、バルトロメ・ムリーリョ、ホアン・デ・バルデス・レアールらの巨匠が輩出、ベネチア派とフランドル派の教訓を生かしながら、スペイン的なレアリスム絵画を展開し黄金時代を築いた。

[神吉敬三]

18~19世紀――ブルボン王家の支配から近代美術の草創

1700年に始まった王位継承戦争の結果スペインの支配者となったフランス系ブルボン王家は、アカデミー制度を導入し、新古典主義を強制するとともに、スペイン人のバロック的性向を嫌って、外国人芸術家を数多く招聘(しょうへい)した。18世紀にスペイン美術は大きな危機に直面したが、そのとき背理の大爆発を遂げたのが近代絵画の先駆者フランシスコ・デ・ゴヤであった。ゴヤ以後ふたたび沈滞したスペイン美術は、19世紀末から20世紀にかけて第二の黄金時代を迎えることになる。

[神吉敬三]

20世紀

スペイン内戦まで

建築家であったアントニオ・ガウディを例外として、キュビスムを先導したパブロ・ピカソ、ホアン・グリス、シュルレアリスムのサルバドール・ダリやジョアン・ミロ、ピカソの鉄彫刻に技術上の助言を与えたことでも知られるフリオ・ゴンザレスJulio Gonzalez(1876―1943)、後期キュビスム彫刻のパブロ・ガルガーリョPablo Gargallo(1881―1934)など、20世紀前半のスペインを代表する芸術家の多くはパリで活躍した。しかし彼らの作品には、スペイン、あるいはカタルーニャの風土や精神が根底にあると指摘される。また一方で、そうした主流の動向とは別に、地域主義運動の噴出やアメリカ・スペイン戦争(1898)の敗北が引き金となり登場した「98年の世代」に共鳴して、イグナシオ・スロアーガIgnacio Zuloaga(1870―1945)やホセ・ソラーナらが、暗く悲惨な民衆的テーマを描いていた。

[保坂健二朗]

スペイン内戦から1950年代

スペイン内戦(1936~1939)の真っただ中の1937年に行われたパリ万国博覧会において、他館が科学技術を称揚する楽観的雰囲気のなか、スペイン・パビリオンだけはフランコ政権を批判するプロパガンダの様相を呈していた。バルセロナの建築家、都市計画家のホセ・ルイス・セルトJosep Lluis(José Luis) Sert(1902―1983)によって設計されたこのパビリオンの室内は、内戦中の不正、虐殺に対する芸術家の怒りで埋めつくされた。ピカソによる『ゲルニカ』はその一つである。

 フランコ政権下の芸術は、検閲とアカデミーの支配による停滞状態にあった。しかし1947年、アントニ・タピエスを含む芸術家、文学者、哲学者がバルセロナで創設した「ダウ・アル・セットDau al Set」は、シュルレアリスムやダダの影響下、潜在意識を表現しようとするもので、カタルーニャの地にふたたび同時代美術の躍動感を吹き込んだ。それに続いて1957年マドリードで創設された「エル・パソEl Paso」は、アントニオ・サウラAntonio Saura(1930―1998)やマノロ・ミリャーレスManolo Millares(1926―1972)により、スペインにおけるアンフォルメル運動の拠点となった。

[保坂健二朗]

1960年代以降

1960年代以降には、ミニマルだが量塊感のある彫刻で知られるエドゥアルド・チリダEduardo Chillida(1924―2002)、空想的リアリズムのアントニオ・ロペス・ガルシアAntonio Lòpez García(1936― )、ポップで風刺的なエドゥアルド・アッローヨEduardo Arroyo(1937―2018)がいる。それ以降の世代では、スザーナ・ソラーノSusana Solano(1946― )、フアン・ムニョスJuan Muñoz(1953―2001)やクリスティーナ・イグレシアスCristina Iglesias(1956― )による立体表現の活躍が目覚ましい。1990年代、バスク行政府により計画されたビルバオ市再生プロジェクトの一つ、ビルバオ・グッゲンハイム美術館の商業的成功や、バルセロナ現代美術館の開館が話題となったが、一方でそれは、美術のグローバル化を意味してもいる。

[保坂健二朗]

建築

建築では20世紀初頭、モデルニスモmodernismoとよばれるスペイン版アール・ヌーボーがバルセロナを中心に栄えた。なかでもガウディの建築は、もはやいかなる様式も超える独自の構造と装飾をもっており、多くの前衛的芸術家に衝撃を与えた。しかし続くフランコ政権期の圧政は、セルトやフェリックス・キャンデラFélix Candela(1910―1997)の亡命、すなわちスペイン建築の停滞を招いたのであった。1960年代のモダニズム復興期を経て、1970年代には歴史的古典主義のリカルド・ボフィルや、批判的地域主義、文脈主義のラファエル・モネオRafael Moneo(1937― )による活躍が始まる。1980年代にはサンチアゴ・カラトラーバSantiago Calatrava(1951― )による独創的な空間と構造をもつ建築が注目を集めた。

[保坂健二朗]

『林屋永吉・神吉敬三編『世界美術大系17 スペイン美術』(1962・講談社)』『神吉敬三編『世界の博物館16 スペイン・ポルトガル博物館』(1979・講談社)』『主婦の友社編・刊『エクラン世界の美術16 スペイン・ポルトガル』(1981)』『『原色世界の美術5 スペイン・ポルトガル』(1983・小学館)』『『世界美術の旅12 スペイン物語』(1989・世界文化社)』『田島恭子・上田雅子・星和彦著『ヨーロッパの建築・インテリアガイド――歴史的建築物から美術館、ショップまで 上』(1991・ニューハウス出版)』『F・チュエッカ著、鳥居徳敏訳『スペイン建築の特質』(1991・鹿島出版会)』『菅井日人著『スペインの大聖堂』(1992・グラフィック社)』『馬杉宗夫著『スペインの光と影――ロマネスク美術紀行』(1992・日本経済新聞社)』『岡村多佳夫著『スペイン美術鑑賞紀行1 マドリード・トレド編』(1995・美術出版社)』『岡村多佳夫著『スペイン美術鑑賞紀行2 バルセロナ・バレンシア編』(1996・美術出版社)』『神吉敬三著『巨匠たちのスペイン』(1997・毎日新聞社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スペイン美術」の意味・わかりやすい解説

スペイン美術
スペインびじゅつ
Spanish art

1879年に発見されたアルタミラ洞窟画をはじめ,石器時代の遺跡が多い。本来のスペイン美術がその特色を初めて明らかにするのは 9~10世紀のモサラベ様式である。これはイスラム教徒支配下のスペインのキリスト教美術イスラム美術の様式が混合したものであるが,東方的性格のほうが強い。11世紀に入るとスペインで活動したフランスのクリュニー修道院の活動にも刺激されてフランス・ロマネスクとの接触が始まった。11~13世紀にトレドセビリアなどの都市がキリスト教徒によって取り返されたが,その過程で生まれたのが,ゴシックとイスラム様式の混合したムデハール様式である。1479年カスティリア王国アラゴン王国が合同して統一的なスペイン王国を実現すると,フランドルとの関係が強まり,フーベルト・ファン・アイク,ヤン・ファン・アイク,ロヒール・ファン・デル・ワイデンらに代表されるフランドル絵画(→フランドル美術)の影響が現れ始める。16世紀にはエルエスコリアル宮(→エルエスコリアル修道院)を居城としたハプスブルク家のフェリペ2世の時代には,エル・グレコがトレドで活動し,神秘性の濃いマニエリスム美術を形成した。ルイス・デ・モラレスもエル・グレコとほぼ同時代の宗教画家で,これよりやや遅れて出たフアン・サンチェス・コタンはボデゴンと呼ばれる静物画を得意とし,後代に影響を及ぼした。17世紀のスペインはオランダとともに絵画の黄金時代を迎え,ディエゴ・ベラスケスをはじめ,フランシスコ・デ・スルバラン,ホセ・デ・リベラ,バルトロメ・エステバン・ムリリョ,フアン・デ・バルデス・レアールらが輩出した。彫刻ではすでに 16世紀にアロンソ・ベルゲテとファン・デ・フニの 2人の重要な作家が出たが,17世紀に入るとグレゴリオ・フェルナンデス,P.ロルダン,アロンソ・カーノ,ペドロ・デ・メーナ,F.サルシリョらが活躍した。その作品の大半は彩色木彫で,徹底した写実様式のなかに収められた熱烈な宗教感情はヨーロッパ彫刻のなかでも異彩を放っている。18~19世紀は概して低調で,18世紀後半のマドリードの宮廷で活躍したのはジョバンニ・バティスタ・ティエポロ,アントン・ラファエル・メングスら外国から招かれた画家であったが,そのなかにあってフランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスのみはスペイン絵画史上最大の天才の一人として近代絵画への道を切り開いた。ゴヤの近辺ではゴヤの義兄で風俗画家のフランシスコ・バイユー,肖像画家の V.ロペスがわずかに注目される。19世紀ではマドラーソ父子がアカデミックな画風を展開した。世紀末のアール・ヌーボー様式はスペインにも及んだ。画家ではおもに下層民などを描き,若きパブロ・ルイス・イ・ピカソの友人であった I.ノネルがあげられる。20世紀のスペインはピカソをはじめ,ホアン・グリス,シュルレアリスト(→シュルレアリスム)のサルバドール・ダリ,ジョアン・ミロ,オスカル・ドミンゲス,アントニ・タピエスらの画家を生み,また彫刻ではもっぱら鋳鉄を素材として用いたフリオ・ゴンサレスらが出たが,彼らの多くはスペインを離れ,フランスを中心に活躍した。

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世界大百科事典(旧版)内のスペイン美術の言及

【バロック美術】より

…一般には,17世紀初頭にイタリアのローマで誕生しヨーロッパ,ラテン・アメリカ諸国に伝播した,反古典主義的な芸術様式をいう。 バロック(フランス語でbaroque,イタリア語でbarocco,ドイツ語でBarock,英語でbaroque)という語の由来については2説ある。一つはイタリア語起源説で,B.クローチェによると,中世の三段論法の型の一つにバロコbarocoと呼ぶものがあり,転じて16世紀には不合理な論法や思考をバロッコbaroccoと呼ぶようになった。…

※「スペイン美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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