フランスのシャンソン歌手、映画俳優。イタリアのミラノに近いモンスマーノに生まれる。本名Ivo Livi。ユダヤ人のため一家はファシストに追放され、2歳のときにマルセイユに移住し、以後同地で育つ。5歳のときにフランスに帰化。幼いときから歌の才能を示し、のど自慢などにも出ていた。1944年ABC劇場に出演してパリ・デビューを果たし、その後ピアフに才能を認められ、数々の忠告を受けるようになる。1949年にエトアール劇場で行ったワンマン・ショー形式のリサイタルの成功により、名声を確立した。レパートリーはシャンソン・レアリストの歌から、文学的シャンソン、社会派の歌、トレネ譲りの軽妙なリズムとユーモアにあふれた歌に至るまできわめて広いものがある。代表的名唱に『枯葉』『ガレリアン』『パリで』『ルナ・パーク』など。
映画出演は1945年からで、とくに1952年の『恐怖の報酬』で巧みな演技をみせ、以後映画俳優として国際的に活躍するようになる。そのほかの映画出演に、1951年に結婚したシモーヌ・シニョレSimone Signoret(1921―1985)と共演の『サレムの魔女』(1956)、コスタ・ガブラス監督の三部作『Z』(1968)、『告白』(1969)、『戒厳令』(1972)など。さらに、政治・平和運動などへの積極的な参加でも知られた。
[田井竜一]
『R・カナヴォ、R・キクレ著、長塚隆二訳『イヴ・モンタン――ある男の歌』(1982・早川書房)』▽『H・アモン、P・ロトマン著、土屋進訳『イヴ・モンタンぼくの時代』(1995・文芸春秋)』
第2次大戦後のシャンソン歌手,フランス映画の大スター。本名イボ・リビIvo Livi。イタリア北部で生まれ,2歳のとき家族はマルセイユに移り,1926年にフランス国籍を取得した。貧しかったので11歳のときからさまざまな労働に従事。17歳のときからキャバレーで歌い,44年1月,パリに進出。エディット・ピアフに認められて芽が出始め,50年《バルバラBarbara》,52年《ガレリアンLe galérien》でディスク大賞を獲得。映画出演の第2作目《夜の門》(1946)の中で《枯葉Les feuilles mortes》を歌い,この曲が世に知られるきっかけをつくった。俳優としては,52年の《恐怖の報酬》(アンリ・ジョルジュ・クルーゾ監督)で成功し,以後,ジュールス・ダッシン監督《掟》(1958),アラン・レネ監督《戦争は終わった》(1965),コスタ・ガブラス監督の三部作(《Z》《告白》《戒厳令》1968-72)などの問題作に出演する。一方,《恋をしましょう》(1960),《さよならをもう一度》(1961),《パリのめぐり逢い》(1966)などのメロドラマ,《仁義》(1970),《真夜中の刑事》(1978)などのアクション映画と幅広くこなしている。私生活では女優シモーヌ・シニョレと1951年12月に結婚。1950年代から60年代にかけて,フランス芸能界の押しも押されもせぬトップスターであったが,68年9月に,もうリサイタルは行わないと発言,シャンソン・ファンをさびしがらせた。しかし,80年2月,12年ぶりのLPレコード《昨日,今日… D'hier et d'aujourd'hui》を出し,81年9月にはオランピア劇場で13年ぶりのリサイタル,そして82年はブラジルからアメリカ,日本などを歌って回り,衰えをみせぬ歌唱力を披露した。
貧しい家庭に育って苦労したことから,社会的・政治的な発言も積極的に行い,若い頃は親ソ派と目されていたが,ソ連のアフガニスタン侵入後は,ソ連と社会主義への疑問を公然と口にし,話題をまいたこともある。
執筆者:中村 とうよう
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