ブラジル(読み)ぶらじる(英語表記)Federative Republic of Brazil 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブラジル」の意味・わかりやすい解説

ブラジル
ぶらじる
Federative Republic of Brazil 英語
República Federativa do Brasil ポルトガル語

総論

南アメリカの中央部にある連邦共和国。正式名称は「ブラジル連邦共和国」República Federativa do Brasil。国名のブラジルは、かつてこの国の特産物であった赤色染料のとれるパウ・ブラジル(ポルトガル語で「炎のように赤い木」)に由来する。北はベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ、西はコロンビア、ペルー、南はボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイと国境を接し、東は大西洋に臨んでいる。面積は851万5767平方キロメートル(2020)で、ロシア、カナダ、中国、アメリカ合衆国に次いで世界第5位、日本の約23倍である。人口は1億6979万9170(2000センサス)、1億9075万5799(2010センサス)。ラテンアメリカで最大であるが、人口密度は1平方キロ当り25人と低い(2020)。首都は、1960年4月に旧首都リオ・デ・ジャネイロから遷都したブラジリアで、大西洋岸から約1000キロメートル内陸のブラジル高原の中心部、標高1100メートルの高原上に位置する。ラテンアメリカでただ一つポルトガル植民地から発展した国であり、コーヒー生産国として名高いが、ラテンアメリカ諸国のなかで、もっとも工業が発展した国の一つである。日本にとってちょうど地球の裏側にあたるが、日本移民の最大の移住先であり、日系人の総数は約150万人(2008)でその7割がサン・パウロ州に居住する。

[山本正三]

自然・地誌

自然

国土は南アメリカ大陸の47.3%を占め、北緯5度から南緯34度まで南北に4320キロメートル、東西に4380キロメートルにも及ぶ。大部分は熱帯で、南回帰線以南の面積はわずか7%にすぎない。北部国境沿いのギアナ高地と東海岸沿いに南北に延びる山脈を除いて大部分が平原になっており、最高峰バンデイラ山も標高2890メートルにすぎない。広大な国土のなかばはアマゾン川の流域に含まれる。大西洋に臨む海岸線はきわめて単調。国土の西端から太平洋岸までの直線距離はそれほど大きくない。西の国境の一部はアンデス山麓(さんろく)に接している。

 アマゾン川はラテンアメリカ最大の河川で、ブラジル国土の大部分を包み込んでいる。ペルー・アンデスに源を発し、ブラジル北部を貫流して赤道直下の大西洋に注いでいる。全長6300キロメートル、流域面積は650万平方キロメートルで世界最大、ブラジル領内はそのうち約3000キロメートル、478万平方キロメートルで、ブラジル全土の56%を占める。長さ2000キロメートルを超す支流は六つ存在し、数多くの瀑布(ばくふ)が膨大なエネルギー資源を包蔵する。河口に近いベレンはアマゾン川流域の物資を集散する最大の港で、アマゾン川とネグロ川の合流点近くにあるマナウスはアマゾン盆地第一の港である。増水期(10月~1月、3月~7月)には河口からマナウスまで3000トン級の船が入り、イキトスまでは1000トン級の船の航行が可能である。なお、増水期と減水期の水位差はマナウスで10.8メートルに及ぶ。

 ブラジルの地質は始生界の花崗(かこう)岩、花崗片麻(へんま)岩類からもっとも新しい沖積層まで含んでいる。もっとも古い花崗岩類はギアナ高地とブラジル高原に分布している。古生層、中生層はこれらを覆って発達している。第三紀層はアマゾン流域に広く分布し、ほぼ水平に堆積(たいせき)している。洪積層や沖積層もアマゾン川沿いに発達するが、分布は限られている。金属鉱床、非金属鉱床とも中生層までの古い岩石に多いが、第三紀層、ことに大西洋岸とアマゾンのそれには石油の埋蔵が確かめられ開発が進められている。

[山本正三]

地誌

広大な国土は、自然条件の相違によって、北部、北東部、東部、サン・パウロ、南部、中西部の六つの地方に分けられる。北部地方は、200の支流、幅335キロメートルに及ぶデルタを擁するアマゾン川のつくりだす広大な低地帯である。年降水量2000ミリメートル、気温は年中30℃前後の熱帯性気候を呈し、一帯はジャングルに覆われている。樹種4000以上といわれ、樹高50メートルに達する巨大な樹木もあり、数層に分かれた典型的な熱帯雨林の生態を示している。動物は、ワニの一種カイマン、ヘビ類のアナコンダ、昆虫では美麗なモルフォチョウ、魚類ではピラニアやピラルクーが知られるが、一般に鳥類や昆虫の種類が多く、大型の哺乳類(ほにゅうるい)は少ない。土壌はラテライト土とよぶ赤色の土壌が多いが、この地方の南部では肥えた暗紫色のテラロッサが広く分布している。石油・ウラン鉱などの鉱物資源をはじめ天然資源に恵まれているが、開発は後れており、産業としては細々と続けられているゴム栽培ぐらいしかない。この地域では先住民(インディオ)が散在してかなり孤立した生活を送っている。全国土の42.7%を占めるにもかかわらず、人口ではわずか3%を占めるだけである。この地方の中北部は、全長1200キロメートルのパルナイーバ川を挟むマラニョン、ピアウイの両州からなり、北部地方と北東部地方の「干魃(かんばつ)の多角形」地域との間にあり、両地方の自然的特徴をあわせもっている。

 北東部地方は湿潤な海岸平野と乾燥した内陸高原とに分けられる。前者は肥沃(ひよく)な土壌に恵まれた海岸線に沿う狭い地帯であり、後者は「セルトン」とよばれる半砂漠的平原を形成する。海岸平野はサルバドルからナタールに至る狭い多雨地帯で、農耕と牧畜用に開墾されている。もっとも早くから植民地化が進んだ地域で、多数のアフリカ人を黒人奴隷として移入してサトウキビ栽培が盛んに行われた。現在でもサトウキビの生産が行われている。また内陸高原の奥部には、カーチンガという有刺サボテン系の低木が生育し、主として放牧が行われている。パルナイーバ川を挟むマラニョン、ピアウイ両州はアマゾンの熱帯雨林からの移行地帯で、ヤシの自生がみられる。北東部地方は開発の歴史を反映して総人口の28%が居住するが、住民の経済状態は悪い。中心都市としては、海岸沿いに北からフォルタレザ、ナタール、ジョアン・ペソア、レシフェなどがある。

 東部地方はブラジル高地の東部にあたり、バイア、ミナス・ジェライス、リオ・デ・ジャネイロ州を中心とする地域である。地形は複雑でブラジル高地の最高峰バンデイラ山をもつ山系が海岸近くを南北に走り、その奥を南から北にサンフランシスコ川が流れる。海岸平野のすぐ背後には標高800メートルもある大急崖(きゅうがい)が壁のようにそびえている。沿岸部は降雨に恵まれるが、内陸部はカンポ・セラードとよばれるサバナである。バイア州サルバドル付近の石油、ミナス・ジェライス州ベロ・オリゾンテ近くのイタビラ鉄山の鉄などの豊かな鉱物資源、パウロ・アフォンソ発電所などの生産する電力資源に恵まれ、比較的工業が発達している地方である。内陸部のミナス・ジェライス州には牧畜地帯が多い。国土の10分の1を占めるにすぎないが、住民は総人口の43%にも達している。

 サン・パウロ地方は、18世紀のゴールド・ラッシュ時代には辺境の地であったが、現在ではコーヒーの主産地として、また工業の中心地としてブラジルの核心地域となっている。コーヒー栽培は、地力の消耗をみると耕作をやめ、テラロッサ地帯を求めて内陸部に向かって移動しつつある。耕作をやめたあとは再生林や牧場になっている。サントスは世界第一のコーヒー積出し港である。サン・パウロはブラジル最大の都市で、リオ・デ・ジャネイロとともに最大の工業地帯を形成している。日本を含め多数の外国企業が進出しており、おもな工業は繊維、化学、製薬、電気機器、ゴム、機械と多岐にわたり、ブラジルの全工業生産額の3分の1以上を生産する。

 南部地方の地形はサン・パウロ州と類似しているが、気温が低くなり、コーヒー栽培の南限はパラナ州北部である。パラナ州南部からリオ・グランデ・ド・スール州にかけては牧畜と穀物栽培が盛んである。工業にはみるべきものはないが、パラナ川に注ぐ多くの河川は大きな潜在発電能力を有し、開発が進められている。グアイバ川河口に位置するポルト・アレグレは肥沃な農業地帯を後背地としてもち、サン・パウロ以南では最大の商業中心地である。内陸のサンタ・マリアから鉄道でウルグアイに通ずる。

 首都ブラジリアを擁する中西部地方は、中央高原をはじめとする緩やかな起伏のある高地地域、ボリビアとの国境地帯の12万平方キロメートルにも及ぶタクアリ湿原などを含む。北部はアマゾン流域の熱帯雨林に覆われるが、南部にはサバナが展開する。鉱物資源の開発に期待が寄せられているが、大部分は未開発で、人口も希薄である。

[山本正三]

歴史

時代の流れ

ブラジルは、コロンブスによる「新大陸発見」から8年後の1500年にポルトガルによって「発見」され領有された。その後の500年を政治的側面からみると以下のような流れをたどる。

 1530~1822年植民地時代(ただし1580~1640年はスペイン王によるポルトガル王兼任の「同君連合」で事実上スペイン支配下。1815~1822年は、1808年のポルトガル王室のリオ・デ・ジャネイロ移転により「ポルトガル・ブラジル・アルガルベ連合王国」の一部となる)、1822~1889年帝政時代、1889年以降は共和政をベースとした現代。このうち1889~1930年は第一次共和政、1930~1945年バルガス政権、1945~1964年ポピュリズムの時代、1964~1985年軍事政権、1985年以降は民主主義定着の過程にある。

 ブラジルの場合、宗主国ポルトガルおよび欧米市場に供給された主要一次産品のそれぞれの栄枯盛衰を1サイクル(時代)としてとらえ、主要産業の交代で歴史を追う見方がある。サイクルの開始および終了をいつにとるかは論者や資料によって微妙に異なるが、赤い染料が抽出できる木材パウ・ブラジルのサイクル(16世紀前半)から始まり、砂糖(1530年代~1670年代)→金(17世紀末~1760年代)→コーヒー(1830年代~1930年代)→工業(1930年代以降)と続いた。このほか綿花栽培や牧畜、タバコ、ゴムといった、ブームが短かったサイクルもある。サイクルの移動は産業の交代だけにとどまらず、開発フロンティアの北東部地域から南東部地域に向けての南下を意味した点でも、ブラジルの歴史を考えるうえで重要な意味をもつ。

[堀坂浩太郎]

「発見」と植民地時代

ブラジルは1500年4月22日、バスコ・ダ・ガマに続くポルトガルの第二次インド派遣艦隊(指揮官ペドロ・アルバレス・カブラル)によって「発見」された。ポルトガル、スペインを中心に諸外国が「地理上の発見」を競っていた時代でのできごとである。偶然がもたらした「発見」との見方が残る一方で、13隻の帆船からなる艦隊が大西洋を横断しての「発見」に、領有権確定のための意図的な行為との見方もまた根強い。艦隊の接岸点(ポルト・セグーロ)は、1494年のトルデシリャス条約でポルトガルがスペインとの間で画定した自国の排他的活動領域内であった。

 先住民のインディオ社会は、狩猟・採取経済に焼畑農業を取り入れた部族レベルの統合社会で、アンデス山脈地帯の国家レベルに達していたインカはもとより首長制レベルの社会とは大きく異にしていた。人口も相対的に少なく、植民地支配におけるインディオの存在はペルーなど太平洋沿岸の南米諸国とは大きな違いがある。

 ポルトガルがブラジルの植民に本格的に動くのは1530年代以降の砂糖産業の導入からである。それまではアジアとの交易に忙しかったこともあり、大西洋沿岸部に自生するパウ・ブラジルの伐採・搬出にとどまった。

 砂糖産業の繁栄は、ブラジル北東部の熱帯性気候と肥沃(ひよく)な土壌、大土地所有制の基礎を築いたポルトガル王室の土地分与制度、大西洋のマデイラ諸島から導入されたサトウキビとプランテーション方式の栽培方法、アフリカから連れてこられた黒人奴隷、そしてヨーロッパ市場の堅調な砂糖需要とオランダの金融資本が結びついたものであった。

 17世紀の第2四半期、ブラジル北東部はオランダのたび重なる侵入を受ける。ポルトガルとの「同君連合」によって事実上ブラジルを支配したスペインが、世界最大規模となったブラジル北東部の砂糖生産地域からオランダを締め出したことによる。オランダは1654年に撤退するが、退去とともに砂糖生産技術が持ち出され、カリブ海の諸島に移植される。これが強力なライバルとなり砂糖サイクルはいったん退潮の時代を迎える(現在、ブラジルは世界トップ規模の砂糖生産国である)。

 植民地時代は奥地探検の時代でもあった。地理的関心に加え貴金属発見や奴隷労働のためのインディオ捕獲がねらいで、「同君連合」はスペイン領への食い込みを容易とした。トルデシリャス条約が画定した境界を越えて西側に大きく広がる今日のブラジル国土の姿をもたらす重要なきっかけとなった。

 17世紀末には待望の金が発見された。産出地であるブラジル南東部の高原地帯(今日のミナス・ジェライス州)は、海外からの流民も含めたゴールド・ラッシュでわき、植民地各地とを結ぶラバ隊による物流が起こった。王室は鋳造所を設けて課税を強化し、本国へ運ばれた金は国庫を潤し、さらに産業革命のイギリスへと流れた。植民地内では、ポルトガルへの抵抗が増した時代である。

[堀坂浩太郎]

王室の移転と帝政

1808年3月、ポルトガル王室はフランスのナポレオン軍に追われ、イギリス艦隊に保護されて大西洋を渡り、植民地ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに移転する。英仏間の覇権抗争に巻き込まれたあげくの避難であった。遷都に伴い、重商主義政策下で厳しく禁止されていた外国への開港、印刷、新聞発行、工場や高等教育機関の設立、首都の環境整備が進む。植民地体制の事実上の崩壊を意味したが、イギリスに対し治外法権を与え、同国製品にはポルトガル本国製品よりも有利な関税を供与するなど、締結した条約は不平等条約であった。

 ブラジルの独立は、国王ジョアン6世の本国帰還と、残留した王子による独立宣言(1822年9月7日)で実現した。立憲君主制となり、二人の国王(ドン・ペドロ1世、同2世)とその間をつなぐ摂政政治のあわせて67年間、南米唯一の帝政が続いた。スペイン領植民地が多数の共和国に分離するなかで、ブラジルが一体性を保てたのは帝政の存在にあるとの指摘もある。

 19世紀は、コーヒーが主要な輸出産品へと隆盛を遂げた時代でもある。主産地は、南東部のリオ・デ・ジャネイロとサン・パウロへと移る。19世紀なかばにはコーヒー豆が輸出の5割を占め、搬出のための鉄道整備や労働力としてヨーロッパ移民の導入が進んだ。半面、奴隷制度はイギリスの圧力もあり、奴隷輸入禁止(1850)、奴隷制度廃止(1888)となった。

[堀坂浩太郎]

第一次共和制とバルガス政権

1889年11月、軍部の蜂起(ほうき)で共和政に移行する。帝政崩壊の背景として、パラグアイ戦争(1864~1870)での勝利を契機に高まった共和政思想をもつ軍人の発言力、奴隷制廃止による農園主の支持喪失、持ちつ持たれつの関係にあったカトリック教会との不和などが指摘される。

 1891年に、アメリカにならい連邦制、三権分立、大統領制を柱とする共和政最初の憲法が制定される。しかし実態は、コーヒーの最大生産州であるサン・パウロおよびミナス・ジェライス州の地主階級の意向を強く反映した寡頭政治であった。その後の共和政と区別するため「第一次共和政」ないしは「旧共和政」とよばれる。ヨーロッパ、中東、日本からの自由移民(日本は1908年に開始)流入で、地主階級と奴隷層を基本とした植民地時代の二極社会が大きく変わり始めた時代である。第一次世界大戦の影響もありナショナリズムの萌芽(ほうが)もみられる。

 1930年11月、世界大恐慌によるコーヒー経済の退潮、大統領選挙をめぐる寡頭政治の混乱のなかで、軍部の圧力によって大統領が退陣させられ、選挙で敗退したリオ・グランデ・ド・スール州知事ジェツリオ・バルガスが若手軍人にかつがれて大統領職につく。階級構造には変化がなかったものの「バルガス革命」とよばれ、ブラジル発展史の重要な転換点とみなされる。

 バルガス大統領はその後、第二次世界大戦終結後の1945年10月までの15年間政権の座にあった。この間、臨時政府の長、1934年憲法に基づく間接選挙選出の大統領、全体主義的な「新国家体制」の下での大統領と独裁色を強めていく。州に執政官を派遣するなど第一次共和政までの地方分権的な政治から中央集権的な政治に、製鉄や化学肥料などの国産化により、輸出経済から工業製品の輸入を制限して自国の工業化を進める輸入代替工業化へとかじを切った。

 組合国家主義的な労働者・使用者組合制度をつくり、辞任直前に史上最初の全国政党となる社会民主党(PSD)とブラジル労働党(PTB)を創設するなど、ブラジルの政治に大きな痕跡(こんせき)を残した。対外関係では、当初はドイツ、イタリアなどの枢軸国寄りであったが、アメリカの働きかけもあり連合国側で第二次世界大戦に参戦し、イタリア戦線に派兵した。

[堀坂浩太郎]

戦後のポピュリズムと軍事政権

第二次世界大戦後は、1964年3月31日の未明から4月1日にかけて発生した軍事クーデターまで、国民の直接選挙で選出された5人の大統領が政権を担う。制度的には民主的形態をとりながら、大統領が直接民衆に働きかけるポピュリズムの色彩が強い時代であった。5人の大統領のうち、戦後2代目に返り咲いたバルガス大統領は自殺、4代目のクアドロス大統領は就任8か月で辞任、5代目のグラール大統領はクーデターで追放と、左右の路線対立で激動した。

 ただ戦後3代目のクビチェック大統領時代に「50年の遅れを5年で」のスローガンの下、道路や電力網などインフラの整備、自動車、造船、製鉄などの工業化が進展し、さらに首都をリオ・デ・ジャネイロから960キロメートル内陸の高原地帯ブラジリアに移す遷都を断行した。産業の担い手として、国営企業の育成とともに外資の導入も活発化した。

 軍政時代は、1985年3月15日の文民政権への移管まで21年の長期に及び、軍部の力を背景とした権威主義体制の典型とされた。超憲法法規である軍政令の発動、新憲法の制定、大統領令の活用により法治国家の形をとりながら、情報機関を網の目のように張り巡らし、反対勢力の公職追放、再三の国会閉鎖、学生運動や都市ゲリラの徹底的な弾圧によって政治全般に支配力を及ぼした。既存の政党を解散させ、国家革新同盟(ARENA)、ブラジル民主運動(MDB)の官製の与野党を組織した。

 1964~1968年の軍政整備期を経て1969~1977年が同確立期といえる。この間、1968~1973年に「ブラジルの奇跡」とよばれた年率10%を超える高度成長を達成した。軍政期を通じ耐久消費財や資本財の輸入代替工業化が進み、新興工業経済地域(NIES)の基盤ができる。また1973年の石油危機を契機にガソリン代替のエタノールの利用や大陸棚の石油探査が始まった。その半面、国際金融市場からの対外借入が増え、1982年末には先進国や国際機関に債務危機への救済要請を行った(対外債務危機)。

[堀坂浩太郎]

民政移管と民主主義定着へ

1985年3月の文民への政権移管は平穏裏に行われた。軍政第4代大統領が「緊張緩和」、第5代が「政治開放」を公約し、紆余(うよ)曲折がありながらも実行された。移管に先だつ1985年1月の大統領選挙では軍政方式の間接選挙ではあったが、野党の政治家タンクレード・ネベスTancredo de Almeida Neves(1910―1985)が選出された。ネベスは新政権発足直前に倒れ、1か月後に死去したが、軍部首脳は政権移譲の姿勢を変えなかった。

 民政最初の3代の政権(1985~1990サルネイ、1990~1992コロル、1992~1994フランコの各大統領)は、1982年の対外債務危機に端を発する複合的な経済危機の対策に追われた。年率3桁(けた)、4桁となったインフレ抑制のため物価凍結などのドラスティックな経済政策を再三採用したが改善はみられず、1994年7月に新通貨レアルを導入することになるカルドーゾFernando Henrique Cardoso(1931― )蔵相(次期大統領)主導によるオーソドックスな経済政策で、経済安定のめどをつけた。債権銀行団や債権国政府機関との債務削減交渉も難航を極めたが、1992年に返済繰り延べおよび債務の証券化で合意に達した。

 サルネイ政権下で隣国アルゼンチンとの関係が緊密化し、これが1995年のパラグアイ、
ウルグアイを加えた4か国によるメルコスール南米南部共同市場)発足へと結びつき、地域統合重視のブラジル外交の姿勢づくりとなった。コロル政権は、ブラジル単独での関税引下げを断行し、市場開放の第一歩を踏み出した。政治面では1988年に民主憲法が発布され、1993年には「大統領制」を再確認する国民投票が実施された。

 続くカルドーゾ、ルーラLuiz Inácio Lula da Silva(1945― )両大統領は、連続再選容認の国民投票(1997)を受けて、いずれも2期務めるなど安定政権である。カルドーゾ政権は、行政・金融改革、国営企業の民営化、財政責任法による州財政の健全化、1999年通貨危機を契機とした為替(かわせ)の変動相場制への移行など、体質改善に努めた。こうした施策は、2008年の世界経済危機時におけるブラジル経済の対応力を向上させた。

 ルーラ政権はカルドーゾ政権の施策を原則継承しながら、最低賃金の引き上げ、低所得者層を対象とした現金給付制度などを活用して国内消費の底上げを図った。21世紀に入るとともに同国は、中国をはじめとする世界的な食糧、資源、エネルギー需要増大を受けて、大豆や砂糖、食肉などの食糧、鉄鉱石などの鉱産物、エタノールなどのエネルギーからなる一次産品の供給国としてふたたび世界の注目を集めるようになった。

[堀坂浩太郎]

政治

政治制度

ブラジルは、26州と首都ブラジリアの連邦特別区からなる連邦共和国である。立法、行政、司法の三権分立制度が確立しているが、国家元首である大統領が行政府の長を務める大統領制であることもあって、大統領に広範な権能を付与している。その一方で1891年の共和国発足後、軍事政権下の1967年まで「ブラジル合衆国」と名のっていたことにも現れているように、州の政治力がかなり強い。

 国土は5地方に区分される。植民地時代に開発が進み伝統色の強い北東部は9州からなり、サン・パウロ、リオ・デ・ジャネイロなど経済の中心である南東部は4州、農業生産地の南部は3州、内陸部の中西部は農畜産フロンティアで4州、北部の6州はアマゾンの熱帯雨林地帯である。首都ブラジリアは中西部に位置する。下位の基礎自治体はムニシピオとよばれる。サン・パウロ市のように人口数百万から数千人のムニシピオまで規模の差が大きく、サイズによって日本の市町村それぞれに相当すると考えたほうがよい。ムニシピオの数は2008年時点で、全国で5565を数える。

 現行憲法は、軍事政権から文民政権に移管3年半後に発布された1988年民主憲法である。帝政時代の1824年発布の欽定(きんてい)憲法から数えて8本目となる。軍政時代の1967年憲法(1969年に改訂)に比べて国民の諸権利が大幅に拡充された。発布後も条項を現実に即するように改めるべく憲法修正作業が国会で再三議論され変更されている。

[堀坂浩太郎]

選挙と政党

選挙は、1985年の民政移管後、すべて国民による直接選挙となり、18歳から69歳までが義務、16歳から17歳および70歳以降は任意投票である。公職の任期は、大統領、州知事、市長(ムニシピオの長)が1期4年で2期まで。各州を代表する上院議員(各州3人計81議席)は任期8年、下院議員(513議席)および州議会議員(一院制)、市議会議員(同)は任期4年で非拘束名簿式比例代表制にて選出される。いずれも再選に制限はない。

 大統領、上下両院議員、州知事および州議会議員の選挙が同じ年の10月最初の日曜日に同時に実施されるので選挙の政界に及ぼす影響は大きい。首長選で絶対多数の当選者がいない場合には上位2者による決選投票に持ち込まれる。市長および市議会議員の選挙は中間年に実施される。フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領(在任1995~2002)、ルーラ(ルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ)大統領(在任2003~2010)とそれぞれ2期連続の安定政権が続いた。

 政党をめぐる変化も民政移管後著しい。軍事政権時代の官製による国家革新同盟(ARENA)およびブラジル民主運動(MDB)の二大政党制が崩れ、政党が乱立、合従連衡、政党の名称変更が続く。多数党はなく政権運営には連立結成が不可避である。このため政争によっては小党でもキャスティング・ボートを握る場合がある。所属議員数が多いのがブラジル民主運動党(PMDB)で旧MDBの継承を表明する中道政党である。カルドーゾ大統領所属のブラジル社会民主党(PSDB)はPMDBから分派した中道左派政党で、ルーラ大統領所属の労働者党(PT)は労働運動がベースとなり1982年に組織された新生の左派政党である。民主党(DEM)は旧ARENAの流れをくむ右派政党PFL(自由戦線党)が2007年に名称変更した。おもな政党だけでも10を数える。

[堀坂浩太郎]

ブラジル国軍は陸海空の三軍で編成され、兵力は2008年時点でそれぞれ18万9000、6万2000、6万8000である。1964年4月~1985年3月は軍部が事実上政治を支配した軍事政権であったが、文民政権の混乱に乗じてしばしば軍部が政治に介入した過去がある。しかし1988年憲法で軍の治安行動に「三権(立法・行政・司法)いずれかの発議による」との規定が入り、かつ1999年の国防省創設によって三軍各省が廃止され、文民統制が強化された。

[堀坂浩太郎]

外交

スペイン語圏に囲まれた南米唯一のポルトガル語圏の国ということで、孤立回避に神経を遣い国土の大きさに比べてロー・プロファイルの(目だたない)外交姿勢をとってきたが、レアル計画(1994)による経済安定化以降、大統領主導の外交が積極化する。1985年に隣国のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの3か国と結成したメルコスール(南米南部共同市場)をベースに、南米諸国連合(UNASUR)、ラテンアメリカ・カリブ統合・開発サミットと地域統合拡大に動く。3大陸にまたがる新興国インド、南アフリカ共和国とのIBSAフォーラム、BRICs(ブリックス)諸国の首脳会談、ポルトガル語圏アフリカ諸国との連携など途上国諸国との関係構築は多彩である。WTO(世界貿易機関)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)では途上国グループを糾合した貿易版のG20を結成し、途上国の代表格として欧米との交渉に臨む。2008年にアメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻(はたん)したことに端を発する世界的な金融危機、いわゆる「リーマン・ショック」後の金融安定化を協議する金融サミット(金融版G20)ではIMF(国際通貨基金)への資金供与を約束するなど中国、インドとともに中心的存在に浮上した。

 経済外交に重点があるが、国連改革では安全保障理事会常任理事国入りに意欲的である。カリブ海の国ハイチの平和維持に派遣された国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)では中核的役割を務める。アメリカとは、軍政時代の1970年代後半、アメリカ・カーター政権の人権外交に反発して米伯軍事援助協定を破棄しそのままになっているが、対話路線は続いている。

[堀坂浩太郎]

経済・産業

マクロ経済の推移

ポルトガルによる「発見」後のブラジル経済500年を大きく時代区分してみると、およそ次の三つの時代に分けることができる。すなわち植民地時代を経て1920年、1930年代ごろまでの「一次産品輸出経済」の時代、さらにその後1980年代なかばごろまでの「輸入代替工業化」の時代、そして1990年代ころからの「市場開放・経済自由化」の時代である。

 ブラジル経済は、植民の当初から、その当時の「世界経済」、すなわちヨーロッパ経済に組み込まれるような形で開発が進められた。ポルトガルや、その後ブラジル北東部を一時的に領有することになるオランダや覇権国家・イギリスの重商主義政策のもと、植民地、さらに帝政ブラジル(1822~1889)に求められたのは嗜好(しこう)品や工業用原料などからなる一次産品の供給であった。

 スペイン領アメリカのように植民当初は金銀がみつからなかった。その替わりとなったのが赤い染料の原料となる「パウ・ブラジル(染料木)」(16世紀)や熱帯農産物のサトウキビから奴隷制プランテーション方式によって生産する「粗糖」(16世紀後半以降)の供給であった。18世紀末に金や貴金属が発見され、順次、綿花(18世紀末)、コーヒー(19世紀なかば~)、ゴム(20世紀初頭)などの供給地と化したのである。

 輸入代替工業化の契機となったのが、黒人奴隷に替わる自由移民の移入による国内市場の形成や消費財産業の誕生、第一次世界大戦を契機としたナショナリズムの高揚、世界大恐慌が引き金となった一次産品の世界的需要減などの諸要素が重なり、輸出・輸入に依存しない自前の工業整備の機運がブラジルに高まった。軍部や開発論者らによる工業化の理論的な後押しもあった。

 ブラジルの場合、第二次世界大戦中のバルガス政権時代に輸入代替工業化を本格的に進め(製鉄、肥料、エンジンなど)、新首都ブラジリアを建設した1950年代後半のクビチェック政権時代(自動車、造船、製鉄、電力など)、さらに軍政第4代のガイゼルErnesto Beckmann Geisel(1907―1996)政権時代(石油開発、石油化学、アルミ、紙パルプなど)に消費財中心の第一次、生産財主体の第二次輸入代替工業化が段階を追って実施された。

 しかし大型設備投資の資金的裏づけとなる国内貯蓄は乏しく、投資資金を通貨の無計画な増発および外国からの資金借り入れに依存した結果、インフレの高進と対外債務の返済不能の事態を招いた。なかでも1982年の債務危機は、アルゼンチンやメキシコなど他のラテンアメリカ主要国と時を同じくして返済不能に陥ったこともあってラテンアメリカ全域の信用不安へと発展した。国内では年率3桁(けた)、4桁に達するハイパー・インフレーションの発生に加え、財政破綻(はたん)、不況、失業が重なり、1990年代前半にかけ経済危機に翻弄(ほんろう)された、いわゆる「失われた10年」となった。

 ブラジルのインフレは1994年7月に導入した新通貨レアルをもって落ち着きを取り戻す。その背景には返済繰り延べや証券化による対外債務の軽減措置から始まり、外国製品や外国資本に対するブラジル国内市場の開放・自由化措置、鉄道や通信から製鉄、石油化学、航空機などの主要製造業、さらに鉱業や電力などの資源にまで及んでいた国営企業の民営化実施、国道など政府管理事業の民活化といった構造改革、そして財政責任法の成立等によって利払いを除くプライマリーバランスでの黒字回復が進んだことなどが功を奏した。これらの一連の措置は、債務軽減の条件として国際金融界が強く望んだ資本優遇の新自由主義的(ネオリベラル)な経済政策で、国民の間からは少なからず批判の声があがったが、経済体質を大きく変えることにもなった。1999年1月に変動相場制へ移行した。

[堀坂浩太郎]

産業

21世紀に入ってブラジル経済は新興国BRICsとして注目を集めることになるが、その変化がもっとも顕著に現れたのは貿易である。2001年は輸出(財)582億ドル、輸入(同)556億ドルで貿易収支は26億ドルであったのが、6年後の2007年には輸出1606億ドル、輸入1206億ドル、貿易収支400億ドルに達した。第4四半期に世界金融危機の影響が現れた2008年においても輸出入はそれぞれ1979億ドル、1731億ドルと増勢を続けたのである。

 輸出急増の背景には、世界景気の持続、とりわけ新興国、なかでも中国の一次産品に対する需要拡大が寄与した。ブラジルの対中輸出は、20世紀末には全輸出の2%程度であったのが、2008年には8.3%を占めた。

 ブラジル政府によると、2007年時点で鉄鉱石、コーヒー、砂糖、オレンジの生産は世界1位で輸出も1位。大豆、牛肉、鶏肉は生産では世界2位で輸出は1位。トウモロコシは生産で4位であるが輸出は3位、豚肉は生産3位で輸出は4位と、一次産品の供給で世界最上位にある。しかも第一次、第二次石油危機時にブラジルの貿易収支悪化の要因となった石油で国産化が進み、2006年には自給達成を宣言した。ガソリン代替としてサトウキビから精製するエタノールを利用、バイオ燃料の利用国としても世界のなかで注目される存在となっている。

 輸出高(2008)のうち一次産品は36.9%、半加工品が13.7%、加工製品が46.8%である。

 資源は豊富であるが、貧富の格差が世界のなかでも最悪の部類といわれてきたのがブラジルである。しかし21世紀に入ると、雇用機会の拡大、最低賃金の引き上げ、低所得者層を対象とした資金給付などが奏功し、中間層の増大がみられる。その一端は自動車や家電製品などの耐久消費財の販売、スーパーマーケットやショッピング・センターなどでの消費行動、女性の就労や家族の小規模化などの側面に現れ始めている。2001年時点で118万台であった乗用車の国内販売は、2008年時点で史上初めて200万台に達したのも旺盛(おうせい)な内需を示す一例である。

[堀坂浩太郎]

社会・文化

住民

全人口の86%は東部およびサン・パウロ、パラナの両州を中心とする南部地方に住む。人口増加率は年平均1.5%(2000~2006)、平均寿命は男69歳、女76歳(2006)となっている。都市人口の比率は、1940年に31%、1950年に36%、1960年に45%、1970年に56%、1989年75.6%、2000年81.2%と年々高まる一方である。とくにサン・パウロの人口伸長は著しく、2000年には約1043万人、2005年には約1102万人に達した。大サン・パウロは、2000年に人口約1600万人、全人口の約9%を占めている。人種の構成は複雑で、ポルトガル人の子孫、ヨーロッパ移民、奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人、南米先住民、東洋系移民がさまざまの度合いで混血している。白人54%、混血39%、黒人6%、その他1%となっている。アメリカ合衆国におけるような人種差別はないが、下層所得層には黒人、有色人が多い。また住んでいる地方がだいたい人種別に異なっている。黒色系の多いのは主として沿岸地方であり、有色系は内陸地方から沿岸地方、白色系はサン・パウロ以南の諸州に多い。宗教別にみると全人口の74%がローマ・カトリック教徒で、プロテスタントは15%である。言語はポルトガル語(公用語)が大部分である。

[山本正三]

文化

ブラジルは各国の人種が集まっており、それぞれ自国の文化を持ち込み、それらが伝統的なポルトガル文化と混合してしだいに独自のブラジル文化を形成した。南部のサン・パウロ州ではとくにイタリア移民の影響が強く、さらに南のリオ・グランデ・ド・スール州ではドイツや東ヨーロッパからの移民の影響が強い。このように南部諸地方はヨーロッパ系の移民が多く集まっているため文化水準もかなり高く、教育も進んでいる。地方的、民族的文化とヨーロッパ文化とを混交させて独自のブラジル文化創造に寄与した人も多い。ブラジルの文学はポルトガル文学の影響を大いに受けている。音楽部門ではカルロス・ゴメスAntonio Carlos Gomes(1836―1896)、ビラ・ロボスHeitor Villa-Lobos(1887―1959)、建築部門ではコスタLucio Costal(1902―1998)とニーマイヤーが傑出している。新首都ブラジリアはコスタの都市計画設計、ニーマイヤーの建築設計によって建設された。映画では「シネマ・ノーボ」の代表者であったグラウベル・ローシャ監督が今日のラテンアメリカの映画界に大きな影響を与えている。また、スポーツにおいてはサッカー大国として知られ、ワールドカップ全大会に出場している唯一の国であり、5回の優勝経験をもつ。

 日刊紙は、全部で536紙(2006)、おもなものは「エスタド・ジ・サンパウロ」「オグロボ」など。テレビ局は119局(1995)、ラジオ局は2033局(1995)。

[山本正三]

教育

7歳~14歳までが義務教育であり、公立の初等教育は無料である。都市における義務教育は徹底してきたが、農村部では依然として非識字率が高い。高等学校は15歳~17歳の3年間である。大学は、工学部、法学部が5年、医科系は6年、その他は4年と学部により異なる。サン・パウロ州立大学、国立ブラジル大学は約1世紀にわたる歴史をもち、ブラジルでもっとも水準の高い総合大学である。

[山本正三]

医療

医療体系は医薬分業を原則としている。広大な熱帯、亜熱帯圏を擁するので、さまざまな風土病、寄生虫害、毒蛇害に対処するため、熱帯医学の研究が盛んである。リオ・デ・ジャネイロのオスワルド・クルス熱帯医学研究所は、20世紀の初頭リオ・デ・ジャネイロの黄熱病、マラリア、ペストを撲滅したオスワルド・クルス(1872―1917)の名を記念するもので、世界的に権威がある。サン・パウロのブタンタン毒蛇研究所はブラジル全土から毒蛇を集めて飼育し、毒液を採取して血清を製造しており、世界最良の血清製造所として定評がある。

[山本正三]

日本との関係

日系人

1908年(明治41)、最初の日本移民781人が水野竜(りょう)(1859―1951)の皇国殖民会社の扱いによって移住した。コーヒー耕地の契約労働者(コロノ)としてブラジルに移住したものの、最初のうちは成果はかならずしも思わしくなかった。しかし、第二次世界大戦中および戦後の社会変動により日系在留民の生活様式も初期の腰掛け気分から永住にかわっていった。ブラジル人経営のコーヒー農場では苦しみをなめ結局は失敗に終わっているが、独立して自作農となり、また都市周辺に集まって野菜栽培や商工業者としてしだいに経済的基盤を固めていった。また日系二世、三世のなかには大学教授、医師などになっている人も少なくない。ブラジルへの渡航費支給移住者数は1959年度の7000人台をピークに年々減少し、1968年度以降は400人前後に落ち込んだ。また、農業移住者よりも技術移住者のシェアを高めていった。ブラジル側も単なる労働力としての移住者を需要するのではなく、特定職種の技能者を求めるようになっていった。この移住支援事業は1993年度末で廃止となっている。2008年現在で日系人の総数は約150万、その多くがサン・パウロ州およびパラナ州に居住している。

[山本正三]

貿易

日本とブラジルとの貿易は年々拡大傾向にあり、日本の対ラテンアメリカ諸国貿易に占める割合も高い。日本からブラジルへの輸出について商品群別にみると、自動車・自動車部品、機械機器類、化学品、コンピュータ部品等が多く、いわゆる重化学工業品が輸出の90%前後を占めており、軽工業品の比重は小さい。他方輸入についてみると、食料品、原料品で90%近くを占め、なかでも原料品が多い。原料品のなかでは鉄鉱石の比重が高いが、ほかにアルミニウム地金、合金鉄類、パルプなどが多い。食料品は鶏肉、コーヒー、オレンジジュース、大豆などである。両国間の構造的問題は日本側の大幅出超という点にある。その最大の原因は、ブラジルからの輸入商品が一部の一次産品に集中しているところにあるが、このアンバランス是正のためには、日本側の輸入商品の開拓と同時にブラジル側の対日輸出産品の多角化が望まれる。

[山本正三]

経済協力

日本のブラジルに対する経済協力は資本協力の面でとくに大きく、ウジミナス製鉄所、カラジャス鉄鋼山プロジェクトなどはその代表例である。2006年の政府開発援助(ODA)額は2586万ドル。債務返済の延期、円借款など政府ベースの資金協力および延べ払い輸出信用はアジア諸国への協力に比べて著しく少ない。技術協力、貿易を通しての経済協力についても同様であり、ブラジルに対する日本の経済協力はもっぱら民間投資を通じて行われているのが実状である。

 ブラジルへの経済協力のうち1982年のセラード(酸性土壌の荒れ地)農業開発が話題をよんだ。6月にブラジルを訪問した鈴木善幸(ぜんこう)首相はセラード地帯の灌漑(かんがい)設備に5000万ドルの借款を供与することを約束した。セラード開発についてはミナス・ジェライス州を対象に1979年から2001年まで事業が行われ、当地域は世界有数の大豆生産地となっている。日本企業のブラジル進出では、アマゾンの工業都市マナウスへの進出が注目される。マナウスは、未開発地域に工業をおこしてブラジル全体の経済力を引き上げるねらいで税制上の優遇措置が与えられている地域で、「工業自由地域」(フリー・ゾーン)とよばれている。本田技研工業、ヤマハ発動機、三洋電機、パナソニック、富士フイルムなどが進出している。そのほか、日本・ブラジル・イタリア3国共同の大型プロジェクトであるツバロン製鉄所、アマゾン川河口近くに建設されたアマゾンアルミ社なども注目される。1988年前後からは日本に出稼ぎに行く日系人が増加、さらに1990年の「出入国管理及び難民認定法(入管法)」の改正法施行により、日系人とその家族への滞在条件が緩和されたことを背景として在日ブラジル人は急増、約32万人(2007)が在住している。

[山本正三]

『ワグレー著、山本正三訳『ブラジル』(1971・二宮書店)』『斉藤広志著『ブラジルの政治』(1976・サイマル出版会)』『斉藤広志著『新しいブラジル――歴史と社会と日系人』新版(1983・サイマル出版会)』『斉藤広志・中川文雄著『ラテンアメリカ史Ⅰ・総説・ブラジル』(1978・山川出版社)』『ジョーンズ著、山本正三・菅野峰明訳『ラテンアメリカ』(1980・二宮書店)』『大原美範編著『ブラジル――その国土と市場』(1980・科学新聞社)』『モンベーク著、山本正三・手塚章訳『ブラジル』(1981・白水社)』『アンドウ・ゼンパチ著『ブラジル史』(1983・岩波書店)』『山田睦男編『概説ブラジル史』(1986・有斐閣)』『梁田秀藤編『ラテンアメリカ――自立への道』(1993・世界思想社)』『田辺裕監修『世界の地理5――南アメリカ』(1997・朝倉書店)』『金七紀男・住田育法他著『ブラジル研究入門――知られざる大国500年の軌跡』(2000・晃洋書房)』『富野幹雄・住田育法編『ブラジル学を学ぶ人のために』(2002・世界思想社)』『ブラジル日本商工会議所編『現代ブラジル事典』(2005・新評論)』『鈴木孝憲著『ブラジル巨大経済の真実』(2008・日本経済新聞出版社)』『西沢利栄・小池洋一著『アマゾン――生態と開発』(岩波新書)』『小林英夫著『BRICsの底力』(ちくま新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ブラジル」の意味・わかりやすい解説

ブラジル
Brazil

基本情報
正式名称=ブラジル連邦共和国República Federativa do Brasil 
面積=851万4877km2 
人口(2010)=1億9325万人 
首都=ブラジリアBrasilia(日本との時差=-12時間) 
主要言語=ポルトガル語 
通貨=レアルReal

南アメリカ大陸のほぼ中央,大西洋側にある共和国。国土は南アメリカ大陸の47%を占め,面積では世界第5位。日本の約23倍ある。熱帯圏にある白人人口が優位な国としては世界最大。東は大西洋に面し,チリ,エクアドル以外の南アメリカ諸国と隣接する。国名は赤色染料の原料であった木パウ・ブラジルpau-brasilの産地であったことに由来するが,中世以来大西洋上に想定された伝説上の島名として知られ,これに発する名であろう。国旗には国是であるA.コントの言葉〈秩序と進歩〉が書かれている。1822年までポルトガルの植民地だったが,独立に際しスペイン系アメリカと異なり,分裂しなかった唯一の国であった。1822-89年には新大陸唯一の帝政を経た。1964年以来軍政が続いていたが,85年に民政に復帰。
執筆者:

ブラジルの国土の北の端は北緯5°26′,南の端は南緯34°46′で南北両半球にまたがり,南北と東西の最長距離は,ほぼ同じく約4300kmに達する。このように広大な国土の8分の3は北部のアマゾン川流域と南部のラ・プラタ川流域,および大西洋に面する細長い海岸地方の平野と,低地で占められている。残りの8分の5は,二つの高原に分けられる。その一つは広漠たるブラジル高原で,上記二つの河川流域を結び,ボリビアの国境までも広がっている。もう一つは,アマゾン流域の北部にあるギアナ高地で,その一部がブラジル領土になっている。そして,この高地にはブラジル最高峰のネブリナ山Pico da Neblina(3014m)がある。

 これら二つの高地を分けるアマゾン平野は,アマゾン川に向かってなだらかな傾斜をもつ連続した台地からできている。この台地は,第三紀に生起したアンデス山脈の隆起にともなって,それまで中海であったところが,そこから大西洋に水が流れ出すことで出現した。

 ブラジルの気候は,国土の大半が熱帯気候に属し,南回帰線以南のわずかな面積の地域が温帯気候である。このようなブラジルの気候は,おおまかに四つに分けることができる。その第1はアマゾン川流域と東部沿岸地域にみられる一年中高温で雨の多い熱帯雨林気候,第2はブラジル高原を中心とするサバンナ気候,第3は北東部内陸のステップ気候,第4は南部における温帯気候である。そして,アマゾン川流域と北東部内陸での年平均気温は26℃を超える暑さで,とくに乾季の暑さはきびしい。これらアマゾン川の地域では,北半球の冬の季節に相当する1月から2月ごろが夏であるが,雨季で雨の日が多くなる。そのため気温がやや低下して乾季より低くなり,他の地域と逆に雨季は冬inverno,乾季は夏verãoと呼ばれる。また,北東部の内陸は,しばしば干ばつに見舞われ,農牧業は多くの災害をこうむる。南部の農業地帯は,4月から10月ごろしばしば霜が降りて,コーヒーなどが害を受けたりする。

 植生分布は,気候を反映して,アマゾン川流域には熱帯降雨林,ブラジル高原にはセラードといわれるサバンナがひろがる。セラードは,酸性土壌におおわれていて農作物には不適当な地域で,ブラジル政府は,日本などの協力によって土壌を改良し,この地域を農業地域として開発しようとしている。南の亜熱帯森林帯からアラウカリア森林(ナンヨウスギ)の地域にかけては,玄武岩が風化した暗褐色で肥沃な土壌のテラ・ロッサが分布し,農業生産の高い地域になっている。さらに,最南部のカンポの地域は,ガウショ(ガウチョ)平原とも呼ばれ,有名な牧畜地域となっている。牧畜は中西部のパンタナルや北東部のカーチンガ地域でも行われている。
執筆者:

ブラジルは南アメリカ総人口の約半数を占め,ラテン・アメリカ諸国の中で最大の人口をもつ。最初の国勢調査(1872)では993万0478人だったが,過去125年間で約16倍となった。大量の外国移民を吸収してきたが,1960年代以降移民は激減した。また長い間高率を示していた自然増加率も1970~80年代には急低下を示し,1985-90年の年平均増加率は2.1%(世界平均1.7%)となった。現代ブラジル社会は人種的に多様性に富み,多人種社会の典型といえる。これは主として歴史的に熱帯作物(サトウキビ,コーヒー等)の単一栽培に基づくプランテーションと奴隷制をめぐって社会形成がなされてきた事情に起因する。

 植民期の約3世紀間は主として先住民としてのインディオ,ポルトガル植民者,アフリカから奴隷として導入された黒人,およびこれらの人種間の交錯した混血によって形成された層(マメルーコmameluco,ムラートmulato,カフーゾcafuzo等)から構成されていた。1500年のブラジル発見当時のインディオ人口はおよそ150万と推定され,沿岸地帯に多く居住していたトゥピグアラニーをはじめ,ジェ,アルアク,カリブ等の語族に属する,言語・文化の多様な部族がおもな住民であった。ポルトガル植民者の移住数は不明であるが,初期には男性偏重の移住形態を示し,混血が急速に進展した。トゥピ語はイエズス会宣教師によって体系化され,初期にはリングア・ジェラルlingua geralと呼ばれる共通語として植民者,現地生れの混血層,非トゥピ語族間にも広く使用された。アフリカからは主としてサトウキビ栽培の奴隷労働力として約360万人の黒人(おもにバントゥー族,ヨルバ族)が強制移住させられ,ことにサン・パウロからマラニョンに至る沿岸地帯では人口の圧倒的多数を占めたが,死亡率が高く,また混血も進行した。

 独立後の19,20世紀では移入人口の比重は圧倒的にヨーロッパからの白人系に移り,全ブラジル人口の白人化傾向が進んだ。これはとくに南部,南東部の5州において顕著である。この間に約350万人のヨーロッパ系移民(帰国推定数を除く)が定着したが,その4分の3強はラテン・カトリック文化圏(イタリア,ポルトガル,スペイン)からの人々であった。またこの間に日本人を主としたアジア系人も約30万人入国した。皮膚の色による人種構成を1980年国勢調査にみると,白人55%,黒人6%,黄色人(アジア系)0.6%,パルドpardo(混血を主とした褐色系の人々)38%となっており,全体に白人,黒人の率が減少し,パルドが急増している。土着の文化・言語をもったインディオは総人口の0.1%にも満たない。これを地域分布からみると,白人系は南部で比率が高く(例,サンタ・カタリナ州92%,サン・パウロ州75%),北へ行くほど低い(例,バイア州23%,アマゾナス州18%)。

 新大陸唯一のポルトガル語使用国で,外国生れが総人口の1%未満の今日,国民のほとんど全員が日常生活においてポルトガル語を使用している。事物の名称・地名にはトゥピ語起源のものも多く含まれるが,言語体系としてはポルトガル語とまったく同一で,意思疎通に何の支障もない。広大な国内での言語上の地域差も微々たるもので,方言といえるほどのものはない。エスニック集団別にサブ・カルチャーとしての他言語(例えばスペイン語,日本語,中国語など)が副次的に用いられている。

ブラジルはその広大な国土,人種的多様性,生態系上の環境差,社会経済的地域格差,顕著な階級差にもかかわらず,国内の文化的同質性はたいへん高い。国民のほとんどが唯一の国語であるポルトガル語を使用し,全人口の約90%がローマ・カトリック教徒である(1980)。全国いたるところ,どの階級の人々にも国民スポーツとしてのサッカー,国民的祝祭としてのカーニバルは強くかつ深く根づいている。パーソナリティの類似も著しい。この高い均質度をもった国民文化を支えるものは〈ルーゾ・ブラジレイロ〉と呼ばれる基層文化で,これは近代移民の流入以前に,ポルトガル文化を母体にインディオ文化,アフリカ文化を吸収して,プランテーション制度,大土地所有制・奴隷制を舞台に独自の展開を遂げてきたもので,その後の近代化の過程で変貌しつつも根強く持続している。肉体労働蔑視の労働観,それに規制される階級観・人間観,家族関係・雇用関係・人種関係・政治行動を特徴づけるパターナリズムpaternalismなどはその特質のいくつかである。社会は村落共同体よりも家的まとまりをもつプランテーション中心に構造化されてきたし(ファゼンダ),現代でも社会組織の中では,教会,学校,職場,クラブ等を契機とした人間関係に比べて家族的・親族的紐帯が際だって重要である。

 19世紀末まではポルトガル系の少数支配者層と奴隷・労働階級への階級的二大分裂が顕著で,中産階級の発達は遅れていたが,経済の多角化,相続・地力減退等に基づく土地の細分化,とくにヨーロッパからの移民の大量流入によって農村,都市における中産階級が急激に発達を促進され,この傾向はとくに南東部,南部において著しい。工業化の躍進とコーヒー等伝統産業の行詰りを契機に移民とその子孫から出た商工業界のエリート層が膨張し,農業に基礎を置く伝統的支配層を圧倒し,あるいはそれと融合・合体していった。一方,奴隷出身の黒人たちは都市に出ても工業労働者への道は外国移民に奪われて,長く貧困層に沈潜する者が多かった。また工業化優先政策と厳しい農村労働法の実施により,人口の都市集中は1960年代から新たな様相を呈し,都市貧困層の増大が大きな社会問題となっている(都市人口は1950年36%,70年56%,80年68%,89年74%)。経済的地域格差に基づく北東部からのサン・パウロ,リオ・デ・ジャネイロ方面への内国移民の移動も同様の傾向を助長している。人口密度は全体として低い(14人/km2)が,大西洋岸・南部で高く(南東部56人/km2),内陸・北部へ行くほど低い。おもな大都市はほとんど沿岸地帯にある。国全体が人種と文化のるつぼとなって国民を同化させ,同質な国民文化を築くのがブラジルの国づくりの国是であるが,その中核にはルーゾ・ブラジレイロ基層文化が据えられている。イタリア人,ドイツ人,日本人,韓国人等を含む多様な近代移民は一方ではこの基層文化に同化することを強く要求されると同時に,他方で古いパターンを変動させるのに大きな役割を果たしている。奴隷遺制につながる労働観・階級観は変質し,新しい勤労観に基づいた中産階級が育っている。

 中等以上の学校教育は長くエリートの特権とされてきたが,しだいに開放され,とくに1950年代以降地方中都市にも数多くの大学が開設されだして大衆化してきた。1940年には43%であった識字率も95年には83%となった。19世紀末にはカトリック教徒が総人口の99%を占めていて,ブラジル人であることとカトリック教徒であることはほぼ同義であったが,今日ではおもに都市中産階級の間でプロテスタント,心霊主義者らが急増している。プロテスタントは1890年に1%,1950年に3.4%,80年に6.6%と増え,都市では7.2%である。カトリック教会の影響下に長く禁じられていた離婚も合法化され,産児制限もようやく一般化しだして出産率が著しく低下してきた。1964-85年の軍事政権下ではブラジル・カトリック教会は解放の神学等の思想を採り入れ,反体制色を強め,草の根的大衆運動を広く展開していた。

日本人の移住は1908年の笠戸丸移民に始まり,60年代の日本の高度成長で急速に衰退した。1908年以前にも個々に渡航した者があり,〈神代の時代〉と呼ばれる。奴隷制廃止(1888)後まもないころで移民も奴隷的待遇を受けることが多く,イタリア政府がブラジル移民を禁じたためサン・パウロのコーヒー農場主が労働力不足に悩んだこと,他方カリフォルニアでは排日運動が高まって1907年に日米政府間に紳士協約が結ばれ,日本人移民がアメリカ合衆国に入りにくくなったことが相まって,ブラジルへの日本人移住は開始された。基本的にはサン・パウロ州内コーヒー農場における奴隷に代わるべき低賃金契約労働者として求められ,直接的にはイタリア移民の不足を補う形で導入された。

 1908-80年間に約25万人が移住(うち,第2次大戦後の移民は約6万人)。戦前移民の4分の3は1925-36年の約10年間に入国した。これは合衆国が1924年に排日法を成立させ日本人移民を締め出した結果である。全体の9割はコーヒー農場のコロノcolono(契約労働者)として移住した。95%はブラジルの生活を農業で開始している。全移民の9割(戦前では92.3%)がサン・パウロ州に入った。とくに戦前においてはほとんどが10年ぐらい働いて金をため,錦衣帰郷しようと考えた出稼ぎ移民で,永住心が定着するのは戦後のことである。西南日本出身者が多く,県別では熊本,福岡,沖縄,福島が多い。1家族に3人の稼働力をもつ家族移民を原則としたので,ペルーやハワイへの移民と異なり,初めから女性を多く含んでいた(初期には養子縁組による見せかけだけの家族もかなりあった)。

 契約年限はふつう1農年で,収穫期後の転職・転住は比較的に容易だった。コーヒー産業の衰退期に渡来したため,出稼ぎ目的は達成できなかったが,プランターたちに独占されていた開拓前線の土地が安価に売り出されたので,その後の社会上昇にはプラスとなった。移民の多くは,サン・パウロ州中部・北部の大農場地帯で数年間コロノ生活を経たのち,1920年代後半から30年代に同州北西部からパラナ州北部の開拓前線へ大量に移動し,綿,野菜,コーヒー栽培の独立小農層を形成していった。こうして彼らはノロエステ,奥パウリスタ,奥ソロカバナ鉄道沿線に幾百もの〈植民地〉と呼ばれる日系集団地を形成,日本人会,産業組合,青年団,処女会,日本学校,野球チームなどを組織して,やや日本村落類似のエスニック地域共同体を築いた。

 一方,軍事クーデタで政権をとったG.バルガスは国家主義的政策を推進し,外国人に対しては同化主義を強力に適用した。1933-34年には新憲法審議会を主舞台に排日運動が展開され,排日を目的とした移民制限法が成立した。37年に樹立された新体制下で外国人に対する規制はさらに強化され,外国語による学校教育,新聞等出版物の発行,結社,集会が強力な統制を受け,あるいは禁じられ,やがてそれに続く太平洋戦争の勃発によって日本人移民は暗黒期に入った。戦後,日本の勝敗をめぐって勝組・負組間の派閥争いが続いたが,50年代には平静に戻り,二世層の成長,戦争景気による社会上昇,日本敗戦をふまえてほとんどは永住主義に転じた。

 1940年代以降,日系人の都市化は急激に進み,1987年には89.2%(推計)が都市に住み,ほとんどは中産階級に場を占める。社会上昇の手段として子弟に大学教育を受けさせる傾向が強く,二,三世はおもにホワイトカラーの道を歩んでいる。一方,日本生れの一世は文化的障害もあって,むしろ独立自営の小経営者が多い。農業者は激減したが,都市周辺で野菜栽培をする者,市場で食糧流通にかかわる者は多い。一世の育成した産業組合組織はブラジルを代表するもので,国内での評価は高く,これを背景に最初の日系大臣も生まれた。戦後一時農業移民も入ったが,60年代からは技術移民が多く,移民も空港に降りる時代となった。同時に日本企業の進出も著しい。1987年に実施されたサン・パウロ人文科学研究所による推計調査によれば,日系人の人口総数は116万8000人で,そのうちの28.1%が多様な形での混血人口である。1997年現在では日系人総数は約130万人と見なされていて,ブラジルの全国に居住(71%がサン・パウロ州に集中)し,政府の高官から富裕層,都市の貧困層まであらゆる職種と階層に見いだされる。
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1960年代初頭に至るまで,ブラジルの政治は,主として階級よりも地域を,イデオロギーよりも個人的関係を軸として展開した。それは一つには,歴史的・経済的・文化的理由で,広大なブラジルの各地方が,異なった利害関係と人間関係によって特徴づけられる割拠的な性格を強めたからである。また,文盲には選挙権が与えられなかったこともあって,長い間ブラジルの政治が少数の有産者と都市中間層によって担われ,労働者や農民の政治参加が低いレベルに押さえられていたためでもある。

 1889年にブラジルで君主政が倒された理由の一つは,国王と地方の経済的・政治的有力者との対立であったし,その結果出現した第一共和政(1889-1930)も〈州知事政治〉と呼ばれ,有力な州政府を握る地方政治家の合意によって成り立っていた。すなわち,各州には州兵の維持を含む広範な自治権が与えられたが,それと交換に各州の有力者は,サン・パウロ州とミナス・ジェライス州の政治家が交互に連邦政府を握ることを許したのである。この〈州知事政治〉は,第1次大戦の前後から工業経営者,労働者,都市中間層など新しい経済的・政治的勢力の伸張がみられたこと,さらに1930年の大統領選挙の際,きびしい経済危機のために地方有力者間の合意が崩れたことの二つを主要な原因として機能不全に陥ることになった。結局,青年将校の支持を得たG.バルガスが政権を握った。

 1934年憲法によって成立した第二共和政の下で,バルガスは州兵の中央統制を含む中央集権化を進め,37年以後〈新国家Estado Novo〉体制を樹立することで連邦政府の独裁権をいっそう強化した。この新体制の下で地方有力者の拠点であった議会は解散させられる一方,工業経営者,労働者,中間層など新興勢力の多くを,シンジカートと呼ばれる公認組合に組織化する試みがなされた。地域主義に基づく伝統的な政治体制によっては統合しえない新しい社会階級を,全国規模の職能組織に統合したうえで連邦政府の支配下に置こうとしたのである。

 バルガスによる中央集権化の試みにもかかわらず,ブラジル政治の地域主義的・個人主義的伝統は46年以後の第三共和政の時代にも残存した。この時期は,競争的・民主的政治の時代もしくは人民主義の時代として知られているが,その実態は代表民主主義というよりは,パトロン・クライアンテリズムpatron-clientelism(クリエンテス)に基づく政治であった。この時代の主要な政党は,バルガス支持者が結成したブラジル労働党(PTB)と民主社会党(PSD),反バルガス派が結成した国民民主連合(UDN)の3党であるが,いずれも長期的綱領やイデオロギーに基づく政党というよりも,地域的・個人的性格の強いグループが緩やかに結合しただけのきわめてプラグマティックな政党であった。すなわち,各地の有力政治家はカーボ・エレイトラルcabo eleitoralと呼ばれる選挙屋を使って,公職・公共事業契約その他の報酬と引換えに票を集めさせ,その過程でイグレジーニャigrejinhaと呼ばれる個人的な親分・子分関係を形成した。政治家はまた,官界,財界,法曹界などを横断するパネリーニャpanelinhaという非公式の派閥を形成した。

 物質的財の分配を軸とする政治は,1950年代半ば以後輸入代替工業化が行き詰り,インフレや貿易収支が悪化するにつれ,維持し続けることが困難となった。限られた財をめぐる諸階級間の争いが激化する一方,政党間の競争が労働者・農民の自立性を高め,その組織的力量を増大させたのである。このことは,地域主義的・個人主義的原理に基づいて組織されてきた政治制度が,工業化の進展にともなうブラジルの新しい社会状況に対処しえなくなったことを意味している。

1961年に大統領となったPTBのジョアン・グラールJoão Goulart(1918-76)は,政府の支持基盤を広げるために労働者・農民を動員したが,左翼勢力の部内浸透とキューバ型革命の勃発を恐れる軍部が,64年3月31日にクーデタを起こし軍事政権を樹立した。ブラジルの軍部は早くから専門職業化が進み,第一共和政の時代以来文民政治の後見人のような役割を果たしてきた。つまり軍部は文民政治が行き詰まるたびに政治介入を繰り返したが,それも文民政治家間の妥協が成立するまでの短期的な干渉にすぎなかったのである。しかし64年に成立した軍事政権は,以来21年間政権を維持し,その間5人の軍人大統領が登場した。

 〈国家安全保障ドクトリン〉に基づいて治安維持と経済開発をめざす軍部は,まず労働組合・農民組合のパージを行い,急進化した労働者・農民の非政治化を図った。他方,軍事政権は65年10月の軍政令2号によって,大統領選挙を議会による間接選挙に改めると同時にすべての政党に解散を命じた。そのうえで,既存の政党をPSD多数派とUDNを中心とする与党国民刷新同盟(ARENA)と,PSD少数派とPTBを中心とする野党ブラジル民主運動(MDB)の2党へ再統合させた。軍事政権は67年3月に新憲法を施行したが,反対運動がおさまらなかったために,その後も軍政令とその補助令を連発して反政府人士の公民権剝奪・公職追放を行う一方,議会の権限を大幅に縮小した。歴代の大統領はまず将校団が選出した者を議会が追認する形で選ばれた。こうして出現した政治体制は,民主主義的ではないが,ファシズム体制のように大衆動員に訴えることも,単一の前衛政党による国民生活への浸透を目ざすこともないため,全体主義体制と区別する意味で〈権威主義体制〉と呼ばれることがある。

 労働運動・農民運動と議会の抵抗を押さえた軍事政権は,文民テクノクラートを登用して工業の高度化政策に乗り出し,国家資金と外国資本を中心に,ブラジル民間資本を加えた3者の協力体制の下で,68年から74年にかけて〈ブラジルの奇跡〉と呼ばれる高度経済成長をもたらすことに成功した。

 しかし70年代半ば以後,政界,新聞界,法曹界,カトリック教会,労働組合等の間に民主化を求める声が強まり,財界の中にすら公営企業の過度の拡大や政府の経済政策に公然と反対する者が現れた。79年3月に政権についたバプティスタ・フィゲイレドBaptista Figueiredo(1918-99)政府は,民主化の一環として恩赦を行うと同時に,79年11月には政党の組織化に対する規制を一部緩めた。その結果,官製の〈二大政党制〉は崩れ,元ARENA議員を中心とする社会民主党(PDS),元MDB議員を中心とするブラジル民主運動党(PMDB)をはじめ,ブラジル人民党(PPB),労働民主党(PDT),労働者党(PT)など多数の政党が組織された。この政党再編の過程で,中央集権化とテクノクラシーによって特徴づけられる軍事政権の時代にも,ブラジル政治の地域主義的・個人主義的伝統が完全には払拭(ふつしよく)されなかったことが明らかとなったが,新たな動きとして,サン・パウロ地区金属工業労働組合の指導者イナシオ・ダ・シルバ率いるPTの出現があった。85年1月,民政移管のための大統領選挙(間接選挙)が行われ,野党PMDBのネベスが与党PDSから分かれた自由戦線党(PFL)の支持も得て圧勝したが,ネベスは就任直前に急死したため,サルネイ副大統領(PFL)が昇格した。88年10月に新憲法が公布され,これに基づいて89年11,12月に国民の直接投票による大統領選挙が行われた。12月の決選投票は,中道右派の新党国家再建党(PRN)のコロル・デ・メロとPTのダ・シルバの間で争われ,コロルが当選した。
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ブラジル経済は,1964年の軍事政権成立以降,60年代後半から70年代前半にかけて,急速な経済成長を遂げたが,80年代は対外債務問題等により投資が減退し,1人当り所得の減少という〈失われた10年〉を経験した。さらに80年代後半から90年代前半にかけてインフレが高進し,93年には年率約2500%のハイパーインフレを記録した。94年に1ドルを1レアル(新通貨導入)とするドル化政策(同様なことは,91年にアルゼンチンでも行われた)によりインフレは終息傾向(1996年約10%)にあり,マクロ経済は安定しつつある。95年の1人当り国民総生産は3640ドルになった。

 90年代に中南米諸国は,政治の民主化の下で経済の自由化を大胆に進めており,ブラジルも例外ではない。政府介入を排し国営企業を民営化し,貿易・投資の自由化が進展している。ブラジル,アルゼンチン,パラグアイ,ウルグアイの4ヵ国による南米南部共同市場(メルコスール)はこうした自由化の流れを受け91年に発足し,95年には対外共通関税を施行した。この経済統合を通じておもに,ブラジルとアルゼンチン間の貿易・投資が活発化している。ブラジル経済は,エネルギー,インフレ,対外債務累積といった諸問題をかかえ混乱が続いたが,人的および天然資源開発のポテンシャルは高く,90年代後半から安定した発展が期待されている。

第2次大戦が終了するまでブラジルには,本格的な工業化政策はないに等しかった。一次産品,とくに輸出農産品を中心とする経済発展がブラジルの姿であった。例えば,16世紀後半から19世紀前半にかけては,砂糖の時代と呼ばれ,北東ブラジル(ノルデステ)を中心にプランテーションでサトウキビが植えられた。農園の労働力には,インディオおよびアフリカからの黒人奴隷が使用された。奴隷貿易は,1830~50年の間が最も頻繁に行われたといわれ,88年に奴隷制が廃止されるまでブラジル経済は奴隷によるプランテーション農業に特徴づけられていた。また一時期,17世紀の終りから18世紀前半にかけては,ミナス・ジェライス州を中心とする金,ダイヤモンドの時代(1690年の金鉱発見,あるいは1729年のダイヤモンド発見等)があった。これら鉱物資源の探査・採鉱は,のちの鉄鉱石,マンガン,ボーキサイトといった同国の主要鉱物資源生産の基礎となった。

 次に登場するのがコーヒーである。コーヒーの時代は,パライバ谷を中心とする1880年代の第1期,およびサン・パウロ,パラナ州を中心とする第2期(1890-1929)のコーヒー・ブームに分けられる。コーヒー輸出の総輸出額に占める割合は,1898-1910年の年平均で53%,および1924-29年の年平均で実に73%に達した。当時の経済政策は,コーヒーを守る,あるいはコーヒー農園主の権益を守るためにのみ行われ,工業化は隅に押しやられていた。

 綿栽培に関しては,北東部を中心に灌木になる多年生の綿がインディオの間でとられていたが,アメリカの南北戦争(1861-65)により原綿が世界的に不足し,その結果,当時最大の綿買付け国であったイギリスが,1860年代にサン・パウロ地域にアメリカ綿(アップランド種)を導入して広範に栽培されるようになった。

 一方,1888年に行われた奴隷制の廃止は,大きな社会変動をもたらした。サトウキビ・プランテーションの衰退と,コーヒー農園における労働力不足である。そこで新たな労働力としてヨーロッパから移民が積極的に導入された。1888-1940年の間に移民総数は約400万人に達したといわれる。日本からも1908年に第1回移住が行われた。

 これら大量の移民および解放された黒人たちは,当初はコーヒー園労働力として,またしだいに他の農産品生産に従事するようになり,さらに一部は都市部に集まってきてサービス部門や工業部門の労働力となっていった。またそれ自身で消費財の需要マーケットを形成していった。

この時期はまた,リオ・デ・ジャネイロ,サン・パウロを中心に産業が発達した時期でもあった。とくにインフラストラクチャー投資がこの地域に集中したことは工業化に貢献した。外国資本によるものであったが,鉄道網,港湾設備,および電力供給等が徐々に整ってきた。国産原料を使用する綿,砂糖,木材,皮革等の軽工業はこの時期に基盤をつくったといえる。例えば,綿業は1866年から85年にかけて工場建設ブームが起こり,1929年ごろまで拡大の一途をたどった。しかし,コーヒーを主とする農産品輸出に立脚していたブラジル経済は,29年の大恐慌を契機に不況に突入した。これは先進国の需要減による輸出不調およびコーヒー危機(1929年を境にコーヒーの国際価格が下落)に起因した。コーヒー危機は農産品の多角化を促し,とくに綿花の生産が増加した。またコーヒーによって蓄えられた資金が工業に投資されるという結果を生んだ。

 30年代は,軽工業および一部の重工業で輸入代替が進展した。当時,交易条件の悪化と外国資本流入がやんだことにより外資不足が発生し,通貨の切下げが行われ,その結果,高くなった輸入品より国産品を買う傾向が強まったからである。

 第2次大戦以後,50年代になってブラジルの工業化に顕著な変化が現れた。52年に国立経済開発銀行(BNDE)が設立され,また同年工業開発案件を審議・認可して税制および金融面での恩典を与える工業開発審議会(CDI)が創設された。そしてクビチェック大統領による野心的な重化学工業化計画(メタス計画,1957-61)が発表された。同計画は,エネルギー,輸送等のインフラストラクチャーを整備し,製鉄,自動車,造船等の基礎産業の振興を図るものであった。

ブラジル石油公社(ペトロブラス)は1953年に創設され,石油の開発・精製をほぼ独占し,鉄鋼業では1946年にすでに設立されていた国立製鉄所(CSN)のほかに,メタス計画により63年にミナス製鉄所(USIMINAS),および64年にパウリスタ製鉄所(COSIPA)ができた。また自動車工業に関しては,1956年の同工業実行委員会の指導により,フォード,フォルクスワーゲンといった外資系メーカーが生産を開始した。こうした基礎の上に諸産業は,64年の軍事革命のあと,政府経済行動計画(1964-66),開発戦略三ヵ年計画(1968-70),第1次国家開発計画(1972-74),および第2次国家開発計画(1975-79)等の諸計画を通して急速に進展した。とくに68年から第1次石油危機までの5年間は〈ブラジルの奇跡〉といわれた,年平均実質成長率11%の高度成長を達成したのであった。

 積極的な外資の導入,および重工業への優先投資といったものがブラジルの工業化を成功させたのであるが,さらに軍事政権下で大胆な諸制度の近代化が行われた点も見のがせない。銀行制度改革法(1964),資本市場法(1965)や,通貨価値修正制度(物価上昇の影響を指数化して金融資産,賃金,為替レート等を修正),および強制的貯蓄制度(社会保険や年金の強制積立て)等の導入である。これらにより資金の流れが整備され,中・長期の投資がスムーズに行われるようになった。

 第3次国家開発計画(1980-85)では,農業開発に重点が置かれた。これは,今までの工業優先策の結果,地域・所得格差拡大等に見られる分配面での考慮がなおざりにされたことへの反省に基づいている。またブラジルのアキレス腱である石油に関して,その代替としてサトウキビ等のバイオマスによるアルコール生産を高める意図もあった。

 85年,軍政に代わり21年ぶりの文民大統領が出現したが,その後の政治的混乱が経済面へも影響し,インフレが急進してそれに対するショック療法が何度か行われた。対外債務問題にも有効な対策が採られないまま,ブラジル経済は減速・低迷した。一方,石油開発は,陸棚を中心に徐々に生産が増え石油と天然ガスを合わせた自給率は59%(1994)となった。

 猛威を振るったインフレは,94年の1ドル=1レアルとする〈レアル・プラン〉によるドル化政策が成功して終息に向かった。
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ヨーロッパ人の渡来前に,今日のブラジルに当たる土地には,約150万人の先住民が住んでいた。彼らは,生活様式によって,(1)熱帯雨林に住み焼畑いも栽培と漁労とで生活を営む人々,(2)狩猟採取によって生活を営む人々,に大別された。アマゾン川流域と海岸部一帯には,前者に属するトゥピ・グアラニー語族が分布していた。彼らは数百人の集落に分かれ,単一の長方形住居に共同生活をし,互いに戦闘を繰り返していた。焼畑にキャッサバ,トウモロコシ,豆,トウガラシ,カボチャ,サツマイモ,タバコ,パイナップル,綿花などを植えて,食料などを得,土器,籠編み,織物も行っていた。彼らの生活は,自然環境との調和を特色としており,停滞的ともいえた。新大陸のアステカ,マヤ,インカなどの高度な文化をもつ先住民と比べるとその発展段階は遅れていたが,熱帯の環境にはむしろ適合していた。

コロンブスのアメリカ〈発見〉(1492)ののち,ポルトガルとスペインはトルデシーリャス条約(1494)を結び,カボ・ベルデ諸島より西370リーグの地点を通る経線の東の新領土をポルトガル領,西をスペイン領と決めた。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(1498)後,1500年P.A.カブラルがインドに向かう途上ブラジル海岸に漂着し,探検したのでブラジルはポルトガルの領土となった。当初は染料となる木パウ・ブラジルのみが輸出商品であり,インドなどアジアに関心をもつポルトガルはブラジルを軽視していた。1530年に王室はM.A.ソウザMartim Afonso de Sousa(1500-64)に探検,入植を命じた。彼は32年サン・ビセンテのカピタニアを創設した。ブラジルは15のカピタニアに分割されたが,サン・ビセンテとペルナンブコのみが開発と入植に成功した(カピタニア制)。しかし,民間人の資力に依存する入植がうまくいかなかったので,49年サルバドルに総督府を置き,総督governador geralが植民地全体の行政官として統治することになった。初代総督トメ・デ・ソウザが約1000人の入植者,官吏,兵士,職人,聖職者を率いて着任した。51年にはブラジル司教区が創設された。55年,ポルトガル人の警戒の目をくぐってフランス人がグアナバラ湾に植民地を建設していたが,67年に撃破される。ペルナンブコ(港市レシフェ)とバイア(港市サルバドル)を中心とする北東部の沿岸部の大農園で,黒人奴隷を使って砂糖が生産され,ポルトガルの富の源泉となった。北東部の内陸の半乾燥地帯では粗放的牧畜が行われ,糖業地帯に家畜と食料を供給した。

スペインは1580年にポルトガルを併合したので,ブラジルもスペイン帝国に編入された。スペインの影響は植民地統治にも及んだ。例えば,1604年に植民地統治機関としてインド審議会Conselho da Indiaがつくられた。12年にはフランス人が新たにマラニョンに植民地を建設したが,翌年スペインに征服された。スペインと交戦中のオランダはブラジルをも攻撃目標とし,30年レシフェを占領し,北東部の砂糖生産を支配しようとした。40年ポルトガルはスペインから独立し,ブラガンサ家が王位についた。54年ブラジル人部隊とポルトガル艦隊の力でオランダ人は撤退させられた。しかし,オランダ人がカリブ海に糖業技術を普及したため,17世紀の後半にブラジルの糖業は国際競争力を失い,植民地人の所得はそれ以前に比べて推定3分の2に低下した。このため,ブラジル南部への伸展を余儀なくされたポルトガル人は,80年にラ・プラタ川に面してコロニア・ド・サクラメントをつくった。

1693年サン・パウロのバンデイラによって内陸のミナス・ジェライスで金が発見され,未曾有のゴールドラッシュが起きた。衰退しかけた北東部ばかりでなく,ポルトガルからも多数の移民が殺到した。ミナスは,無人の地から18世紀末には50万の人口をもつにいたり,植民地の主都は1763年にミナスの外港リオ・デ・ジャネイロに移された。金は人口を内陸にひきつけ,本格的な都市社会を出現させ,サン・パウロ以南や北東部を食料供給地に変えた。1750年のマドリード条約によって,トルデシーリャス条約線の西のブラジル人占拠地がポルトガル領とされ,ブラジルの国土は大幅に拡大した。同年本国でポンバル侯が宰相となって,一連の改革に着手し,59年彼はイエズス会をブラジルから追放し,同会の管理していた教育機関とインディオの教化部落の運営に打撃を与えた。79年のサン・イルデフォンソ条約は,スペインにバンダ・オリエンタル(ラ・プラタ川東岸),ポルトガルにアマゾン領有を認めた。89年ミナスで独立の陰謀が発覚(ティラデンテス),98年サルバドルで〈仕立屋の反乱〉が発覚するなど,独立へのきざしが現れはじめた。

独立は,外圧と政治構造の上からのイニシアティブによって実現した。1807年末ナポレオンの指令を受けたフランス軍はリスボンを占領した。その直前ブラガンサ王家はイギリス艦隊に助けられ,約1万5000人の貴族,官吏とその家族を連れてブラジルに逃れ,08年初めリオ・デ・ジャネイロに遷都した。摂政ジョアン6世(のちに国王)は,植民地の諸港をすべての外国船に開放して,製造工業禁止令を撤廃した。10年ブラジルは対英通商条約を結び,イギリスに最恵国待遇を与えた。このため工業化の可能性は安価・良質なイギリス製品との競争によって閉ざされてしまった。15年ブラジルは王国に昇格し,ポルトガルと対等の立場を得た。16年ポルトガル軍はウルグアイを占領し,21年シスプラティーナCisplatina県としてブラジルに併合した。ナポレオンの失脚後解放された本国の要請により,ジョアン6世は21年帰国したが,王子ペドロを残した。22年ペドロは,サン・パウロ市の郊外イピランガでブラジルの独立を宣言し,スペイン系アメリカと異なり,ほとんど流血なしに独立が実現した。

 24年ペドロは欽定憲法を公布し約70年の帝政の基礎をつくった。ブラジルは集権国家となり,皇帝には三権に介入できる調整権が与えられた。同年アメリカ合衆国がブラジルの独立を承認し,翌年イギリスがこれに続いた。イギリスの働きかけでポルトガルも承認したため,他のヨーロッパ諸国もこれにならった。同年ウルグアイをめぐってアルゼンチンとの戦争が始まり,28年にイギリスの仲介により,ウルグアイの独立を条件として講和が実現した。27年にはオリンダとサン・パウロに最初の法学校が開設され,全国的視野をもつエリートの育成が始められた。ペドロはブラジル人の反発を受けて31年に退位し,ポルトガルに帰国した。王子ペドロ(のちの皇帝ペドロ2世)は5歳であったため,3人の摂政が統治することになった。34年の憲法修正令は連邦共和政の実験を導入したが,南部のファロウピリャの反乱(1835-45)に代表される各地の分離独立運動を誘発し,国民の危惧を招いた。

 40年国会は15歳のペドロを成人と認定して皇帝に即位させ,憲法解釈令は,再び皇帝と中央政府に強い権限を与えた。44年対英通商条約が失効し,消滅した。ブラジルは初めて関税障壁を設定できる立場にたったが,イギリスの市場支配はすでに確立していた。しかし,ペドロ2世治下の政治的安定は,奴隷貿易禁止令(1850)による資本の解放と相まって,急速な経済発展の条件をつくり出した。51年ヨーロッパとの定期航路に初めて蒸気船が就航した。マウアー子爵は,この時期の代表的な企業家であった。65年アルゼンチン,ブラジル,ウルグアイは3国同盟を結んでパラグアイと開戦し,70年に勝利した(パラグアイ戦争)。終戦とともに,共和政運動と奴隷解放運動が表面化し,陸軍の青年将校が帝政に批判的になった。88年黄金令Lei Áureaによって,すべての奴隷が無補償で解放された。共和主義者の軍人は,農園主層の反発を利用して89年皇帝を廃位し,亡命させた。

1891年の新憲法により,ブラジルは連邦共和国となった。有力な歳入源である輸出税が中央政府から州政府に移されたため,コーヒー栽培の中心地であるサン・パウロ州は最強の政治力をもち,州知事から大統領になる者が多かった。州政府は,移民の旅費を負担して誘致したり,鉄道建設を支援したりした。1930年移民の入国が制限されるまでに渡来した移民の数は約400万人と推定されるが,その6割までもがサン・パウロ州に向かった。第1次大戦後ナショナリズムと改革運動が盛んになった。最強のサン・パウロとミナス・ジェライス両州の提携と政権のたらい回しは,諸州の不満を招いていた。リオ・グランデ・ド・スル州のG.D.バルガスは1930年の大統領選挙に出馬して敗れたが,不正を口実に反乱を起こし,軍部の支持により大統領に就任した。彼はさまざまな政治勢力を対抗させ,ついで次々に諸集団を解散し,非合法化することにより独裁体制を確立した。37年には〈新国家Estado Novo〉を宣言,バルガスは国家の経済介入,労働社会立法,民族主義の高揚などを実現した。第2次大戦には連合国側に立ち参戦し,44年イタリア戦線に派兵した。終戦後民主化の気運の中で,45年軍部はバルガスを失脚させた。46年議会制民主主義が復活,50年バルガスは大統領に選出された。彼の政策は以前よりも急進化したが,54年自殺した。

1954年就任したクビチェック大統領は,〈50年の進歩を5年で〉をスローガンに外国資本と技術の導入を促進し,急速な工業化を達成した。60年には新首都ブラジリアへの遷都も実現した。しかし,その財政負担のため,64年までの経済停滞と悪性インフレを引き起こし,同年4月1日のジョアン・グラール大統領の失脚と長期軍事政権成立の遠因をつくった。以後5人の軍人大統領が交代した後,85年には21年ぶりに民政に復帰,タンクレド・ネベス(1910-85)が大統領に就任したが,その直後に病没。副大統領ジョゼ・サルネイ(1930- )があとを継いだ。88年に新憲法が公布され,89年には29年ぶりの国民の直接投票による大統領選挙が行われ,コロル・デ・メロ(1949- )が当選した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ブラジル」の意味・わかりやすい解説

ブラジル

◎正式名称−ブラジル連邦共和国Federative Republic of Brazil。◎面積−851万4877km2。◎人口−2億277万人(2014)。◎首都−ブラジリアBrasilia(248万人,2010)。◎住民−白人54%,パルド40%,黒人5%など。◎宗教−カトリック74%,プロテスタント23%。◎言語−ポルトガル語(公用語)。◎通貨−レアルReal。◎元首−大統領,ルセーフDilma Rousseff(2011年1月就任,2014年10月再選,任期4年)。◎憲法−1988年10月公布。◎国会−二院制。上院(定員81,任期8年,4年ごとに議員の3分の1と3分の2を改選),下院(定員513,任期4年)。2010年10月下院選挙,労働党88,ブラジル民主運動79,ブラジル社会民主党53,民主党43,共和党41など。◎GDP−2兆4929億ドル(2011)。◎1人当りGDP−1万2789ドル(2011)。◎農林・漁業就業者比率−15.0%(2003)。◎平均寿命−男68.5歳,女76.1歳(2006)。◎乳児死亡率−17‰(2010)。◎識字率−90.0%(2008)。    *    *南米大陸北東部の連邦共和国。〔自然・経済〕 国土は北緯5°から南緯33°にわたり,南米大陸の約47%に及ぶ広大な面積を有する。北部をアマゾン川が東流,その流域は熱帯降雨林におおわれた低地。中央部はブラジル高原が広がる。南東部を北東から南西に2条の山脈が走り,その東方,大西洋岸地帯は気候も温帯性で最も開発が進み,人口が集中している。北東部(ノルデステ)は低開発地域で,都市への人口流出も多い。 農業ではコーヒー生産が世界一であるほか,綿花,サトウキビ,米,トウモロコシ,コウマ,カカオ,キャッサバ,タバコなどの産が多く,畜産は牛,豚,羊,ヤギなど。ミナス・ジェライス州の鉄をはじめ,鉛,石炭,マンガン,クロム,雲母,タングステンなど鉱物資源は豊富。近年製糖,鉄鋼,機械,自動車などの工業の発展がめざましく,世界屈指とされる水力資源の開発も進められている。機械,鉄鋼,自動車,鉄鉱,コーヒーなどを輸出するが,石油,小麦など食糧のかなりの部分を輸入に依存する。〔歴史〕 1500年ポルトガル人カブラルがブラジル海岸に漂着して南米唯一のポルトガル植民地となり,16世紀半ば以降黒人奴隷制の下で開発が進められた。1693年内陸のミナス・ジェライスで金が発見され,ゴールドラッシュが起きた。1807年ナポレオンに追われたポルトガル王室(ブラガンサ家)がブラジルに逃れ,その帰国後の1822年残った王子がペドロ1世として本国からの独立を宣言して帝制をとった。1889年軍による無血革命で共和国が成立した。1930年就任したバルガス大統領(在任1930年―1945年,1951年―1954年)は,独裁権力を行使して統一国家形成,近代化に取り組んだ。1950年代にクビチェック大統領のもとで工業化が促進され,1960年ブラジリアへの遷都も実現したが,1964年から軍政が続き,1985年ようやく民政に復帰した。この間には〈ブラジルの奇跡〉と呼ばれる高度経済成長と,一転その破綻(ハイパーインフレ,巨額の財政赤字と対外債務など)とを経験した。カルドーゾ蔵相(のち大統領)のもとで1994年クルゼイロから新通貨レアル(米ドルと等価)への切替えがなされ,インフレは鎮静化したものの,1998年秋の通貨危機後,1999年1月には通貨切下げ,変動相場制への移行に追い込まれた。隣接するウルグアイなど3国と1991年南米南部共同市場(メルコスール)を結び,1995年からは域内関税を撤廃するなど,EU型の地域統合が目ざされている。〔2000年代以降の政治・経済〕 2003年1月にルラ・ダシルバ(労働党)が大統領に就任し,同国最初の左翼政権が成立,2007年再任。2010年10月の大統領選では同じく労働党のルセーフが選出された。大統領選と同時に行われた上下両院選挙でも連立与党が70%を超える議席を得て,政権は比較的安定している。ルセーフ大統領はブラジルを中間層の厚い社会にすること等を目標として掲げ,福祉,教育,保健,治安を優先課題とした。しかしこのことはいまや世界第6位の経済規模を有するブラジルが,急速な経済発展に起因する貧富格差,治安悪化,教育,福祉などの立ち遅れという大きな矛盾を内包していることを示しており,経済安定と改革重視の政策が実現されることで世界経済の安定化に寄与しうるか注目されている。2014年サッカーワールドカップ開催,2016年夏季オリンピック開催地としてリオデジャネイロが決定されているが,2013年6月コンフェデレーションカップの大会期間中にリオデジャネイロをはじめ全国の主要都市で,ワールドカップ開催で巨額出費するよりも教育・医療改革などの充実を求める大規模デモが発生,デモ隊と警察が衝突し,多数の拘束・逮捕者を出す事態となった。14年10月の大統領選決選投票では,国を二分した大接戦の末,与党・労働党の現職ジルマ・ルセーフ大統領が最大野党・社会民主党のアエシオ・ネベス上院議員を破って再選を決めた。ルセーフ大統領の得票率は51.64%。都市部の中間層は,インフレや教育,医療の不備を解決できない現政権に不満を抱き,多くがネベスを支持したとみられる。ルセーフは貧困層からの根強い人気に支えられ,僅差で勝利したものの,国内には難題が山積している。翌年に五輪を控える大国をどう立て直すか,難しいかじ取りを迫られることになる。1908年の農業移民に始まった日本人移住により,現在では約140万人の日系人社会を形成,その規模は世界最大である。
→関連項目国連環境開発会議BRICsポルトガル

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブラジル」の意味・わかりやすい解説

ブラジル
Brazil

正式名称 ブラジル連邦共和国 República Federativa do Brasil。
面積 850万2728km2
人口 2億1337万2000(2021推計)。
首都 ブラジリア

南アメリカの国。南アメリカ大陸のほぼ半分を占め,世界第5位の面積をもつ。東側は大西洋に面し,北から西,南にかけては,チリとエクアドルを除く南アメリカのすべての国と国境を接する。北部をアマゾン川が東流し,その上・中流域に広大な低地が広がるが,国土の約 60%は標高 200m以上の丘陵,高原,低い山地からなり,中部から南部にかけてはブラジル高原が占め,北縁部にはギアナ高地が連なる。最高峰はネブリナ山(3014m)。主要水系は国土の半分以上を流域とするアマゾン川水系のほか,南部のラプラタ川水系,東部のサンフランシスコ川水系。気候は北部の熱帯雨林気候,中部のサバナ気候,南部の温帯湿潤気候に大別され,北東部が年降水量 500mm以下の乾燥地帯となっているほかは,ほぼ全域にわたって十分な降雨があり,アマゾン川の上流域や河口部には年降水量 2000mm以上の多雨域が広がる。16世紀から 19世紀初めまでポルトガルの植民地であったため,住民はポルトガル系白人と先住民のラテンアメリカインディアン(インディオ)や奴隷として連れてこられた黒人との混血が最も多い(→メスティーソムラット)。そのほか独立後流入したヨーロッパ系,中近東系,アジア系の住民を加えて民族構成はきわめて多様で,日系人も多い。公用語はポルトガル語。国教は定められていないが,圧倒的多数がキリスト教のカトリック。世界最大の生産量であるコーヒーをはじめ,農産物が重要な輸出品で,世界有数の農産物輸出国。主要作物はコーヒーのほか,サトウキビ,ダイズ,米,トウモロコシ,オレンジなど。牧畜も重要で,ウシ,ブタの飼育頭数は世界有数。鉱物,森林,水力などの膨大な天然資源は,近年工業発展に促されて開発が活発になっている。特にミナスジェライス州を中心に鉄鉱石の採掘が盛んで,鉄鉱石はコーヒーとともに重要な輸出品である。ほかにスズ,石油,天然ガス,ボーキサイト,リン灰石,マンガン,クロム,水晶,ダイヤモンドなどが採掘される。第2次世界大戦後本格的に発展し始めた工業は,1960年代に入って鉄鋼,自動車,機械,石油製品の各部門で急成長を示し,在来工業である繊維,たばこなどの農産物加工業の伸びと相まって,1990年には国内総生産の 4分の1を占めた。輸出に占める工業製品の割合はしだいに増加し,今日では南アメリカ最大の工業国となっている。21世紀初めには,急速な経済成長を遂げたインドなどとともに BRICSと呼ばれた。人口,産業が集中する大西洋沿岸部には鉄道・道路網が発達しているが,広大な内陸部では水路のほかは空路が主要交通路で,道路も通じない人跡未踏の地域も広い。1970年代にトランスアマゾン・ハイウェーの建設が進められ,残された世界の資源宝庫といわれるアマゾン地方も開けつつあるが,地球環境保全のため熱帯林保護を訴える声も多い。(→ブラジル史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブラジル」の解説

ブラジル
Brasil[ポルトガル],Brazil[英]

南アメリカ大西洋岸の大国。連邦共和制をとる。熱帯林に適応した根菜栽培民や狩猟民が住んでいたが,1500年ポルトガルのカブラル艦隊が接触,1494年のトルデシリャス条約によってポルトガル領となった。委託制度による開発が失敗し,1549年北東部のサルバドルに首都を置く総督制をとった。16世紀後半からアフリカの黒人奴隷を使役してヨーロッパ市場向けの砂糖を生産する大農園が発達した。1630~54年北東部がオランダ人に占領され,オランダ人が製糖技術をカリブ海地方に伝えたため,17世紀後半から製糖業にかげりが生じた。93年ミナス・ジェライスにおける金の発見によって未曾有のゴールド・ラッシュが起こり,1720年総督は副王に格上げされ,63年首都はリオ・デ・ジャネイロに移された。ブラジルの独立は中南米の他国とは異なり,1822年帝国として独立した。88年奴隷制廃止,翌89年共和制に移行した。19世紀はゴムついでコーヒーの生産で経済的繁栄の時代となり,多数のヨーロッパ移民がサンパウロ州を中心に入った。日本からの移民も1908年に始まった。コーヒー経済の危機は,ヴァルガスの「新国家」体制の引き金となった。第二次世界大戦後の急速な工業化に伴う経済的変動は政治状況の不安定を生み,64~85年の軍事政権時代を経験して,85年民政に復帰した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ブラジル」の解説

ブラジル

南アメリカ東部を占める国。漢字表記は伯剌西爾。略称は伯国。1500年ポルトガル人カブラルが発見してから入植が始まり,ポルトガル領となる。1822年独立を宣言して立憲君主国となったが,89年革命で共和国となった。日本との関係は,95年(明治28)通商航海条約を結び,以後日本移民最大の移住先となる。1908年コーヒー農園契約移民781人がサンパウロ州に移住し,昭和初期には年間2万人をこえた。太平洋戦争で国交を断絶して宣戦布告。戦後は日系人の間で勝組・負組の対立などがおこった。51年(昭和26)サンフランシスコ講和条約で国交回復し,農業・技術移民も再開された。かつてはコーヒーとアマゾンの国のイメージであったが,現在は南アメリカ最大の工業国。日本の貿易・投資なども南アメリカ中1位。正式国名はブラジル連邦共和国。首都ブラジリア。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ブラジル」の解説

ブラジル
Brazil

南アメリカ大陸の東部を占める共和国。首都ブラジリア
1500年カブラルが漂着して以来,ポルトガルの植民地として砂糖生産が発展。19世紀初めにポルトガル王室が亡命し,1815年ポルトガル−ブラジル連合王国となった。1822年ポルトガルから正式に離れ,89年革命により共和国となった。1930〜45年ヴァルガス大統領の権威主義的な独裁が行われた。1964年グラール民主政権が誕生したが,軍部がクーデタを起こし,議会制度が存続するものの,右派軍部が実権を握った状態が続き,85年には民政に復帰し,88年には新憲法が公布された。

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世界大百科事典(旧版)内のブラジルの言及

【トルデシーリャス条約】より

…同条約により,スペインの勢力範囲はベルデ岬諸島西方370レグアの地点に引かれた分割線の西側と定められた。その結果,南アメリカの実体が明らかになるにつれて,ブラジルがポルトガルの管轄下に入ることになった。さらに,この条約は15世紀末のあいまいな地理知識にもとづいて作成されたので,のちに東洋とりわけモルッカ諸島の領有権が両国間で争われることになった。…

【ポルトガル】より

…そのほか中国に海外領土澳門(マカオ)(面積16km2)を領有する。15世紀以来,大航海時代の先駆者としてアフリカ,アジア,新大陸ブラジルに広大な植民地を有し,〈最後の植民地帝国〉といわれたが,1974年の革命で植民地をすべて解放した。ポルトガル人は16世紀日本を訪れた最初のヨーロッパ人としてキリシタン時代の日本に大きな影響を及ぼし,またポルトガルは16世紀末,少年使節(天正遣欧使節)が日本人として訪れたヨーロッパ最初の国でもある。…

※「ブラジル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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