耶揚子(やようす)ともいう。オランダ人船員で朱印船貿易家。デルフト市の名家に生まれ、長じてロッテルダムの東方貿易会社が1598年に東洋貿易に派遣した船隊中の一隻リーフデ号Liefdeに乗り組み、船長クアーケルナック、航海士のイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針(あんじん))らとともに、1600年(慶長5)4月豊後(ぶんご)国佐志生(さしう)(大分県臼杵(うすき)市)に漂着した。徳川家康の招きで江戸に出、アダムズとともに家康の外交・貿易の顧問となり、世界情勢の説明などにあたった。家康はその覇権確立のための巨額の財源の一つを貿易に求めていたが、ポルトガル人との貿易が豊臣(とよとみ)氏や西国大名に握られ、またイエズス会が深く介在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始を求めて、アダムズとヤン・ヨーステンとを召し抱えた。ヤン・ヨーステンは江戸に居宅を与えられ、日本婦人と結婚して子女をもうけた。八重洲河岸(やえすがし)(東京都中央区)なる地名は彼の宅地にちなむという。彼は、朱印状を得て連年コウチシナ(中部ベトナム)、シャム(タイ)、パタニ(マライ半島中部)、カンボジア、トンキン(北ベトナム)など各地に手広く貿易を営んだ。1609年平戸(ひらど)にオランダ商館が開設されて以後、蘭(らん)館と幕府との間にあって貿易の発展に尽力したが、彼の事業はしだいに振るわず、帰国を思い立ち、持ち船でバタビアに渡り、東インド政庁と交渉したが不調に終わり、日本への帰航途中難破して死亡した。
[沼田 哲]
『岡田章雄著『三浦按針』(1944・創元社)』
オランダの貿易家。1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号で,豊後佐志生に漂着した。同船の航海士W.アダムズ(三浦按針)と同様,徳川家康から江戸に住宅を与えられた。八重洲の地名は,彼の名に由来するといわれる。12-21年(慶長17-元和7)の間に朱印状を得て,シャム,パタニ,コーチシナ,カンボジア,トンキンなど,タイ,インドシナ半島の各地に10回船を派遣し,貿易に従事した。1609年平戸にオランダ商館が開設されると,毎年江戸と平戸を往復し,幕府との交渉を助けた。22年,東インド会社の船での帰国を願い出,総督も許可していたが,バタビアでの交渉が進まず,日本に引き返す途中,難破し溺死した。
執筆者:永積 洋子
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(小山幸伸)
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1556?~1623
オランダ船の航海士,朱印船貿易家。1598年ロッテルダムの貿易会社のリーフデ号に乗り組み,1600年(慶長5)4月豊後国臼杵湾に漂着。同船の航海長ウィリアム・アダムズとともに徳川家康に外交顧問として厚遇され,江戸に屋敷(八重洲河岸の地名は彼の居住地にちなむ)を賜り日本女性と結婚,耶揚子(やようす)と称した。09年平戸オランダ商館の開設後は,商館と幕府との交渉に協力し,また朱印船貿易に従事し,12~21年(慶長17~元和7)の間朱印状を得てシャム,トンキンなどに派船した。オランダへの帰国交渉のためバタビアに渡航した際,遭難し溺死した。
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