〈御朱印船〉ともいう。朱印船とは近世初頭において政府から〈異国渡海御朱印状〉といわれる外国向け(正しくは南洋諸地域向け)の渡航証明書,あるいは船籍証明書を与えられて渡航した船舶をいう。この場合,上記の朱印状を発行した日本の政府と,その効力を認めようとする相手国の政府との間に,相互にこの〈朱印状〉についての了解,承認,あるいは協定の成立が前提となっていた。朱印船制度は1592年(文禄1)豊臣秀吉によって創設されたといわれていたが,その後の研究で92年ではないが,92-95年の間に成立したとされた。しかし秀吉の朱印のある朱印状は今日1通も見られず,秀吉が創設したことを傍証する当時の記録,文書も存在しないことから,この制度は徳川家康によって1601年(慶長6)の創設であるとする学説が有力となった。江戸幕府では朱印船制度の創設は01年としている(《通航一覧》)。それに家康とフィリピン長官との間に,また安南国(ベトナム)王との間に,朱印船制度の協定が成立したのも01年であり,今日残存する最古の家康の〈異国渡海朱印状〉は02年のもので,以後年々の朱印状が前田育徳会や相国寺その他に残存している。01年以前の南方諸地域への渡航船は,史料では〈渡唐船〉と呼ばれ,私貿易船として海賊船と区別されていたが,〈朱印船〉とは呼ばれてはいなかった。
朱印船は01年以後鎖国政策の展開した35年(寛永12)までつづけられ,その渡航総船数は350~360艘とされ,年平均約10余艘が従事し,そのなかに西南大名,幕吏,内外の豪商などが朱印船主として活躍していた。朱印船の渡航が詳細に知られるのは04年より16年(元和2)までの期間で,以心崇伝の《異国御朱印帳》《異国渡海御朱印帳》に,年度別・地域別に記録されている。朱印船の渡航地は安南国の東京(トンキン),交趾(コーチ)国のツーラン,フェフォ,柬埔寨(カンボジア)国のプノンペン,暹羅(シヤム)国(タイ)のアユタヤ,呂宋(フィリピン)のマニラ郊外のディラオやサン・ミゲルなどである。15-26年代の主流をなした朱印船主は,長崎の末次平蔵,船本弥平次,荒木宗太郎,糸屋随右衛門,京都の角倉了以・与一,茶屋四郎次郎,伏見屋,堺の伊与屋などである。朱印船を経営する場合,船主は幕府より朱印状の交付をうけ,船舶や資本銀や商品を準備し,船長や船員を雇い入れ,ついで貿易を希望する商人を募集して客商とし,船賃をとって同乗させた。船の規模は茶屋船の場合,乗員は300人余,船の長さ45m,幅8.1mであった。
家康は当初は積極的に朱印船貿易を奨励したが,1609年ごろより諸大名の活動を抑制するようになった。大坂の陣以後は幕府の貿易統制が厳しくなり,将軍や幕府と懇意な直轄都市の豪商に限られた。また南方諸地域でも日本の朱印船の経済力をおそれて排除するようになり,各地で彼我の間にトラブルが生じていたし,日本の禁教政策の強化や武器輸出の禁制の徹底化などのこともあって,31年(寛永8)奉書船制度による貿易の制限に改められたが,35年奉書船の海外渡航は全面的に禁止された。
執筆者:中田 易直
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御朱印船ともいい、豊臣(とよとみ)秀吉や徳川幕府が出した外国渡航許可の朱印状をもって、東南アジア各地へ渡った貿易船。すでに室町時代に、九州探題や対馬(つしま)の宗(そう)氏は朝鮮国の倭寇(わこう)対策に沿って貿易船に「書契」や「文引」をもたせ、琉球(りゅうきゅう)渡航船は島津氏の「印判」を必要とした。また1584年(天正12)ころの毛利(もうり)氏の一被官は、赤間関(あかまがせき)(下関)に来航する明(みん)の泉州船に通交貿易の安全を約して船印の旗を遣わしている。朱印船制度は、統一権力が海賊禁止令を出す一方、在地勢力の個別的な外交貿易を掌中に収め、あわせて国内におけるその地位を国際的に承認させる手段であった。また朱印状を得た渡航者にとっては海上や先々での安全と有利な取引が期待できた。
秀吉による1592年(文禄1)創設説には異論もあるが、98年(慶長3)ころ禅僧の豊光寺承兌(ぶこうじしょうたい/しょうだ)が下付事務を担当していたことは事実で、「豊臣」の朱印が押されたらしい。徳川氏はこの制度を受け継ぎ、整備発展させた。下付希望者は幕府重臣を紹介者として、染筆の謝礼若干を添えて願い出ると、承兌や後任の円光寺元佶(げんきつ)、金地院崇伝(こんちいんすうでん)らが、大高檀紙(おおたかだんし)に「自日本、到/(渡航地)船也/右」と下付年月日とを、計4行に大書し、徳川家康は「源家康弘忠恕(こうちゅうじょ)」、秀忠(ひでただ)期は「源秀忠」の朱印をそれぞれの面前で押捺(おうなつ)し、包紙に申請者名を書いて渡した。1隻1航海につき1通で、貸与や譲渡は許されなかった。
1604年(慶長9)から、鎖国により奉書船が廃絶される35年(寛永12)までの、判明している朱印船の総数は356隻、下付された者105人に上っている。渡航地は海禁の中国大陸を避け、頻度順に交趾(こうち)、シャム、ルソン、安南、カンボジア、高砂(たかさご)(台湾)など、遠きはマラッカ、ジャガタラ、モルッカなどの計19地。寄港地には日本町が形成された。派船者は島津、松浦(まつら)、有馬、加藤、鍋島(なべしま)などの西国大名10氏、長崎奉行(ぶぎょう)ほかの武士4名、京の角倉(すみのくら)、茶屋、大坂の末吉(すえよし)、長崎の末次(すえつぐ)、高木らの代官的豪商以下、素性不明の者も多い。李旦(りたん)、華宇(はう)、ヤヨウス(ヤン・ヨーステン)、三浦按針(あんじん)(ウィリアム・アダムズ)らの在留外人も23人に及ぶ。船は平均200~300トンの大型船で、洋式の造船・航海術も取り入れ、客貨混載で400人近く乗り込む例もあった。
一時は海外でヨーロッパ、アジアの外国船を圧したが、国内市場ではポルトガル、中国、オランダ、イギリスなどの諸国人と競合し、幕府の統制強化と相まって、鎖国前には8氏9艘(そう)ほどに限られていた。
[中村 質]
『岩生成一著『朱印船貿易史の研究』(1958・弘文堂)』
近世初期,海外渡航許可の朱印状を携えて南方貿易に従事した商船。徳川家康は南方諸国に,朱印状(異国渡海朱印状)を携帯する商船に対する保護・便宜を要請し,活発な海外貿易を推進した。豊臣秀吉も南方渡航船に朱印状を交付したとする記録もあるが現存しない。朱印船は小は70~80トン,大は700トンで,中国式のジャンクを基本に,西欧のガレオン船と日本の伝統的技術を加えた日本前型とよばれる折衷形式の船体構造。当時社寺に奉納された朱印船の絵馬数点が現存し,その船型・構造・帆装を知ることができる。
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戦国時代から江戸時代にかけて,朱色の印を捺印して発行した海外渡航文書である朱印状を携えた日本の船。島津,松浦,有馬などの大名が中心的役割を担い,この形態を伴った多くの船が東南アジアに渡航したといわれる。1633年のいわゆる鎖国令によって日本人の海外渡航が禁止されて衰退するまで,日本の海外貿易に重要な役割を果たした。
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…福岡藩の初期に重きをなした御用商人,朱印船貿易家。大賀家は豊前中津の出身で大神氏の子孫といわれ,黒田氏の中津より福岡転封にともない,博多に移った。…
…家康はW.アダムズらによって世界情勢についての新しい知識を得るとともに,秀吉の強硬外交に代わり,和親通交の方針によってヨーロッパと東アジアの諸国に対した。朱印船制度にもとづく東南アジア諸地域との相互交通の推進は,日本を中心とした公的通交秩序の形成を意図したものといえる。ポルトガルの長崎貿易に対しては京都,堺,長崎3ヵ所商人を主体とする糸割符制度を施行して生糸貿易の統制をはかるとともに,イスパニアに対しては江戸近辺への来航を促し,通商を求めた。…
…1707年(宝永4)徳兵衛は両度の渡海と東南アジアの寄港地の見聞を長崎奉行所に提出したが,これが世上に流布して《天竺徳兵衛物語》《渡天物語》などと称された。内容には地理的な誤りなどもあるが,山田長政など南方移住日本人の記述や朱印船貿易の記事は貴重である。彼の見聞記は,のち4世鶴屋南北の《天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)》など歌舞伎,浄瑠璃に脚色された。…
…17世紀初めごろから末近くまで,東南アジア各地に形成された日本人居留民の町。日本人の海外渡航はすでに16世紀の終りごろから増加していたが,朱印船制度(朱印船)の確立とともに一段と盛んになった。1636年(寛永13)の第4回鎖国令発布までの約30年間に発給した朱印状の数は合計356通に達するが,実際の渡航船隻数はこれより多かったと考えられる。…
…大坂平野郷の豪家末吉の一統で,朱印船貿易家,銀座頭役,それに摂津国平野の代官職を務めた。父は末吉藤右衛門の三男次郎兵衛(長成)といい,その次男が藤次郎(正貞)で姓を平野と改めた。…
…
[日本における発達と停滞]
同じ16~17世紀のころ,短い期間ではあったが日本人が南中国から東南アジアに進出した時期があり,日本の船の歴史のうえで特異な光を放つ船が現れる。朱印船は政府の発行する貿易公認状(朱印状)をもつ船のことで,この制度の始まる17世紀初頭のころは中国の船を買ったり,そっくりまねて作る例が多かったと考えられている。当時の日本の船はようやく準構造船の域を脱して幅の広い厚板を組み立てる箱形構造船になり,帆装も2本マストに小型の横帆を張る遣明船や,秀吉の朝鮮出兵に動員された船の程度にはなっていたが,まだフィリピンや東南アジアへの渡海をするには不十分だった。…
…現存史料による限り,〈百済船(くだらぶね)〉〈唐船(からふね)〉〈宋船〉〈暹羅船(シヤムせん)〉〈南蛮船〉などの対語としての〈倭船〉ないし〈和船〉なる文字は,少なくとも幕末前には見当たらない。では,日本の船のことは何と記しているかというと,〈遣唐使船〉〈遣明船〉〈朱印船〉〈安宅船(あたけぶね)〉,〈関船(せきぶね)〉(のち船型呼称となる),〈御座船〉〈荷船〉〈樽廻船〉〈くらわんか舟〉など用途による名称,〈茶屋船〉〈末吉船〉〈末次船〉〈荒木船〉など所有者名を冠するもの,〈伊勢船〉〈北国船(ほつこくぶね)〉〈北前船(きたまえぶね)〉〈高瀬舟〉など,地名を冠してはいるが実は船型を表すもの,〈二形船(ふたなりぶね)〉,〈ベザイ船〉(弁財船とも書かれる),〈菱垣廻船〉〈早船(小型のものは小早(こばや))〉など船型や艤装(ぎそう)を指す呼称,〈千石船〉(ベザイ船の俗称),〈三十石船〉など本来船の大きさ(積石数(つみこくすう)。現用の載貨重量トン)を表した呼称が船型名称のごとく使われるようになったものなど,個々の船種船型名称が記されているのが一般である。…
※「朱印船」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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