デジタル大辞泉 「レントゲン」の意味・読み・例文・類語
レントゲン(roentgen)
2 「レントゲン写真(X線写真)」「レントゲン線(X線)」の略。
ドイツの物理学者。ラインラントのレンネップに生まれる。幼時をオランダで過ごし、ユトレヒト大学、およびスイスのチューリヒ工科大学で学んだ。チューリヒでクントとクラウジウスの影響から物理学研究に進み、1869年学位を得てクントの助手。のちクントとともにウュルツブルク大学を経てストラスブール大学に移り、1874年同大学講師、1876年同教授、1888年コールラウシュの後を継いでウュルツブルク大学教授、その後1900~1920年ミュンヘン大学教授。
1870年の気体の比熱に関する研究を皮切りに、結晶の熱伝導、電場や磁場の影響による光の偏光面の変化、水や他の流体における圧力と温度の間に成り立つ関数の諸変形についての研究、および「レントゲン電流」の発見(1888)など広範な実験物理学上の業績をあげ、1895年秋、彼の最大の業績であるX線の発見につながる研究を行った。1895年7月、エルランゲン大学教授のウィーデマンEilhard E. G. Wiedemann(1852―1928)とプラハ大学教授ヤウマンGustav Jaumann(1863―1924)がそれぞれ「陰極線と同族」の新輻射(ふくしゃ)線(「放電線」)と、「希薄気体中、大静電気力の存在下で陰極線の特性をもつ」電磁場の縦波(「縦の電気線」)の存在を予言、レントゲンはその影響を受けて、1895年9月以降「不可視輻射線」を追究し、以下の過程を経てX線を発見したと推定される。まずレーナルトの白金円筒付き管を、錫(すず)製の箱でなく(大静電気力を通すため)黒い厚紙で覆って、新輻射線を管の外に引き出す実験を行い、たぶんレーナルトと同様に大距離でそれに起因すると思われる現象をみいだし、以後「熱狂的な」研究を行って、11月初め、白金陽極付き「ヒットルフ管」を用いて、陰極線、「レーナルト線」など既知の不可視輻射線に比べて異常に大きい透過力をもつ輻射線が生じていることを示すある「光現象」をみいだした。そこで、多数の他の種類の管を用いて、おそらくより高電圧大電流で同様の実験を繰り返し行い、その新輻射線が、程度の差こそあれ管の種類にかかわりなく発生する普遍的存在であることを確かめ、さらに12月末まで透過度をはじめその諸特性について詳細に研究し、その内容を12月28日付けの歴史的論文「新しい種類の輻射線について」(第一報)で発表した。
この論文は刊行直後から科学者、医学者をはじめ、ジャーナリズムに大センセーションを巻き起こした。というのは、新輻射線つまりX線は1000ページの本も、厚い木の板も通過する強力な透過性をもち、金属板ではその作用は弱まり、厚さ0.5ミリメートルの鉛板ではほとんど不透過になる。その性質を利用すればX線透視は可能である。実際、彼が1895年11月中に撮影した夫人の手の骨などのX線写真は、異常なほど関心をよんだ。その渦中にあっても1896年から1897年にかけて精力的に研究を続け、X線の線量・線質測定の開始、あらゆるガスX線管の原型となる凹面鏡型陰極と白金陽極(対陰極)付きの管の発明など、X線研究の基礎を確立した。X線の発見は、1896年および1897年のベックレルによる放射能の発見とJ・J・トムソンによる電子の発見の直接の契機にもなった。現代物理学の出発点をしるす科学史上最大の発見の一つといえよう。この業績によってレントゲンは、1901年の第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
[宮下晋吉]
照射線量の単位。記号はR。X線やγ(ガンマ)線を空気中で照射した場合、空気1.293×10-6kg・m-3から放出される粒子が一静電単位に等しい電気量を生じるようなX線またはγ線の量として定義される。この空気の値は、標準状態での乾燥空気の密度である。この定義は、空気1キログラム当り2.58×10-4クーロンと読み換えることが多い。X線の出力の目安として1立方センチメートルの空気に生ずる電離を用いる考えは1908年に提案された。名称は、X線の発見者レントゲンにちなむ。1928年の放射線会議で提案されたときは、空気の量は体積であったが、9年後に質量で定義された。一時レントゲンは照射線量と吸収線量の両方に臨床分野で用いられていたが、1956年になって吸収線量にはラドを、照射線量にはレントゲンを用いるように決められた。
[小泉袈裟勝]
ドイツの物理学者。プロイセンのレンネプの生れ。3歳のとき一家がオランダに移住,そこで教育を受けた後,1865年にチューリヒの工科大学に入り機械工学を学んだ。69年に学位を取得,A.クントの助手となり,クントについてビュルツブルク大学,ストラスブール大学に移り,ストラスブール大学の物理学講師を経て88年ビュルツブルク大学物理学教授,1900年からミュンヘン大学物理学教授兼物理研究所長をつとめた。
彼の研究は多岐にわたり,1870年に発表した気体の比熱についての研究をはじめとして,結晶中の熱伝導,石英の電気的・光学的特性,種々の流体の屈折率への圧力の影響,電磁気の影響による偏光面の変化,水や他の流体の圧縮可能性や毛管現象,水面上での油滴の拡散現象の研究などがあり,とくに88年に発表した静電場内を移動する誘電体に生ずる磁気効果の研究は,J.C.マクスウェルの電磁理論の検証という意義をもち,またその際に生ずる電流はH.A.ローレンツによってレントゲン電流と名づけられ,ローレンツの電子論の基礎ともなった。しかしなんといってもレントゲンの名を不滅のものにしたのはX線の発見である。そのきっかけとなったのは,95年11月初め,陰極線の透過力の研究中に,陰極線管から離れたところにあった白金シアン化バリウムの結晶が蛍光を発しているのを見いだしたことであった。彼は,蛍光の原因となる未知の放射線が陰極と反対側で陰極線の当たったガラス壁から放出することを確かめ,その後6週間,この新しい放射線の特性を調べ,12月末,ビュルツブルクの物理学・医学協会の会誌編集者あてにその第1報を送った。彼はこの未知の放射線をX線と名づけたが,X線の発見は科学界をこえて多くの人々に驚きを与えたばかりでなく,これを契機としてA.H.ベクレルによるウラン放射能の発見やキュリー夫妻によるラジウムの発見へと続き,原子構造解明へと向かう現代物理学の新たな分野が形成されることになったのである。X線発見により,1901年に第1回ノーベル物理学賞を受賞。なお,X線の本性解明は,12年のM.vonラウエによる結晶のX線回折現象の発見まで待たなければならなかった。
執筆者:日野川 静枝
18世紀後期ヨーロッパで最も成功したドイツの家具師。当時,おもなドイツ人家具師はほとんどフランスで活躍したが,彼だけは生地を離れず製作した。その盛時にはフランスのルイ16世,プロイセンのフリードリヒ2世,ロシアのエカチェリナ2世など王家御用家具師として高価な家具を多量に製作した。彼はイギリス人の家具師アブラハムAbraham R.(1711-93)の子で,アブラハムは1731年から8年間イギリスで修業,チッペンデールの影響を受け,50年にコブレンツ近郊のノイウィートに家具工場を設立し,ロココ様式と精巧な機械じかけを導入した家具を製作した。ダビッドは72年にそれを受け継いでヨーロッパで最も有名な家具工場に発展させた。彼は時計師ペーター・キンツィングPeter Kinzing(1745-1816)との共同製作による,秘密の戸棚や引出しをもつ機械じかけの家具や,寄木細工の技術の精緻さで著名であった。79年パリに商館を開設しルイ16世の愛顧を受けたが,革命で商館は没収され,ノイウィートの工場も戦争のため閉鎖して晩年は不遇であった。
執筆者:鍵和田 務
照射線量の単位で,記号R。照射線量は,各種の放射線のうち,電磁波であるX線およびγ線だけに限って用いられるもので,これらの放射線による照射量を表す量である。1Rは,これらの放射線により標準状態(0℃,1atm)の乾燥空気1kg当り2.58×10⁻4Cの電荷がつくられるときの照射線量である。X線の発見者W.C.レントゲンにちなんで名づけられた。1980年代の後半からは,照射線量の単位として,レントゲンに代わり,クーロン毎キログラム(C/kg)が用いられることになっている。
執筆者:山下 幹雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの物理学者.1865年チューリヒ工科大学機械工学科に入学し,R.J.E. Clausius(クラウジウス)などに学ぶ.1868年機械工学技師の資格を取得,翌年チューリヒ大学から学位を取得して,A.A. Kundtの実験物理学助手となる.Kundtによる薫陶と援助がかれを大きく育てた.1879年ギーセン大学教授,1888年ビュルツブルク大学教授,のちに学長となる.ギーセン大学では,J. Kerrとほぼ同時に,光学現象に対する電場のカー効果を見いだした.また,高速で回転させた分極誘電体の周囲に磁場を検出して,H.A. Lorentzの電子論の基礎を与えた.実験器具を自作するかれの手法と,電磁気学への深い関心から黒い布で覆った陰極線管付近の写真乾板の感光に気づき(当初,縦波の電磁波だと考えた),1895年末にX線を発見した.X線の発見は,外科手術の進歩をもたらし,またJ.J. Thomsonによる電子の同定を促した.X線の発見で,第一回ノーベル物理学賞を受賞した.
X線やγ線のような電磁波性放射線の照射線量を表す単位.通常,R で表す.放射線の照射線量を表す国際単位系(SI単位)は C kg-1 であり,“X線またはγ線の照射によって空気1 kg につき放出された電離性粒子が,空気中においてそれぞれ1 C の電気量を有する正および負のイオン群を生じさせる照射線量”と定義されているので,レントゲン R と C kg-1 とは次の関係にある.
1 R = 2.58×10-4 C kg-1
古くはレントゲンのほうが基準的な単位で,0.001293 g の空気(標準状態で1 cm3)中に,それぞれ1 esu の電荷をもつ正・負イオンをつくるような線量と定義されていた.1 Ciの 60Co の点状線源からのγ線の照射線量率は,1 m 離れた点で約1.35 R h-1 である.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1845~1923
ドイツの実験物理学者。1895年放電管を用いて陰極線に関する研究を行ううち,光の不透明体を通る未知の放射線を発見し,X線と名づけた。発見者の名をとってレントゲン線ともいわれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…短波長側はγ線に,長波長側は紫外線に移行するが,γ線に比べて波長が長い電磁波であっても,放射性元素から出るものはγ線と呼ぶのがふつうである。W.C.レントゲンが発見したことからレントゲン線とも呼ばれ(ドイツ語,ロシア語ではX線という表現は用いられず,つねにレントゲン線である),また彼が一時期オランダに移住していたことから,オランダ風にレンチェン線ということもある。 X線の発見は偶然ともいえるもので,1895年11月,レントゲンは,P.E.A.レーナルトらが行った放電管を用いての陰極線の実験を追試している際に,感応コイルで放電を起こさせるたびに,少し離れた机の上にあった結晶や,白金シアン化バリウムを塗ったスクリーン用の紙が明るい蛍光を発するのに気づき,以後,年末までこの新現象の研究に没頭し,透過力の強い未知の放射線が放射されていると結論した。…
…医学部はとくに名高い。レントゲンは1895年ここでX線を発見した。大聖堂(11~13世紀),マリーエンベルク城(13世紀初め),バロック様式の司教館(J.B.ノイマン設計,1744)など歴史的建造物も多い。…
…照射線量は,X線とγ線だけに用いられる。空気0.001293g(標準状態の空気1cm3の質量)中にX線,γ線によって生じた二次電子か正のイオンがつくる電離量が1静電単位のとき,照射線量は1R(レントゲン)であるとした。しかし,現在は,X=dQ/dmで定義されている。…
※「レントゲン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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