改訂新版 世界大百科事典 「ランサン王国」の意味・わかりやすい解説
ランサン王国 (ランサンおうこく)
インドシナ半島のメコン川中流域に14~18世紀に展開した王国。ラオ族古来の政治制度と上座部仏教を結合した王権思想により統治された。ランサンLan Xangとは〈百万の象〉の意である。統一ランサン時代(1354-1710前後)と三国時代(1779まで)に分けられる。広義のタイ族の一派であるラオ族が主要民族であったが,隣接して居住する仏教徒のプアン族などタイ系民族のほか,先住の南アジア系民族(カムー,クイ,ロベンなど)も王国に組み込まれていた。北部のムアン・サワ(現,ルアンプラバン)の地を都とした初代建国王ファーグムは歴史伝説に包まれた人物ながら,その実在は隣国スコータイの同時代碑文で確認されている。2代王サムセンタイSam Sene Thai(在位1373-1416)は雲南経由で明朝に入貢し,1404年老撾軍民宣慰使司の刀線歹として中国史料に登場する。雲南土司としてのランサンと明の関係は万暦年間(1573-1619)まで存続したが,15世紀に緊密であったのちは王国の成長,中部のビエンチャンへの遷都,明の消極政策のため,形式的にとどまった。1479年にベトナムのレ(黎)朝のレ・タイントン(黎聖宗)が侵攻し,ランサンは一時危機に瀕したが,明の介入,西のラーンナータイ王国からの援軍により立ち直った。以後ラーンナータイと政治・文化上の接触は著しくなった。ラーンナータイの王統が絶えかけた1546年,ポティサラ王Photisarath(在位1520-47)は長子セーターティラートを同国の王として送り,一方,中部経由でベトナム侵攻を画したが,翌年急死した。セーターティラート王はビルマのタウングー朝の勢力拡大に抗しつつ,1556年ビエンチャンに遷都し,タイのアユタヤ朝と同盟を結び,タイ,カンボジア方面に兵を送った。その死後,ランサンは約10年間ビルマに臣従した。空位期を経て16世紀末のノーケオ王,17世紀初頭のボラウォンサー王による復興が実り,スリニャウォンサー王の治世(1637-94)には仏教文化,民族文芸が隆盛となり,最後の円熟期を迎えた。18世紀に入ると王位継承にからんでまず北部のルアンプラバンが独立,続いて南部にチャンパサック王国が成立し,後日のタイの軍事介入を容易にした。中部に残ったビエンチャン王国(漢文史料にいう万象国),北部のルアンプラバン王国(南掌国)とも,この期間,ランサンの名を称する継承国家であった。
執筆者:星野 龍夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報