20世紀アメリカを代表するジャーナリスト。ユダヤ系ドイツ移民のひとりっ子としてニューヨークに生まれた。1906年ハーバード大学に入学(同級生に《世界をゆるがした10日間》の著者ジョン・リードがいた),哲学を勉強し,社会主義に傾いたが,10年5月哲学者サンタヤーナの助手を辞してジャーナリストへの道を踏み出す。7月からはマックレーカーズの代表格L.ステッフェンズの取材を手伝った。13年春,処女作《政治学序論》を出版して好評を得た。リベラルな週刊誌《ニュー・リパブリック》の創刊に参画し,同誌で健筆をふるった。第1次世界大戦後の19年,パリ講和会議にはウィルソン大統領の要請で代表団随員として参加した。21年4月に書きはじめて22年初めに刊行されたのが,彼の代表作《世論Public Opinion》である。これは,人間が外界と適応するさいに擬似環境の果たす役割,〈頭の中のイメージ〉の機能に注目した著作で,現代マス・コミュニケーション研究の古典となっている。同22年リップマンは《ワールド》のR.ピュリッツァー社主(創業者ジョセフの長男)に招かれて論説委員となり,24年には論説主幹,29年主筆になった。31年3月《ワールド》は経営難で廃刊したので,9月からリップマンは,《ヘラルド・トリビューン》にコラム〈今日と明日〉を執筆しはじめた。このコラムは全米の数多くの(1930年代末には184紙)新聞に特約掲載され,彼はアメリカで最も影響力の大きい政治評論家になった。ニューディール政策を批判するなど,1920年前後にはじまったリップマンの保守化傾向,エリート主義はしだいに強まった。67年5月,77歳の彼は〈今日と明日〉の執筆をやめ,4年後には1963年から《ニューズウィーク》に連載していたコラムも打ち切った。74年12月14日,つまりニクソン辞任の4ヵ月後死去した。
執筆者:稲葉 三千男
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フランスの物理学者、カラー写真の発明者。ルクセンブルクのホーレリッヒに生まれ、のちパリに移住。1868年高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)に入学。1873年政府派遣でドイツに留学、ハイデルベルクやベルリンの大学でキルヒホッフやヘルムホルツに学んだ。1875年パリに帰り、高等師範学校に次いで1883年ソルボンヌ大学(パリ大学)の数理物理学教授となった。同1883年科学アカデミー会員、ソルボンヌ大学物理学研究所所長となり没年まで在職した。電気毛管現象を研究、リップマン法というカラー写真法を発明して1908年ノーベル物理学賞を受賞。
カラー写真法は多く化学的な方法を用い、白色光を青紫、緑、赤の3色に分けて三つの版をつくり、これを黄、マゼンタ、シアンに染めて原色を再現するもので、現在に至るまでこの原理は変わらない。これに対しリップマン法はまったく物理的な手法を利用したもので、ほとんど透明に近い塩化銀乳剤を塗った乾板の膜の表面を平らな水銀面につけ、反対側から光を鏡により反射して透映すると、光は水銀面で反射して元の方向に戻るが、そのとき入射光と干渉して波長によりある地点で乳剤につくられた潜像点を現像、定着する。これを通して見ると原色を再現する。これは特殊なカメラもカラーフィルムも必要とせず理想的な方法に思われたが、ミュンヘンの科学博物館のリップマンカラーの見本は変色していた。これは乳剤のゼラチンが湿度によって変形するほかに感度が低いという致命的欠陥によるものであるが、リップマン乳剤は塩化銀のきわめて細かい粒子の、ほとんど透明の乳剤であり、現在に至るまで特殊な利用がある。
[菊池真一]
アメリカの評論家、コラムニスト。9月23日ニューヨークに生まれる。ハーバード大学卒業。1913年にT・ルーズベルトの率いる進歩党の「教科書」といわれる『政治序論』A Preface to Politicsを刊行。続いて1914年リベラルな政治雑誌『ニュー・リパブリック』の創刊に携わる。1921年『ニューヨーク・ワールド』紙に入り、洞察に優れた明晰(めいせき)な論説により、その名をあげた。1931年から1967年まで『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の特別寄稿家として「今日と明日」Today and Tomorrowと題するコラムを担当する。この評論により、1958年ピュリッツァー賞の特別表彰、1962年に同賞を国際報道部門で受賞した。1963年から『ワシントン・ポスト』紙や『ニューズウィーク』誌の特別寄稿家として活躍。思想的には当初の自由主義の立場から、しだいに保守主義へと傾いていった。1947年に『冷たい戦争』The Cold Warを発表、以後このことばは東西関係を表す国際政治の流行語となった。政治、外交、社会問題に関する幅広い著作のなかでも、1922年に刊行された『世論』Public Opinionは、世論と大衆の非合理性を民主主義とのかかわり合いで論じた、マスコミ研究の古典的名著といわれている。ほかに『幻の公衆』『良き社会』『公共の哲学』『国際政治とアメリカ』『共産主義世界とわれらの世界』などの著作がある。1974年12月14日死去。
[鈴木ケイ]
『掛川トミ子訳『世論』上下(岩波文庫)』▽『J・ラスキン著、鈴木忠雄訳『ウォルターリップマン――正義と報道の自由のために』(1980・人間の科学社)』
アメリカの生化学者。1953年ノーベル医学生理学賞受賞。ドイツのケーニヒスベルク(現、ロシア領カリーニングラード)の生まれ。ミュンヘン大学医学部を卒業後、ケーニヒスベルク大学で化学を学んだ。1927年ベルリンのカイザー・ウィルヘルム生物学研究所(現、マックス・プランク研究所)のマイヤーホーフの助手となり、筋肉のリン酸代謝について研究した。デンマークのカールスベルク生物学研究所でアセチルリン酸を発見した(1939)。アメリカに亡命し、コーネル大学に就職(1939)。高エネルギーリン酸結合の概念を提出し、生体エネルギー系に大きな貢献をした(1941)。マサチューセッツ総合病院にあって補酵素Aを発見した(1953)。ミトコンドリアの酸化的リン酸化の仕組みを研究し、またアセチル基や硫酸基などの生体内転移を解明した。1957年ロックフェラー医学研究所の教授に就任。タンパク質合成の仕組み解明に重要な知見をもたらした。1975年以降ロックフェラー大学名誉教授。著書に『Wandering of a biochemist』(1971)がある。
[丸山工作]
『丸山工作著『生命現象を探る』(1972・中央公論社)』
ドイツ生まれのアメリカの生化学者.ケーニヒスベルク大学,ベルリン大学,ミュンヘン大学で学び,1924年ミュンヘン大学でM.D.を取得.アムステルダム大学でのフェローシップの後,ケーニヒスベルク大学へ戻って化学を学び,カイザー・ウィルヘルム協会研究所の助手となり,1927年Ph.D.を取得.その後,ハイデルベルク大学,カイザー・ウィルヘルム協会研究所,ロックフェラー研究所,カールスベア生物学研究所で研究を行った.1939年アメリカに渡り,コーネル大学,ハーバード大学などで研究を行った.アデノシン三リン酸(ATP)などの高エネルギーリン酸結合の概念を確立し,1945年TCAサイクル(クエン酸回路)などの代謝において重要な役割を果たすコエンザイムA(CoA)を発見した.この功績により,1953年H. Krebs(クレブス)とともにノーベル生理学医学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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1889~1974
アメリカのジャーナリスト。見識ある鋭い時事評論によりコラムニストとして大きな影響力を持った。特に1930年代から60年代初頭まで多くの新聞に毎週数回掲載された彼のコラム「今日と明日」は有名。また『世論』など多くの著書があり,政治外交論では冷静なリアリストであった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…正効果は1880年にフランスのキュリー兄弟Jacques and Pierre Curieによって,水晶,ロッシェル塩,電気石などで発見された。逆効果は81年にフランスのリップマンGabriel Lippmannにより熱力学的考察に基づいて指摘され,その存在はキュリー兄弟により実証された。 圧電気は結晶を構成している陽イオンと陰イオンの空間的配置に点対称(対称中心)がない場合に出現するが,力の方向と電荷の出現する方向とには結晶の対称性によって決まる特定な関係がある。…
…正効果は1880年にフランスのキュリー兄弟Jacques and Pierre Curieによって,水晶,ロッシェル塩,電気石などで発見された。逆効果は81年にフランスのリップマンGabriel Lippmannにより熱力学的考察に基づいて指摘され,その存在はキュリー兄弟により実証された。 圧電気は結晶を構成している陽イオンと陰イオンの空間的配置に点対称(対称中心)がない場合に出現するが,力の方向と電荷の出現する方向とには結晶の対称性によって決まる特定な関係がある。…
…カラー映画【大辻 清司】
[色の再現方法]
色の再現方式としては,被写体の色と同一の分光組成をもつ色を再現するものと,被写体の色と分光組成は一致させずに,色覚理論に基づいて,感覚的に色の見え方が一致するように再現するもの(三原色法)とがある。前者の例としては,フランスのG.リップマンの行った光の干渉を利用する方法(1891)がよく知られている。これはリップマン乳剤(0.1μm以下のとくに微細なハロゲン化銀を含んだ特殊な写真乳剤)を写真感光層として用い,感光層の膜厚方向での光の干渉を利用する色再現方式である。…
…もとより,ブーアスティンに先立って同じ趣旨の警告を発したひとは少なくない。たとえば社会・政治思想家リップマンW.Lippmann(1889‐1974)は《世論》(1922)のなかで,人間を取り巻く現実の環境と,人間が頭の中に描いた環境の映像pictureとの違いを指摘し,前者を〈現実環境〉,後者を〈擬似環境pseudo‐environment〉と名づけた上で,擬似環境の肥大によるわれわれの不適応に深い憂慮を示した。清水幾太郎もまた,〈コピーとして提供される環境の拡大〉をいち早く問題にした一人である。…
…もとより,ブーアスティンに先立って同じ趣旨の警告を発したひとは少なくない。たとえば社会・政治思想家リップマンW.Lippmann(1889‐1974)は《世論》(1922)のなかで,人間を取り巻く現実の環境と,人間が頭の中に描いた環境の映像pictureとの違いを指摘し,前者を〈現実環境〉,後者を〈擬似環境pseudo‐environment〉と名づけた上で,擬似環境の肥大によるわれわれの不適応に深い憂慮を示した。清水幾太郎もまた,〈コピーとして提供される環境の拡大〉をいち早く問題にした一人である。…
…彼のコラムはシンジケートによりアメリカ各地の165紙に配給,転載され,コラムニストcolumnistとして全国的な著名人となる。30年代からは政治コラム,〈政論〉コラムニストの流行が始まり,硬質の政治論評を展開するコラムニストの代表としては,31年から《ヘラルド・トリビューンHerald Tribune》を舞台に活動しだしたW.リップマン,内幕情報提供(〈The Washington Merry‐Go‐Round〉,〈News behind the News〉などのタイトルによる)のコラムニストとしては,ピアソンDrew Pearson,アレンRobert S.Allenらが,第2次大戦後の一時期,テレビのコメンテーターに役割をゆずるまで著名であった。事象の複雑化による解説の必要性,ルーティンにしばられた報道記事,多少とも抽象的でよそよそしい社説などが,個人感情の表白,独断を恐れないコラムに読者をひきつけたのである。…
…このようにして政治学の対象と方法は一挙に拡大し,政治学は狭義の政治現象だけではなく,多くの分野へと分化しながらもあらゆる人間事象を考察の対象に入れざるをえない総合科学への道をたどりはじめたのである。 19世紀末から20世紀前半へかけてのこのような政治学の転換は,各国民主政治の慣行を比較研究したJ.ブライス,大衆の政治行動の非合理性を把握することを説いたG.ウォーラス,政治を過程としてみることをはじめたA.F.ベントリー,政治においてつねに変わらぬ支配エリートを研究したG.モスカ,大衆組織における寡頭支配の鉄則を指摘したR.ミヘルス,世論がステレオ・タイプによって支配されていることを分析したW.リップマンなどの業績に典型的に示されている。これらの政治研究者たちに共通に分けもたれていたのは,政治学を経験的・実証的な学問として自立させたいという強い志向だった。…
※「リップマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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