ドイツ連邦共和国のハイデルベルクにあるドイツ最古の大学。1386年、選帝侯ルプレヒト1世によりパリ大学をモデルに創設され、初代学長にはマルジリウスMarsilius von Inghen(1330ころ―96)が就任した。15世紀前半には、宗派上の対立で大学の活動は一時停止状態になったが、後半にはルネサンスと宗教改革を支持するオットー・ハインリヒ選帝侯がメランヒトンらの協力を得て大学改革を断行し、名声を確立した。ところが17世紀に入り三十年戦争の影響を被り、閉鎖―再開―避難を繰り返し、18世紀には一時的にカトリック教会の支配下に入った。フランス革命後の1803年、バーデンの領主カール・フリードリヒによる大学再編により、近代的大学への脱皮が図られた。そのとき、教授用語もラテン語にかわってドイツ語が採用された。1886年の創設500年祭には全世界にその名声を博した。
第二次世界大戦後は学生の急増により、医学、自然科学部門が郊外の新キャンパスに移転。そこには大規模な南アジア研究所が設けられた。学部構成は従来の5学部(神学、法学、医学、哲学、自然科学)から16学部(神学、法学、基礎医学、理論医学、臨床医学、哲学・歴史、東洋学・古代学、近代言語学、経済学、社会・行動科学、数学、化学、薬学、物理学・天文学、生物学、地球科学)に細分化された。1995年現在、教員数約2400人、学生数約3万人。
[馬越 徹]
1386年ファルツ選帝侯ルプレヒト1世によってドイツ南西部ハイデルベルクに創設されたドイツ最古の大学。正称ルプレヒト・カール大学Ruprecht-Karl-Universität。初代学長はパリ大学で教えていた唯名論者マルシリウス・フォン・インヘンMarsilius von Inghen(1330ころ-96)。神,法,医,教養の典型的な4学部制をとっていたが,大学運営における国民団組織(ナティオ)の力は弱かった。1558年メランヒトンの助言に従い,人文主義と宗教改革の精神に立脚した大学改革を行った。三十年戦争のさなか,1632-52年の間には一時閉鎖された。1803年バーデン伯カール・フリードリヒにより,研究教育体制の大規模な改革が行われ,大学発展の基礎が固められた。19世紀から20世紀にかけて精神科学の中心大学として世界の留学生が多くここに学んだ。付属図書館は古代ゲルマンの写本パラティナPalatina文庫の所蔵で有名である。神学,法学,医学など17の学部があり,教師数1300,学生数約2万9000(1996)。
→ハイデルベルク学派
執筆者:別府 昭郎
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4学部に3万人以上の学生を抱える総合大学。神聖ローマ帝国ではプラハ大学,ウィーン大学に次ぐ3番目の大学として,現在のドイツでは初めての大学として1386年,ライン川の支流ネッカー川沿いのハイデルベルクの街に神学部,法学部,医学部,哲学部の4学部をもって創設された。開学以来,学問と文化の拠点として発展し,19世紀にはガスバーナーを発明したブンゼン,R.W.,検眼鏡や共鳴器を開発したヘルムホルツ,L.F.vonの活躍の場となったほか,近代から現代にかけては物理学,生理学,医学の分野で8人ものノーベル賞受賞者を輩出するなど高い功績を上げてきた。現在も臨床医学や心臓病研究の分野では世界的なレベルを誇り,哲学や心理学の分野でもドイツ観念論を代表する思想家ヘーゲル,実験心理学の父と称されるブント,W.,実存主義で知られるヤスパース,K.T.といった多くの著名人が教壇に立ち,各分野の体系的発展に多大な貢献をなした。卓越した高等教育機関に重点投資を行うエクセレンス・イニシアティブでは「エリート大学(ドイツ)」に選ばれ,タイムズ誌の世界大学ランキングにランク入りするなど,国内的にも国際的にも評価の高い研究重点大学である。学生数は2万9700人(2016/17年冬学期)。
著者: 髙谷亜由子
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