ロシアの画家。ウクライナのハリコフ(ハルキウ)近郊チュグーエフに屯田兵の子として生まれる。幼少より画才に恵まれ、16歳のときには聖像画家組合に属してウクライナ各地を旅して聖像画を描いた。1863年、自ら稼いだ金をもってサンクト・ペテルブルグへ赴き、画家クラムスコイを知り、翌年から美術アカデミーに学ぶ。1871年『ヤイルの娘の復活』で金メダルを受けて卒業。この間『ボルガの舟曳(ひ)き』を描く。1873年イタリアを経てパリへ行き、留学中のポレノフVasily Polenov(1844―1927)、サビツキーKonstantin Savitsky(1844―1905)らと交友する。1878年移動派展に『補祭長』を出品、話題となった。歴史画家スリコフの影響を受け、『皇女ソフィヤ』『イワン雷帝と息子イワン』『ザポロージエのコサック』などの大作をはじめ、ムソルグスキーなど有名人の肖像画を描いた。移動派の有力メンバーであったが、最終的には協会の独善的な運営に反発して脱会した。1891年の秋、モスクワとペテルブルグで大個展を開いて成功を収め、美術アカデミーの教授に迎えられた。1900年には当時のフィンランドのクオカラ(現、ロシア連邦領レーピノ)に移り、創作に励んだ。1917年の革命を受け入れず、宗教的テーマを描き続け、当時のソ連当局による帰国要請を断り、86歳の長い生涯を同地に終えた。今日、その主要作品はロシアの美術館を飾り、19世紀リアリズム絵画の巨匠として高く評価されている。
[木村 浩]
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ロシアの画家。〈移動展派〉の主要作家。ハリコフに近いチュグエフ村に生まれる。1863年クラムスコイに師事。翌年よりペテルブルグの美術アカデミーに学ぶ。《ボルガの舟曳き人夫》(1873)によって認められ,73-76年ウィーン,イタリア,パリに遊学。帰国後6年間アブラムツェボ派に属し,外光描写により故郷の農民の人間的魅力を描いた一連の傑作を残すが,絵画による社会批判を好まぬこの派とは決別。ペテルブルグに行き,ロシアの全階級の実態を描いた画期的な群像画《クルスク県の聖行列》(1883)を完成。その後民族感情を反映させた歴史画に進む。印象派やレンブラント,ベラスケスに影響された一時期がある。
執筆者:濱田 靖子
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1844~1930
ロシアの画家。ウクライナの農村の出身。芸術アカデミーで学び,「ヴォルガの船曳き人夫」(1873年)で認められる。ヨーロッパ留学後,旺盛な創作活動を行う。歴史画,人物画など多数。
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