日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロシア美術」の意味・わかりやすい解説
ロシア美術
ろしあびじゅつ
ロシア美術の歴史は、キエフ大公国のウラジーミル大公がキリスト教を国教と定めた989年から始まるとされている。しかし、それ以前にも異教を奉じる古代スラブ人が生活していたことは明らかであり、当然彼らの美意識を反映する創造物が生み出されていた。
[木村 浩・亀山郁夫]
異教時代
ロシア美術の特質について考える場合、この異教美術の存在を無視することはできない。キリスト教に改宗後も、その美的世界に異教の痕跡(こんせき)を認めることができるし、現在もなおロシア人の美意識には異教時代の名残(なごり)が存在するとされている。しかし、キリスト教改宗後は、異教文化は時の権力によって破壊され、長く抑圧の歴史を重ねたため、今日では異教文化のなかの美術をそれ自体として正当に評価することはきわめて困難である。そうしたなかにあって、1848年にドニエプル川の支流ズルブチ河畔で発見された『ズルブチの偶像』(ポーランド、クラクフ美術館)は異教時代の豊かな文化を伝える数少ない美術品の一つであり、一般に想像されている以上に、完成された美的世界を示している。これは灰色の石灰岩でできた高さ2.67メートルの四角い立方体で、その周囲には上、中、下と3段階に分かれて当時のスラブ人の世界観が浮彫りされている。下段には地下の世界の神が両手で大地を支え、中段には大地と人々が、上段には神々のいる天が描かれている。神々のなかには野牛の角(つの)を手にする大地の女神や短剣形の片刃の刀をもつ武人の神などがみえる。さらに、この立方体の上には4面にそれぞれ四つの顔が浮彫りされ、その上に一見山高帽のような形の帽子が一つだけかぶせられている。全体としてかなり凝ったデザインであり、古代スラブの作者がこの1体の石像のなかに一つの大きな思想体系と個々の神々の姿をみごとに調和させて描き上げていることに驚かされる。このほか、今日残されている異教時代の石像は、浮彫りの貧しい、のっぺりしたものが多く、その点、この『ズルブチの偶像』は内容的にも形式的にも、異教美術のなかにあって傑出した作品の一つといえるだろう。と同時に、キリスト教改宗後に破壊され消失したほかの多くの作品のことを考えると、異教美術の水準は、あるいは今日の評価をはるかに超えるものであったと想像される。この事実は、西欧においてとかく軽視されてきたロシア美術が、意外に古い伝統をもつものであることを立証するものでもある。
[木村 浩・亀山郁夫]
中世ロシア美術
10世紀末にキリスト教を受容してから、スラブの地にはそれまでとまったく異なったキリスト教美術が生まれることになった。もっとも、ロシアが受容したキリスト教は東方教会、つまりギリシア正教であったため、異教の地に初めて建立されたキリスト教寺院はおのずからビザンティン美術の影響を被ることになった。キエフ(現、キーウ)のソフィア大聖堂(1017~1037)やノブゴロドのソフィア大聖堂(1045~1052)がギリシア人の指導の下に建てられ、ロシア人は助手として参加した。ロシア人の手になる寺院が次々に建立され始めたのは12世紀に入ってからのことで、それらの寺院には早くもロシア的な特色が現れており、なかには異教美術を装飾的に取り入れているものもある。ウラジーミルのドミトリー聖堂やネルリ河畔のポクロフ教会の外壁には、異教の名残(なごり)とみられる動物の姿が浮彫りされている。しかも、それらがすこしの違和感もなく寺院全体のなかに溶け込んでいる。
キリスト教寺院の建立と並んで、ロシア中世美術を支えているものは、ギリシア正教特有のイコン(聖画像)の存在である。板切れにテンペラでキリストや聖者の顔形を描いたイコンは、ギリシア正教会のみならず、個人の信仰生活にとってきわめて重要な意味をもつものであり、初めはビザンティンのイコン画家が訪れて製作の指導にあたったが、これもまもなくロシア人自身の手によるイコンが生まれることになる。当時は修道僧の一部に画僧としてのイコン画家が存在したが、後には一般人のイコン画家が現れ、その伝統はロシア革命によって新しいソビエト国家が非宗教国家となるまで受け継がれた。ロシアのイコン画家としては、ギリシア人だったフェオファン・グレックFeofan Grek(生没年不詳)、ロシア人のアンドレイ・ルブリョフ、ディオニーシーの3人がとくに有名である。なかでもA・ルブリョフの『聖三位(さんみ)一体』はロシア・イコンの最高傑作として今日も高く評価されている。
17世紀までロシア美術は宗教美術一色に染められており、世俗的な美術作品はほとんど存在しない。わずかに民芸的なものに当時のロシア人の美意識を認めることができるのみである。
[木村 浩・亀山郁夫]
18、19世紀の美術
18世紀を迎えてロシア美術は大きな発展を遂げた。ピョートル大帝(在位1682~1725)からエカチェリーナ2世(在位1762~1796)に至る時期は、ロシア国家が豊かな国力を誇り積極的に西欧文化を摂取した文化的にきわめて高揚した時期といえる。新しく建設された首都サンクト・ペテルブルグには、いわゆるロシア・バロック建築の粋が次々に出現した。なかでもイタリアの建築家F・B・ラストレッリFrancesco Bartolomeo Rastrelli(1700―1771)は生涯をロシアに捧(ささ)げ、ペテルゴフ宮殿(1746~1755)、ツァールスコエ・セロー宮殿(1747~1757)、スモーリヌイ修道院(1748~1764)など記念すべき建物を残した。また、1757年にはペテルブルグ美術アカデミーが創設され、西欧から油絵の技法が導入されると、フランス人教師の下でI・P・アルグノフ、A・P・ロセンコ、F・ローコトフ、D・レビツキー、V・ボロビコフスキーVladimir Lukich Borovikovsky(1757―1825)らのすぐれた油絵画家が育っていった。またフランス人彫刻家E・M・ファルコネの『ピョートル大帝記念像』が元老院広場(デカブリスト広場)に完成したのは1782年のことである。しかし、18世紀のロシア美術はおおむねフランス美術の圧倒的な影響下にあり、わけてもその主流をなしていたのが肖像画と装飾絵画のジャンルであった。
ロシア美術が西欧からの影響を脱してロシア独自の道を歩み始めたのは、ようやく19世紀に入ってからである。そのころになると、肖像画のほかに風景画、歴史画、風俗画のジャンルもおこり、O・キプレンスキー、V・トロピーニン、K・ブリュローフ、A・イワーノフらが次々に輩出して、ロシア絵画の新しい夜明けを告げた。とくにイワーノフの大作『民衆の前に現れたキリスト』(1837~1857)は、ロシア絵画史上において画期的な意味をもった。そこにはまだ古典主義的なアカデミズムが残っているが、それと同時に方法面できわめて新しい美的世界の追究が認められる。建築の分野でも、モニュメンタルな様式美と華麗な装飾を特色としたアンピール建築が栄え、ワシリエフスキー島の取引所(1805~1816、現海軍博物館)、海軍省(1806~1823)、モスクワ大学(旧校舎、1817~1819)などが生まれている。1870年には「芸術を役人の手から解放し、見る者を増やし、窓を開けて新鮮な空気を入れる」ことを目ざして、アカデミズムから決別した移動美術展協会(通称「移動派」)が組織され、I・クラムスコイ、N・ゲー、V・ペローフ、I・レーピン、V・スリコフ、I・レビタンら19世紀ロシア絵画の代表者たちが精力的な活動を始めている。彼らは批判的リアリズムを信奉した当時の進歩的な作家たちとも交流があり、歴史的かつ社会的なテーマを軸に民衆の躍動する姿を描き、ロシア美術史におけるリアリズム絵画の到達点を示した。
しかし、1890年代初めにはロシア・モダニズムの運動がおこり、「移動派は芸術を社会思想に従属させるもの」と批判した「美術世界」派が生まれ、M・ブルーベリ、L・バクスト、A・V・ベヌア、K・ソーモフKonstantin Somov(1869―1939)、V・ボリソフ・ムサートフらがユニークかつ耽美(たんび)主義的な美的世界を創造した。なかでもとくに有名なのが『鎮座せるデーモン』を描いたブルーベリであり、その装飾的な幻想美の世界は今日もなお高い評価を得ている。また、モスクワ郊外アブラムツェボのマーモントフ邸に集まったV・クズネツォフ、M・ネステロフMikhail Nesterov(1862―1942)、K・コロービンらも懐古的なロマンチシズムにあふれた多くの作品を残している。
世紀末から20世紀にかけて「青いバラ」派のP・クズネツォフ、M・サリヤンMartiros S. Sar'yan(1880―1972)、N・サプノーフらが登場してくる。また、「美術世界」派の作家たちは1904年に活動を停止するが、1911年にはふたたび展覧会を開き、E・ランセレー、B・クストージエフ、N・K・リョーリフ、P・ウォトキン、Z・セレブリャコワ、N・アリトマンらが出品している。だが、時代の流れはフランスのキュビスムに強い影響を受けた前衛派の画家たちの登場を促し、「ダイヤのジャック」「ロバの尻尾(しっぽ)」「標的」「青年連盟」など数多くのグループの展覧会で、P・コンチャロフスキー、A・V・レントゥーロフ、I・マシコフ、A・シェフチェンコ、D・ブルリューク、M・ラリオノフ、N・ゴンチャロワ、O・ローザノワ、K・マレービチなどが活躍した。なかでも特筆されるのが、1915年12月にペトログラードで開かれた「最後の未来派絵画展―0,10」(ゼロを目指す10人の意)展で、K・マレービチはシュプレマティズム(絶対主義)とよばれる抽象絵画(代表作『黒い正方形』)を、V・タトリンは『コーナー・反レリーフ』とよばれる無対象の三次元オブジェを発表した。ロシア革命(1917)後にロシア・アバンギャルドと称された彼らの運動は、純粋芸術派と構成主義派の二つに分かれたが、とくに大きな影響力を持ったのは、生産プロセスの一部に芸術を組み込もうとした後者であり、V・タトリン、A・ロドチェンコ、L・ポポーワ、V・ステパーノワらを中心に、ティーカップ、衣装など日常の生活用品からポスター、舞台美術の製作に至るまで幅広い活動を展開した。
[木村 浩・亀山郁夫]
ソビエトの美術
1917年のロシア革命は、美術界にとっても大きな事件であった。当初はパリにいたM・シャガールなどが帰国して、生まれ故郷ビテブスクの美術学校校長となって意欲的な美術教育を始めた。またW・カンディンスキー、マレービチ、P・フィローノフ、V・タトリン、A・ロドチェンコ、R・ファリク、V・レーベジェフなどが数々の新しい実験に取り組み、今日「ロシア・アバンギャルド美術」とよばれる革新的な美的世界を創造した。建築の分野ではK・メーリニコフ(1890―1974)、ベスニン兄弟、I・レオニードフらが活躍し、社会主義的ユートピアの創造という情熱に支えられた破天荒なビジョンを呈示したが、そのほとんどが実現をみずに終わった。
しかし、ネップが終了する1920年代終わりから革命後の自由な雰囲気は急速に失われ、シャガールをはじめ一部の人々は西欧へ亡命し、また、ある者は自らのアトリエに閉じこもった。とくに1932年に「ソビエト美術家同盟」が結成され、いわゆる社会主義リアリズムの旗印のもとに権力によるあからさまな干渉が行われると、アバンギャルド美術はほとんどすべての領域で後退を強いられ、かわってスターリン様式とよばれるモニュメンタルな美術の台頭が促された。スターリンによる圧制下にあった1930年代末から50年代初めに至る約15年間、ソビエト美術は長い冬の時代にあった。だが、56年のスターリン批判をきっかけに美術界にも新風が巻き起こり、後に「ソッツ・アート」の名で知られ、「非公式絵画」もしくは「非妥協派」とよばれる作家たちによる絵画が誕生するに至った。この運動の担い手として知られるのは、I・カバコフ、コマールとメラミードの兄弟、M・シェミャーキンらだが、社会主義の理念を徹底してパロディ化した絵画やインスタレーションは、ときに宇宙的なイメージを具現したものから、ときにポップ・アート風の軽みに社会風刺を重ね合わせた幅広いスタイルを特色としており、ペレストロイカ以後の今日、ロシアにおけるポストモダン芸術の先駆けとの高い評価を得ている。また、彫刻の分野では、『生命の樹』で知られるE・ネイズベスヌイElnst Iosifovich Neizvestnyi(1925―2016)の世界的な活躍が知られる。
[木村 浩・亀山郁夫]
『A・I・ゾートフ著、石黒寛・浜田靖子訳『ロシア美術史』(1976・美術出版社)』▽『『ロシア工芸とイコン――16世紀から20世紀初頭』(1975・サントリー美術館)』▽『亀山郁夫著『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)』