芸術創作方法の一つ。1930年代初めにソ連邦で提唱され,34年のソビエト連邦作家同盟規約で〈ソビエト芸術文学および文学批評の基本的方法〉と規定された。同規約では,〈社会主義リアリズム〉とは,〈現実をその革命的発展において,真実に,歴史的具体性をもって描く〉方法であり,その際,〈現実の芸術的描写の真実さと歴史的具体性とは,勤労者を社会主義の精神において思想的に改造し教育する課題と結びつかなければならない〉とされた。この定式は,1932年4月,文学団体再編成についての共産党中央委員会決議後,作家同盟準備委員会でのゴーリキー,ルナチャルスキー,キルポーチンValerii Yakovlevich Kirpotin(1898-1980),ファジェーエフらの討論を経てまとめられたもので,討論の過程では,社会主義リアリズムとは,〈社会主義が現実化した時代のリアリズムである〉,〈19世紀ロシア文学の方法とされた“批判的リアリズム”が,現実の欠陥,矛盾をあばきながら,その批判を未来への明るい展望と結びつけられなかったのとは異なり,革命的に発展する現実そのものの中に未来社会への歴史的必然性を見いだす新しい質のリアリズムである〉,その意味でこれは〈革命的ロマンティシズムをも内包する〉と強調された。実作面でこの方法に道を開いた作品としては,ゴーリキーの諸作品,とくに《母》(1906),ファジェーエフの《壊滅》(1927),N.A.オストロフスキーの《鋼鉄はいかに鍛えられたか》(1932-34)などが挙げられた。
方法提唱の段階では,それが1920年代のラップの政治主義的イデオロギー批評を抑止し,作家を階級的出身で規定する〈卑俗社会学派〉的文学観を克服するものと評価され,この方法をもとに,プロレタリア作家と同伴者作家(同伴者文学)の差別が〈ソビエト作家〉という新しい次元で止揚されることも期待された。カターエフの《時よ,進め!》(1932),エレンブルグの《第2の日》(1933),シャギニャーンの《中央水力発電所》(1930-31),レオーノフの《ソーチ》(1929),ショーロホフの《開かれた処女地》(1932-60)など,非プロレタリア文学系作家の1930年代初期の作品は,この方法の具現化と評価された。当時マルクス,エンゲルスの芸術に関する書簡が発見され,とくにバルザックを王朝派にもかかわらず〈偉大なリアリスト〉と評価し,〈典型的な情勢における典型的な性格の描出〉にリアリズムの本質を見たエンゲルスの言葉は,社会主義リアリズム論を補強するものとされた。しかし,一部に見られたリアリズム万能論への傾斜は,スターリン体制確立の過程で,世界観,イデオロギー強化の立場から強い反撃を受ける。30年代半ばにはバーベリ,ピリニャークら,独自のスタイルをもつ作家が粛清で大量に抹殺され,さらに作曲家ショスタコービチ批判,メイエルホリド劇場解散など,芸術界全般に及ぶ〈形式主義〉批判キャンペーンもあって,社会主義リアリズムはソビエト文学画一化のための具と化していく。〈内容において社会主義的,形式において民族的〉というスターリンの定義は,この方法のいっそうの教条化につながった。第2次世界大戦後,46-48年のジダーノフによる文芸整風(ジダーノフ批判)はこの傾向にとどめを刺したもので,その後はレーニンが1905年の論文《党の組織と党の文筆》で述べた芸術の党派性論や偏狭なソビエト愛国主義が一面的に強調される。実作面ではS.P.ババエフスキーの《金星勲章の騎士》(1947-48)など,現実美化,肯定的主人公の偶像化,スターリン賛美の非芸術的作品にスターリン賞が乱発され,ついには〈無葛藤理論〉のようなえせ理論も生み出された。その一方で,ショーロホフの《静かなドン》(1928-39),ブルガーコフの《巨匠とマルガリータ》(1966,執筆1919-40)など,ソ連の生んだ20世紀文学の傑作に社会主義リアリズム論からの明確な評価が下せぬ事態もあり,世界観,創作方法,表現形式を三位一体的にとらえ,それをソ連の全作家の創作方法として義務づけようとした〈社会主義リアリズム〉は,理論としては破産したと認められる。〈雪どけ〉後,この概念を無原則的に拡張し,強権的性格を緩和しようとする動きも見られたが,成果はあがらず,一種のスローガン的意味をしかもちえていない。
社会主義リアリズムの理論は日本にも1933年ころから紹介され,崩壊期にあったプロレタリア文学運動に大きな影響を与えた。森山啓,久保栄らによる〈社会主義リアリズム論争〉も行われたが,この方法は,蔵原惟人の〈プロレタリア・リアリズム〉の主張の影響下にあった日本の運動にとっては,脱イデオロギー的な主張と受けとられた節が濃く,社会主義が現実となっていない日本でのその適用の可否について疑問も表明された。国際的には,バルビュス,アラゴン,A.スティール,ゼーガース,ビュヒャーらが,この理論に共感を表明しているが,それよりはむしろ30年代中期の人民戦線運動の中で,これがソ連作家と西側の進歩的作家とを創作的にも結びつける懸橋となったことが評価される。スターリン批判後,ソ連国外でのこの理論への関心はほとんど消滅した。
執筆者:江川 卓
社会主義リアリズムの理論は,明らかにソビエト文学の状況から生まれたものであるが,他のあらゆる芸術分野にも適用され,1920年代に盛んであったアバンギャルド的実験とプロレタリア芸術運動を閉塞させた。その点では,36年に始まる〈形式主義〉〈コスモポリタニズム〉批判と粛清裁判が,この理論を補完する役割を果たした。
演劇では,俳優の肉体訓練法〈ビオ・メハニカ〉の提唱者メイエルホリドが粛清裁判で処刑され,ワフタンゴフ,タイーロフらの実験的演出家も追放され,モスクワ芸術座に拠るスタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコだけが正統とされた。映画では,ドキュメンタリズムの先駆けとなったベルトフの〈映画の目〉や,L.V.クレショフ,プドフキンのモンタージュの実験も,1930年代のトーキー映画にはうけつがれず,ワシーリエフ兄弟の《チャパーエフ》(1934),A.P.ドブジェンコの《シチョールス》(1939),M.S.ドンスコイのゴーリキー三部作(1938-42)など,俳優の演技を通して個人の運命を社会史に組みこむ,叙事詩的劇映画が人気を集めた。メイエルホリドの演出助手から出発したエイゼンシテインも,形式主義批判をあびて《アレクサンドル・ネフスキー》(1938),《イワン雷帝》第1部(1945)では,歴史的主題の精神分析的スペクタクルへと後退した。美術では,構成主義とマレービチ,ラリオーノフ,コンチャロフスキーPyotr Petrovich Konchalovskii(1876-1956)らは,〈ブルジョア的退廃〉として否定され,A.M.ゲラシモフ,Yu.I.ピメノフ,B.V.イオガンソンらによる党指導者・芸術家の肖像,革命・内戦期のエピソードを劇的に誇張した絵画,V.I.ムーヒナ,N.V.トムスキー,M.G.マニゼルらの記念碑的彫刻がもてはやされた。近代的表現をめざすA.A.デイネカ,B.M.クストジエフ,民衆絵画の伝統をうけつぐアルメニアのM.S.サリヤンらも,大きな屈折を余儀なくされた。建築でも,英雄的生活感情と生産技術を結合した,いかめしく装飾過剰な建物が賛美された。これらの傾向は大祖国戦争下の愛国心の高揚とともに頂点に達したが,戦後も46-48年にジダーノフの〈形式主義〉〈コスモポリタニズム〉批判が復活し,フランスのA.フージュロン,イタリアのR.グットゥーゾのように西ヨーロッパにも社会主義リアリズムの同調者を生み出した。
執筆者:針生 一郎
1930年代に入ってから,音楽の分野でも社会主義リアリズムの創作方法が広く論じられた。すでに1920年代にASM(Assotsiatsiya sovremennykh muzykantov。現代音楽協会)とRAPM(Rossiiskaya assotsiatsiya proletarskikh muzykantov。ロシア・プロレタリア音楽家協会)の対立のなかで,社会主義社会における音楽のありかたについて模索されていた。ASMが,古典音楽から前衛音楽までを含む芸術音楽の広い枠のなかで新しい音楽を多様に求めようとしたのに対して,RAPMは伝統的な芸術音楽をブルジョア的であると否定して,民謡や労働・革命歌謡など,大衆の中から直接おこってきたものを発展させようとした。30年代に入って前者は形式主義,後者は俗流社会主義としてともに批判され,両者を止揚したところに社会主義リアリズムの方法の確立が求められた。32年共産党の指導によって作曲家同盟が発足し,排他的に優勢になっていたRAPMは解散させられて,すべての音楽家の力が作曲家同盟に結集された。その後,芸術音楽畑の人々の社会的課題にこたえる作品が数多く生まれた。西ヨーロッパから帰ってきたプロコフィエフ,ソビエトの生んだショスタコービチ,カバレフスキー,ハチャトゥリヤンらの1930年代の活躍は目覚ましいものがある。
36年のショスタコービチのオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》に対する《プラウダ》の批判は,社会主義リアリズムとは何かを初めて具体的な音楽作品にもとづいて公式に論じた文書である。当時のソ連社会に吹き荒れていた粛清の嵐を背景に,この批判は作曲家たちを萎縮させ,彼らの大胆な試みを封じる結果になり,大衆にもわかりやすい保守的で類型的な技法を用いた個性のとぼしい作品を数多く生むことになった。のちにジダーノフ批判があるが,これは国際的に知られた作曲家をほとんどすべて槍玉にあげたもので,36年の批判以上の意味はなく,フルシチョフのスターリン批判以後,実質的に意味をもたなくなった。むしろスターリンの死の直後に発表されたショスタコービチの《第10交響曲》(1953)をめぐる論争が,その後のソ連の作曲界の展開に大きな影響を与えた。54-55年にわたったこの論争は作曲家のもっと自由な実験を求める方向に進んだ。〈現実を革命的展開の中でとらえ,大衆を社会主義的に教育する〉という社会主義リアリズムの基本はふまえながら,その後のソ連・ロシアの音楽は着実に多様性を増している。
執筆者:森田 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
芸術創作方法の一つ。1932年から旧ソ連で提唱され、34年、当時のソビエト作家同盟規約で、「ソビエトの芸術文学ならびに文学批評の基本的方法」と規定された。その内容は、現実をその革命的発展において正しく歴史的、具体的に描き出すこと、勤労人民を社会主義に向かって思想的に改造し、教育するという課題に芸術創造を結び付けること、の2点に要約される。その実現のために作家は、国民の生活と伝統に深く分け入り、そのなかの古いものに対する新しいものの勝利を描き、その勝利を実現する新しいヒーローの創造が要求される。また、このリアリズムは、現在の社会に未来社会に至る歴史的必然性をみるという立場から、革命的ロマンチシズムを包含しうると主張された。この方法への道を初めて開いたのはゴーリキーの小説『母』(1907)とされ、ファデーエフの『壊滅』(1927)、オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(1932~34)もこの立場にたつ作品とされた。
[栗原幸夫]
社会主義リアリズムの提唱は、作家に高度の共産主義的世界観や政治的イデオロギーを要求する従来の唯物弁証法的創作方法や、セクト主義的なラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)に対する批判と結び付いていたために、芸術創造の自立性を擁護する理論として、同時代の多くの作家に歓迎された。当時はソ連以外の国の進歩的な文学運動にも大きな影響を与え、フランスのバルビュス、アラゴン、ドイツのゼーガース、チェコスロバキアのフチークらの活躍を促した。とくに当時政治運動が人民戦線戦術に転換してゆくなかで、社会主義リアリズムのスローガンは政治的立場の違いを超えて多くの作家を反ファシズム文化擁護の運動に結集する役割を果たし、プロレタリア文学という呼び名は、これ以後急速に姿を消していった。しかし、このような政治的な役割を別にすれば、社会主義リアリズムはかならずしも理論的に体系化されず、現実には前衛芸術に対する極端な否定と古典的なリアリズムへの復帰が顕著にみられ、さらにスターリン指導下のソビエト政権への無条件的支持・服従が作家の第一義的な資格とされた。
社会主義リアリズムの理論は、日本にも1933年(昭和8)ごろから紹介され始め、弾圧によって崩壊に瀕(ひん)していたプロレタリア文学運動に決定的な影響を与えた。それは従来の「政治の優位性」の理論のかわりに、「現実をありのままに描く」という世界観無用論を台頭させる契機になった。日本プロレタリア作家同盟が34年に解散したあと、森山啓(もりやまけい)、久保栄(くぼさかえ)らによって、いわゆる「社会主義リアリズム論争」が行われ、芸術運動再建の方向性、日本に社会主義リアリズムのスローガンを適用することの可否、さらには世界観と創作方法との関係をめぐって議論された。第二次世界大戦後、社会主義リアリズムはますますスターリン個人崇拝の色彩を強くしたが、ソ連共産党第20回大会(1956)に始まるスターリン批判以後、急速にその影響力を失っていった。
[栗原幸夫]
当時の美術界ではこの理論を保守派の画家・批評家たちが低次元で受け止め、ブロツキー、ゲラシモフ、エファーノフ、ピメノフЮрий Иванович Пименов/Yuriy Ivanovich Pimenov(1903―77)らが描いた党指導者の肖像、革命史をテーマにしたリアリズム作品だけを過大評価した。このため20世紀初頭にまたがるモダニズム美術や、1910年前後に誕生し、1920年代を席巻(せっけん)したアバンギャルド美術は批判攻撃され、ソビエトおよびロシア美術は長い不毛の時期を迎えた。
[木村 浩]
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…反面,革命精神も流派や様式として実体化されると,モダニズムの風潮に飲み込まれがちで,ロシア革命後ソ連のプロレトクリトの運動や,資本主義諸国のプロレタリア芸術運動は,その点を厳しく批判したから,〈革命の芸術と芸術の革命〉〈政治の前衛と芸術の前衛〉の統一が絶えず求められた。だが,ソ連ではスターリンの支配体制が完成した1930年代初頭,芸術諸団体の解散とジャンル別単一組織への再編が共産党によって決定され,社会主義リアリズムが創作と批評の基本方法として公認されたため,20年代にめざましかった前衛芸術はタブーとなり,メイエルホリド,パステルナーク,エイゼンシテイン,マレービチらは粛清されるか,沈黙を強いられた。他方,ヒトラー政権下のドイツでは,前衛芸術を文化ボリシェビキ,ユダヤ的毒性の産物としてさらしものにする,〈退廃芸術展〉のキャンペーンが各地でつづけられたことも忘れられない。…
…19世紀フランスの写実主義の創始者。また社会主義リアリズムの先駆者ともされる。オルナンの富農の家に生まれる。…
…一般的には国内の生産技術の遅れもあって彼らの活動は成果をあげえなかった。ロシア国内の生産主義的構成主義は,30年ころその形式主義偏重の傾向を批判され,社会主義リアリズムがそれに取って代わる。一方20年代後半に建設活動が活発となった建築の領域では,ベスニンVesnin3兄弟,ギンズブルグMoisei Ya.Ginzburg(1892‐1946)らの〈現代建築家協会(OSA(オサ))〉(1925結成)が構成主義を名のり,西欧の近代建築運動と歩調をあわせて機能主義建築を主張したが,これも30年代初めには復古的な古典主義に取って代わられた。…
…最初のトーキーは,エックN.V.Ekk(1902‐59)監督が浮浪児の救済と教化を描いた《人生案内》(1931)である。トーキーがつくり始められたときと社会主義的建設が推進された時期とが重なり合い,30年代のソビエト映画は社会主義リアリズムを最高の課題にかかげ,1927年から始まった5ヵ年計画の達成をテーマとしたエルムレルF.M.ErmlerとユトケビチS.I.Yutkevich共同監督の《呼応計画》(1932),ワシリエフ兄弟監督の内戦の英雄的叙事詩ともいうべき《チャパーエフ》(1934),白軍との戦闘における水兵の英雄的なたたかいを描いたジガンE.L.Dzigan監督の《われらクロンシタットより》(1936)などが新しいリアリズムの代表作である。ソビエト映画は特定の個人ではなく集団を主人公として描いてきたが,ロンムM.I.Romm(1901‐71)監督は,十月革命の歴史的な道程のなかのレーニンを人間的にとらえて《十月のレーニン》(1937),続いて《一九一八年のレーニン》(1939)をつくった。…
…ソビエト文学という呼称は,まずこのように領土的概念に基づいて用いられるが,この場合,亡命ロシア作家は自動的にソビエト文学から排除されることになる。第2に,ソビエト文学という言葉がイデオロギー的含みをもって用いられる場合,言いかえるならばソビエトという言葉が社会主義ないし共産主義イデオロギーの同義語として使われる場合,ソビエト市民であっても,国の公的教義を受け入れなければ(社会主義リアリズムという教義を認めない場合も含む),作家は非ソビエト的ないし反ソビエト的とされ,ソビエト文学から排除されることになる。ソルジェニーツィンは追放されて亡命作家になる前に,イデオロギー的理由でソビエト的作家ではないと規定されていた。…
※「社会主義リアリズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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