ロシア軍艦対馬占領事件(読み)ロシアぐんかんつしませんりょうじけん

改訂新版 世界大百科事典 「ロシア軍艦対馬占領事件」の意味・わかりやすい解説

ロシア軍艦対馬占領事件 (ロシアぐんかんつしませんりょうじけん)

幕末にロシア軍艦が数ヵ月対馬芋崎(現長崎県対馬市,旧美津島町)を占拠した事件。1861年(文久1)2月ロシア軍艦ポサドニック号が船体修理を理由に対馬浅茅(あそう)湾の尾崎停泊,付近を測量し,3月芋崎に永住施設を建設して居座った。対馬藩の抗議に対し艦長ビリリョフは芋崎付近の租借権を強請,藩民との紛争も絶えなかった。幕府は5月外国奉行小栗忠順(ただまさ)を派遣したが効果なく,6月藩は幕府に移封願を提出した。その間幕府は箱館奉行村垣範正を通じロシア領事ゴシケビチに退去交渉を行い,8月ビリリョフらは芋崎を退いた。一方,イギリスは前年対馬全島の測量をし,この事件に際しても公使オールコックが幕府に協力を申し出,7月には軍艦2隻を派遣してビリリョフに抗議するなど強く干渉した。これは列国の東アジア進出により対馬の戦略的位置が高まったためで,この事件はその端的な現れである。
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百科事典マイペディア 「ロシア軍艦対馬占領事件」の意味・わかりやすい解説

ロシア軍艦対馬占領事件【ロシアぐんかんつしませんりょうじけん】

対馬事件とも。1861年2月からロシア軍艦ポサドニック号が対馬占領を企て滞泊した事件。英国の対馬占領の野心牽制(けんせい)するため船体修理を口実に対馬浅茅(あそう)湾に停泊したポサドニック号は3月芋崎(いもざき)に兵舎を建設,付近の永久租借権を要求。対馬藩島民は激烈に抵抗し,幕府も外国奉行小栗忠順を派遣して撤退を求めたがロシア艦は動かず,英公使オールコックの協力申し出により英艦2隻が派遣され威嚇,8月ようやく退去した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ロシア軍艦対馬占領事件」の解説

ロシア軍艦対馬占領事件
ロシアぐんかんつしませんりょうじけん

1861年(文久元)にロシア軍艦が対馬国芋崎(いもざき)を占拠した事件。2月3日ロシア軍艦ポサードニク号が軍事的要衝の地として注目されていた対馬の浅茅(海)(あそう)湾内尾崎に来航,その後昼ケ浦口の芋崎に船体修理を名目に停泊・上陸し,対馬国府中藩の制止をふりきり営舎を建設した。さらに資材・食糧遊女,芋崎付近の土地租借権,ロシア軍による浅茅(海)湾警備権などを要求。ロシアの武力を恐れた幕府と府中藩は,島民の激しい抵抗を抑え艦長ビリレフと交渉,さらにイギリスに折衝を依頼した。芋崎付近は約半年間占拠されたが,7月23日イギリスは東アジアの勢力均衡維持のため2隻の軍艦を派遣して強硬に退去を迫り,8月15日ポサードニク号は退去した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ロシア軍艦対馬占領事件」の解説

ロシア軍艦対馬占領事件
ロシアぐんかんつしませんりょうじけん

1861年,ロシア軍艦による対馬占領事件
ロシアはイギリス・フランスに対抗して極東に根拠地をつくろうとして,東シナ海と日本海を制する拠点として対馬を重視,軍艦ポサドニック号を派遣し,芋崎 (いもざき) 浦付近を占領した。対馬藩の反対を拒否して占領を続けたが,対馬藩士や島民の抵抗とイギリス軍艦2隻の来航による圧力で,停泊5か月で退去した。

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