江戸末期の幕臣。上野介と称す。1859年(安政6)目付となり,60年(万延1)日米修好通商条約批准交換の使節として,正使新見正興,副使村垣範正とともに渡米した。帰国後,外国奉行となる。61年(文久1)ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に滞泊する事件が起きた際,忠順は対馬に赴き退去を要求したが,目的を達することができずに江戸へ帰った。以後,小姓組番頭,勘定奉行,町奉行,歩兵奉行,軍艦奉行,陸軍奉行並,海軍奉行並などの諸役を歴任。この間,フランス公使ロッシュに交渉し,65年,フランスから240万ドルを借款して,横須賀に製鉄所,造船所,修船場の建設を開始した。これは,のちに横須賀工厰に発展した。さらに翌66年には600万ドルの借款契約を結び,フランスからの軍艦,銃砲の購入費や陸軍教官の招請費にあてることにしていたが,幕府の倒壊で大部分は実現しなかった。戊辰戦争では徳川慶喜に抗戦を進言したが入れられず,上州群馬郡権田村に引退したが,68年4月,新政府軍に逮捕され斬刑に処せられた。
執筆者:小野 正雄
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幕末の幕臣。慶応(けいおう)期の徳川幕府を支えた中心人物の一人。江戸の生まれ。幼名を剛太郎、また襲名を又一ともいう。のち豊後守(ぶんごのかみ)、さらに上野介(こうずけのすけ)と改めた。1859年(安政6)目付となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准書交換のため新見正興(しんみまさおき)、村垣範正(むらがきのりまさ)に従って渡米、帰朝後外国奉行(ぶぎょう)となる。1861年(文久1)のロシア軍艦による対馬(つしま)事件に際してはその折衝にあたり、1862年勘定(かんじょう)奉行勝手方、さらに勘定奉行、歩兵奉行兼任、1863年陸軍奉行となり、この間、文久(ぶんきゅう)期(1861~64)に幕府の三兵(歩・騎・砲)軍事改革を行った。1864年(元治1)には軍艦奉行、翌1865年(慶応1)にはふたたび勘定奉行勝手方、1866年海軍奉行、ついで翌年陸軍奉行を兼任し、慶応期の幕政改革を親仏派として栗本鋤雲(くりもとじょうん)とともに担い、横須賀造船所設立をはじめ、幕府の政治、財政、軍事の各分野で改革を推進しようとした。薩長(さっちょう)に対しては主戦論を唱えたが、幕軍が鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れるや上州(群馬県)へ隠退、新政府軍に捕らえられて慶応(けいおう)4年閏(うるう)4月5日斬(ざん)に処せられた。
[田中 彰]
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…過疎地域に指定されている。東善寺に末期の徳川幕府を支えた小栗忠順(ただまさ)の墓と小栗公遺品館がある。【千葉 立也】。…
※「小栗忠順」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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