小栗忠順(読み)おぐりただまさ

精選版 日本国語大辞典 「小栗忠順」の意味・読み・例文・類語

おぐり‐ただまさ【小栗忠順】

  1. 江戸末期の幕臣上野(こうずけのすけ)。日米修好通商条約批准書交換のため渡米。帰国後、外国奉行など要職を歴任。のち官軍に捕えられ殺された。文政一〇~明治元年一八二七‐六八

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改訂新版 世界大百科事典 「小栗忠順」の意味・わかりやすい解説

小栗忠順 (おぐりただまさ)
生没年:1827-68(文政10-明治1)

江戸末期の幕臣。上野介と称す。1859年(安政6)目付となり,60年(万延1)日米修好通商条約批准交換の使節として,正使新見正興,副使村垣範正とともに渡米した。帰国後,外国奉行となる。61年(文久1)ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に滞泊する事件が起きた際,忠順は対馬に赴き退去を要求したが,目的を達することができずに江戸へ帰った。以後,小姓組番頭,勘定奉行,町奉行,歩兵奉行,軍艦奉行陸軍奉行並,海軍奉行並などの諸役を歴任。この間,フランス公使ロッシュに交渉し,65年,フランスから240万ドルを借款して,横須賀に製鉄所,造船所,修船場の建設を開始した。これは,のちに横須賀工厰に発展した。さらに翌66年には600万ドルの借款契約を結び,フランスからの軍艦,銃砲の購入費や陸軍教官の招請費にあてることにしていたが,幕府の倒壊で大部分は実現しなかった。戊辰戦争では徳川慶喜に抗戦を進言したが入れられず,上州群馬郡権田村に引退したが,68年4月,新政府軍に逮捕され斬刑に処せられた。
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朝日日本歴史人物事典 「小栗忠順」の解説

小栗忠順

没年:明治1.閏4.6(1868.5.27)
生年:文政10(1827)
幕末の幕府官僚。安政2(1855)年家督相続,同6年9月目付に登用され,日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察に任命され,翌年1月横浜を出航し9月帰国した。同年11月外国奉行,翌文久1(1861)年5月ロシア艦対馬占拠事件の発生で同地に赴いたが現地解決を断念し帰府,7月辞職。同2年6月勘定奉行。公武合体運動,尊王攘夷運動朝廷,雄藩による幕政介入とみて抵抗,徳川慶喜,松平慶永の幕政指導を批判し翌3年4月辞職。元治1(1864)年8月勘定奉行に復職,次いで軍艦奉行,翌年2月罷免されたが同年5月勘定奉行に3度目の復職。栗本鋤雲と共にフランス公使ロッシュの助言と援助を受けつつ,横須賀製鉄所など軍事施設の建設を開始,また軍制改革に着手して幕府軍事力の増強を図る。慶応3(1867)年10月大政奉還の報に接しこれに反対,討幕派諸藩との軍事対決の姿勢を示し江戸薩摩藩邸焼打ちを実行,翌明治1(1868)年鳥羽・伏見の戦で敗北した徳川慶喜が江戸に帰るや主戦論を建議。かえって遠ざけられ同年3月知行地の上野国権田村に居住,閏4月東山道先鋒総督府軍に捕らえられ斬られた。「精力が人にすぐれて計略に富み,世界の大勢にもほぼ通じて,しかも誠忠無二の徳川武士,……三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ」とは政敵だった勝海舟の評。<参考文献>蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』

(井上勲)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小栗忠順」の意味・わかりやすい解説

小栗忠順
おぐりただまさ

[生]文政10(1827).江戸
[没]慶応4(1868).閏4.6. 上野,権田
江戸時代末期の幕臣。新潟奉行小栗忠高の子。豊後守,上野介と称する。万延1 (1860) 年,日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) 批准のため,新見正興らの遣米使節に監察として随行。帰国後,外国奉行となる。文久1 (1861) 年,ロシア軍艦による対馬占領に際しては,交渉の任にあたって成功せず辞職したが,翌文久2 (1862) 年勘定奉行に登用され,以来,町奉行,軍艦奉行を経て慶応1 (1865) 年5月,難局に際し再度勘定奉行となる。倒幕諸藩と対決する最も強硬な幕府主戦派の一人として,幕閣で主流を占め,フランスとの間に借款契約を結び,フランス式軍制の導入を試み,横浜造船所を創設するなど,意欲的に幕府権力の確立に貢献した。また,封建制を廃止して郡県制の樹立を企画し,薩長両藩をフランスの援助のもとに征討しようとはかったが,幕府内の反対派に制止されて成功しなかった。大政奉還に反対して,慶応4 (1868) 年1月免官となり,以後,上野国権田村に帰郷して農兵の育成に努めた。東山道鎮撫総督に対しては帰順の意を表明したが,不穏のたくらみをするものとして討伐を受け,捕縛,斬首された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小栗忠順」の意味・わかりやすい解説

小栗忠順
おぐりただまさ
(1827―1868)

幕末の幕臣。慶応(けいおう)期の徳川幕府を支えた中心人物の一人。江戸の生まれ。幼名を剛太郎、また襲名を又一ともいう。のち豊後守(ぶんごのかみ)、さらに上野介(こうずけのすけ)と改めた。1859年(安政6)目付となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准書交換のため新見正興(しんみまさおき)、村垣範正(むらがきのりまさ)に従って渡米、帰朝後外国奉行(ぶぎょう)となる。1861年(文久1)のロシア軍艦による対馬(つしま)事件に際してはその折衝にあたり、1862年勘定(かんじょう)奉行勝手方、さらに勘定奉行、歩兵奉行兼任、1863年陸軍奉行となり、この間、文久(ぶんきゅう)期(1861~64)に幕府の三兵(歩・騎・砲)軍事改革を行った。1864年(元治1)には軍艦奉行、翌1865年(慶応1)にはふたたび勘定奉行勝手方、1866年海軍奉行、ついで翌年陸軍奉行を兼任し、慶応期の幕政改革を親仏派として栗本鋤雲(くりもとじょうん)とともに担い、横須賀造船所設立をはじめ、幕府の政治、財政、軍事の各分野で改革を推進しようとした。薩長(さっちょう)に対しては主戦論を唱えたが、幕軍が鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れるや上州(群馬県)へ隠退、新政府軍に捕らえられて慶応(けいおう)4年閏(うるう)4月5日斬(ざん)に処せられた。

[田中 彰]


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百科事典マイペディア 「小栗忠順」の意味・わかりやすい解説

小栗忠順【おぐりただまさ】

江戸末期の幕臣。初め豊後守,のち上野介。1860年日米修好通商条約批准の使節として渡米。帰国後は外国奉行,勘定奉行,軍艦奉行などを歴任し,幕政改革に活躍。親フランス派の指導者として紙幣発行,洋式軍隊の編制訓練,製鉄所・造船所建設等の施策を遂行。戊辰戦争では抗戦論を唱えたがいれられず,領地上野へ帰った。1868年新政府軍に捕縛され斬られる。
→関連項目幕末遣外使節三野村利左衛門ロシア軍艦対馬占領事件

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小栗忠順」の解説

小栗忠順 おぐり-ただまさ

1827-1868 幕末の武士。
文政10年生まれ。小栗忠高の子。幕臣。万延元年日米修好通商条約批准書交換の使節監察として渡米。外国,勘定,軍艦などの各奉行をつとめ財政改革,軍制改革をおこなう。大政奉還に反対し,戊辰(ぼしん)戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦をすすめた。慶応4年閏(うるう)4月6日知行地の上野(こうずけ)群馬郡で新政府軍に捕らえられ処刑された。42歳。通称は剛太郎,又一,上野介。
【格言など】一言で国を滅す言葉がある(幕臣たちの「どうにかなる」という優柔不断さを批判)

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旺文社日本史事典 三訂版 「小栗忠順」の解説

小栗忠順
おぐりただまさ

1827〜68
幕末の幕臣
1860年日米修好通商条約の批准交換のため,幕府遣外使節の一員として新見正興 (しんみまさおき) に随行し渡米。帰国後外国奉行・軍艦奉行・歩兵奉行などを歴任した。フランスの援助をうけて幕政改革に尽力し,戊辰 (ぼしん) 戦争では抗戦論を唱えて官軍に捕らえられ斬首。

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世界大百科事典(旧版)内の小栗忠順の言及

【倉渕[村]】より

…過疎地域に指定されている。東善寺に末期の徳川幕府を支えた小栗忠順(ただまさ)の墓と小栗公遺品館がある。【千葉 立也】。…

※「小栗忠順」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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