改訂新版 世界大百科事典 「ワキール」の意味・わかりやすい解説
ワキール
wakīl
〈代表者〉〈保証人〉〈代理人〉〈保護者〉などを意味するアラビア語。コーランには,たとえば,〈アッラーは我々の言葉の保証人(ワキール)である〉(12:66)という表現があり,〈ワキール〉はアッラーの99の名前の一つとなっている。
イスラム社会の発展とともに,ワキールはさまざまの分野で,上記の一般的な意味を踏まえつつ,それぞれの分野に特殊な意味をもって使われるようになった。たとえばシーア派では,イマームは個人的な代理人(ワキール)を使って信徒たちと連絡を取り合うことがしばしばあった。ことに十二イマーム派では,12代目イマームのムハンマド・アルムンタザルがこの世から隠れ(ガイバ)てしまってからは,イマームに代わってワキールがこの派の代表者の役割を果たした。
イスラム法のある分野では,法的な代理制度(ワカーラ)を認め,ワキールは法的代理人という意味で使われるようになった。とくに商業の分野ではこのワカーラ制度が大きな役割を果たした。法人の概念をもたないイスラム法では,商業上の仲間組織による所有権の分有を認めていたが,これは理論的にはワカーラの概念に含まれる。商業の代理制度は,ある特定の事柄や品物について,権限を委任する人(ムワッキル)と委任される人(ワキール)が,両者の了解のもとに代理権の契約を結ぶことをいう。現実に存在した商業上のワキールは,次のような機能を果たした。(1)ある都市のワキールは,そこにいない商人の法的代理人で,債権の取立てやその他狭義の法的問題の処理に当たる。このために,たとえばユダヤ商人のワキールに,ムスリムのカーディー(裁判官)がなっている例が多く,10~13世紀カイロのゲニザ文書に出てくるという。(2)ワキールは商品の保管業務も行い,取引の場所を提供した。ダール・アルワカーラdār al-wakālaと呼ばれる施設は,本来ワキールの管理する倉庫兼取引場のようなものであった。(3)ワキールは商人たちの間に立って,商品や資本を預かったり,仲介者の役割を果たした。(4)ワキールは,行政的な役割として港の監督とか関税の徴収などを行うこともあった。このようなワキールの役割と機能をみてくると,単に他の商人の代理人であるというよりは,各地域の商人のリーダー的な存在だったようにもみえる。実際,ワキールの中でもワキール・アットゥッジャールwakīl al-tujjārと呼ばれた人々は,商人頭とでも訳したほうが適切かもしれない。商業においてワキールが独自の役割を果たしたのは中世半ばまでである。
商業上のワキールと並んで,歴史的に重要なのは,ダイアとかイクターなど土地所有者のワキールである。この場合は代官とでも訳すのが適当であろう。このタイプのワキールの任務は第1に徴税であり,それを所有者に届けることであった。また場合によってはダイアやイクターの経営管理に当たっていたこともある。中世後期になると,イクターにもワキール以外にさまざまな権限の所有者が入り込み,ワキールのイクターにおける地位は低下した。
官職名としてのワキールも,すでに第2代カリフ,ウマル1世の時代に存在していたと伝えられるほど古い。その後はさまざまな官庁でワキールという名のつく官職が置かれ,現代にまで受け継がれている。また現代の軍隊でも下士官の位階として各国で使われている。
執筆者:湯川 武
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報