コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

アイユーブ朝 アイユーブちょうAyyūb

6件 の用語解説(アイユーブ朝の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アイユーブ朝
アイユーブちょう
Ayyūb

エジプト,シリアパレスチナ,上メソポタミアイエメンを支配したスンニー (正統) 派のイスラム王朝 (1171~1250) 。首都はカイロ。 1169年,シリアのザンギー朝の将であったクルド族のアイユーブ家のサラディンは,エジプトの宰相として事実上その支配者となり,さらに 71年にはシーア派であるファーティマ朝カリフ制を廃止し,アッバース朝カリフの権威を復活して分裂したイスラム世界の再統一をはかった。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

アイユーブ‐ちょう〔‐テウ〕【アイユーブ朝】

Ayyūb》1169年、シーア派ファーティマ朝を倒して、サラディンが建国した、スンニー派のイスラム王朝。カイロを首都として、エジプトとシリアを支配し、十字軍勢力に対抗。1250年マムルーク朝の成立で滅亡。

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

アイユーブ朝【アイユーブちょう】

エジプト,シリアを中心に,メソポタミア,ヒジャーズ,イエメンを支配したスンナ派イスラム王朝。1169年―1250年。首都カイロ。ファーティマ朝の宰相サラーフ・アッディーンサラディン)がスンナ派支配の復興のため創建。
→関連項目エジプト(地域)十字軍

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

アイユーブちょう【アイユーブ朝 Ayyūb】

エジプト・シリアを中心に,ジャジーラからイエメンを支配したスンナ派のイスラム王朝。1169‐1250年。首都はカイロ。1169年ファーティマ朝の宰相となってエジプトに主権を確立したサラーフ・アッディーンは,イスマーイール派に代えてスンナ派の支配体制を復活し,またイスラム世界統一のためにアッバース朝カリフの宗主権を認めて自らは王(マリク)と称した。73年には兄トゥーラーンシャーTūrānshāh(?‐1180)をイエメンに派遣して,東西貿易の独占を図る一方,翌年ザンギー朝ヌール・アッディーンが没すると,これを機にシリアからジャジーラへと支配権を伸ばし,十字軍包囲の体制を固めた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

アイユーブちょう【アイユーブ朝】

サラディンがエジプトに建てたスンナ派のイスラム王朝(1169~1250)。エジプト・シリア・パレスチナを支配し、第三回十字軍のイスラム世界への侵入を阻止した。首都はカイロ。マムルーク朝に倒された。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アイユーブ朝
あいゆーぶちょう
Ayybids

ザンギー朝の部将であったクルド人のサラーフ・アッディーン(サラディン)が、1169年にエジプトのイスマーイール派のファーティマ朝を倒して建てた王朝。その領域はエジプトから始まり、シリア、ジャジーラ(イラクの北西部とシリアの北東部を含むステップ地帯)、そしてイエメン(1229年まで支配)にまで広がっていた。サラディンはエジプトを王朝の本拠地として、他の地域は分割して一族に与えて支配させた。アイユーブ朝スンニー派イスラムの旗手として、アッバース朝カリフの宗主権を認め、スンニー派ウラマーの育成・登用などを通じて、またモスクマドラサ、ハーンカー(スーフィーの修道場)などの建設を通じて、積極的にスンニー派の振興に努めた。また十字軍に対しても、イスラム側の反撃の先頭にたち、その勢力を大きく後退させた。しかし13世紀になると、複雑な政治情勢もあって和戦両面の政策に転換した。同朝の安定も第5代スルタン、カーミル(在位1218~1238)の時代までで、その後は内部分裂が激しくなり、1250年に自らの軍隊内のトルコマムルーク将校たちのクーデターによって倒された。アイユーブ朝の一派は15世紀までジャジーラの一地方勢力として残った。[湯川 武]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内のアイユーブ朝の言及

【アラビア半島】より

…半島の各地に群小勢力が割拠し,メッカにはハサン家(アリーの長子ハサンの子孫),メディナにはフサイン家(アリーの次子フサインの子孫)の地方的政権が確立し始めていた。ファーティマ朝を滅ぼしたアイユーブ朝は半島の宗主権を握り,サラーフ・アッディーンが派遣した弟トゥーラーン・シャーTūrānshāhの開いたイエメンのアイユーブ朝(1174‐1229)は,ほぼ半世紀続いたあと,そのメッカ総督の開いたラスール朝(1129‐1454)に取って替わられた。エジプト・シリアでアイユーブ朝のあとを継いだマムルーク朝は,ヒジャーズの宗主権をも受け継ぎ,イエメンでラスール朝を継いだターヒル朝(1446‐1516)はマムルーク朝の武力干渉によって滅んだ。…

【イエメン】より

…そのあとイエメンでは,イスマーイール派のスライフṢulayḥ朝(1047‐1138)が勢力を強め,紅海沿岸のティハーマのナジャーフNajāḥ朝(1021‐1159)を破り,1063年にはラッシー朝をサーダに追ってサヌアに都し,一時はヒジャーズをも侵略したが,最後はズー・ジブラに都を移し,同じイスマーイール派のズライーZuray‘朝(1138‐74)に支配権を奪われた。アイユーブ朝を建設したサラーフ・アッディーンは,弟トゥーラーンシャーTūrānshāhにイエメン征服を命じ,タイズに都するアイユーブ朝(1174‐1229)が成立した。しかしエジプト・シリアでマムルーク朝がアイユーブ朝に代わったのと同じように,イエメンでもマムルークがアイユーブ朝の支配権を奪い,ザビードに都してラスール朝を開いた。…

【イスラム美術】より

…モースルの金工の特色はアラベスクや繫ぎ卍文などを地文として,鳥獣,十二宮,帝王主題,風俗画的主題が,イランの場合と違って,すきまなく展開していることである。象嵌の技法は,アイユーブ朝(1169‐1250)にいたり,モンゴル侵攻の難を避けた工匠たちによってシリアに伝えられた。アイユーブ,マムルーク(1250‐1517)両朝時代に,特にシリアで,キリスト教的なモティーフが,伝統的なモティーフに混じって使われているのが見られる。…

【シリア】より

…ただし文化面ではシリア出身者はそのヘレニズムの遺産をもって,いわゆるイスラム文明の興隆に大いに貢献した。
【十字軍とアイユーブ朝下での繁栄】
 9世紀半ばになってアッバース朝の支配が緩んでくると,エジプトで事実上独立したトゥールーン朝(868‐905)がパレスティナから中部シリアを支配し,10世紀の前半には同様の性格をもつイフシード朝がほとんど同じ領域を支配した。10世紀の前半から末まで,北シリアはハムダーン朝(905‐1004)が勢力を張っていた。…

※「アイユーブ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

百条委員会

地方自治体が議決により設置する特別委員会の一つ。名称は「地方自治法第100条」に基づく。百条委員会は、地方公共団体の事務に関する調査を行い、関係者への聞き取りや記録の提出を請求、拒否した者には罰則が科...

続きを読む

コトバンク for iPhone

アイユーブ朝の関連情報