翻訳|Upper Canada
カナダ,オンタリオ州の旧名。セント・ローレンス川の上流に当たるのでこの名が付された。アメリカ独立革命の勃発により,一部の王党派は北上してイギリス領であるノバ・スコシア,ケベックの両植民地に逃げた。ケベック植民地へ入植した人びとは五大湖周辺に居住したが,荘園主や教会の影響濃厚な政治・経済形態を忌避し,1791年,〈憲法条例〉の制定により,ケベックはアッパーおよびロワー・カナダ植民地に二分され,アッパー・カナダではイギリス式の代議制,土地制度が導入された。ヨーク(現,トロント)を中心に発展した植民地は,19世紀前半多くのイギリス系移民を迎え,カナダにおけるイギリス系文化の温床となり,教育制度も充実した。植民地の成熟に伴い,植民地の支配層である〈家族盟約〉を打倒しようとする抵抗運動が起こり,1837年のW.L.マッケンジーの反乱をみるが,この結果41年両カナダは統合され,アッパー・カナダは連合カナダ植民地の一行政区カナダ西部に再編された。
執筆者:大原 祐子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
カナダ東部の旧イギリス領植民地。現在のオンタリオ州南部にあたる。アメリカ独立革命(1775~1783)を逃れた王党派の一部が北上して五大湖北方にコミュニティを形成した。ここはケベック植民地の一部分であったが、彼らはフランス色濃厚な政治、経済、社会制度を好まず、イギリス本国政府は、1791年カナダ法(憲法法(けんぽうほう)ともいわれる)を制定してケベック植民地をアッパー・カナダとロワー・カナダに二分し、セント・ローレンス川の上流で王党派の多い地域をアッパー・カナダ植民地とした。ここには代表制議会、自由な土地所有制度など、イギリスの諸制度が導入された。「一八一二年戦争」(アメリカ・イギリス戦争)以後はイギリス人の移住が激増し、アッパー・カナダはイギリス系カナダ人の政治、経済、文化の中心となった。しかしイギリス国教会や総督と結んだ寡頭制(家族盟約(ファミリー・コンパクト)とよばれた)に対して1820年代から政治の民主化を求める運動が進み、1837年のマッケンジーの反乱に発展した。その結果、二つのカナダ植民地は統合され、1841年アッパー・カナダは連合カナダ植民地のなかの「カナダ西部」という行政区に改編された。
[大原祐子]
…これを一変させたのは,アメリカ独立革命による王党派(ローヤリスト)の到来であった。約5000人の〈アメリカ人〉が五大湖へ向かって北上し,現在のトロント近辺に定住して,ここに1791年アッパー・カナダ植民地が誕生した。フランス系住民の多いロワー・カナダと異なり,ここでは政治・経済制度にイギリスのそれが取り入れられた。…
…それもフランス人が定住していた地域へイギリス人が赴いたのであるから,軋轢は当然である。91年,ケベックは二分されて,ケベック法を遵守するロワー・カナダと,イギリス式の政治・経済制度を採るアッパー・カナダの二つの植民地が成立した。カナダにとって宿命的な問題,フランス系とイギリス系の対立抗争はここに決定的となった。…
※「アッパーカナダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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