マッケンジー(読み)まっけんじー(英語表記)Roderic Duncan McKenzie

デジタル大辞泉 「マッケンジー」の意味・読み・例文・類語

マッケンジー(Mackenzie)

カナダ北西部を流れる川。ロッキー山脈に源を発し、グレートスレーブ湖を経て北極海に注ぐ。全長4241キロ。狭義には、同湖から下流をいう。1789年に、英国の探検家A=マッケンジーが到達。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マッケンジー」の意味・わかりやすい解説

マッケンジー(Roderic Duncan McKenzie)
まっけんじー
Roderic Duncan McKenzie
(1885―1940)

アメリカの社会学者。シカゴ大学でR・E・パークとE・W・バージェスに教えを受け、人間生態学都市社会学の創設に寄与した。シカゴ学派の代表的人物。ミシガン大学などの教授を務めた。人間生態学を、相互作用する人間の、あるいは、相互に関係する人間の制度の空間的集団化の過程に焦点をあてるものとみ、とくに人間生態学の基本的な概念の精密化において優れた業績を残した。集中concentration、向心centralization、凝離segregation、侵入invasion、サクセッションsuccessionなどがその主要な例である。この人間生態学は都市研究に適用され、近隣、メトロポリタンコミュニティ、国際的な問題などに関する業績をあげた。なかでもメトロポリタンの研究ではパイオニアの役割を果たした。主著は『メトロポリタン・コミュニティ』(1933)など。

[高橋勇悦]


マッケンジー(William Lyon Mackenzie)
まっけんじー
William Lyon Mackenzie
(1795―1861)

イギリス領アッパー・カナダ(現オンタリオ州)の政治家。1837年の政治の民主化を求める反乱の指導者。25歳でスコットランドから移住し、4年後から『コロニアル・アドボケート』誌を発刊。これを舞台に、当時のアッパー・カナダ政界を牛耳(ぎゅうじ)る「家族盟約」を攻撃、28年に立法議会議員に選出されて政界に入った。その過激な主張で議会からの追放、再選を繰り返したが、人気ある政治家として35年には初代トロント市長となった。このころから議会を通じての政治改革に見切りをつけ、37年の蜂起(ほうき)を計画するが、あえなくつぶされ、自身はアメリカ合衆国に亡命した。49年大赦により帰国し、51年にふたたび立法議会議員に選出されたが、往年の影響力は発揮できなかった。孫に後のカナダ首相W・L・M・キングがいる。

[大原祐子]


マッケンジー(カナダ)
まっけんじー
Mackenzie

カナダ北部、ノースウェスト・テリトリーズ中西部の行政地区。1895年創設、1918年に境界を設定した。北は北極海に面し、東はキーウェーティン地区、西はユーコン・テリトリーと接し、南は北緯60度線が平原三州などとの境界となる。面積約137万平方キロメートル。住民はイヌイットインディアンが大半を占め、狩猟を営む。最大の町は、金で有名なイエローナイフである。マッケンジー川が流れる西部の中央低地帯は針葉樹林帯で木材資源に富み、グレート・ベア湖やグレート・スレーブ湖以東はローレンシア楯状地(たてじょうち)で、氷河地形が発達している。近年マッケンジー川デルタ地域における油田の開発が活発で、カナダ政府が計画的に建設した町イニュビクがある。

[山下脩二]


マッケンジー(Sir Alexander Mackenzie)
まっけんじー
Sir Alexander Mackenzie
(1764―1820)

イギリスの探検家。スコットランドに生まれ、ニューヨークを経てケベック植民地に移住。1787年北西会社に入社し、翌年アサバスカ湖畔のチプウィン砦(とりで)に駐在。そこから89年北極海周辺を探検し、マッケンジー川に名を残した。93年には白人として初めて北アメリカ大陸を陸路横断し、太平洋岸に到達。99年、北西会社を辞してイギリスへ赴き、『航海』(1801)を出版した。1802年ふたたびカナダへ戻り、ロワー・カナダ(現ケベック州)立法議会議員となったが、08年スコットランドへ移住し、そこで没した。初期カナダの探検は、彼のような北西会社の社員により精力的に行われた。

[大原祐子]


マッケンジー(Sir Compton Mackenzie)
まっけんじー
Sir Compton Mackenzie
(1883―1972)

イギリスの小説家。スコットランドに生まれる。祖父、父とも俳優だった。オックスフォード大学卒業。劇作から小説に転じ、『カーニバル』(1912)、『不吉な街』二部(1913~1914)で名声を得た。ことに後者は、当時の学生生活と青年の心理を写実的に描いたものとして世評が高かった。ほかに『恋の風』6巻(1937~1945)、『薄氷』(1956)などがあり、自叙伝『わが人生』10巻(1963~1971)も著名。また、音楽雑誌『The Gramophone』を創刊した人物としても知られる。

[山中信夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「マッケンジー」の意味・わかりやすい解説

マッケンジー
William Lyon Mackenzie
生没年:1795-1861

イギリス領北アメリカ,アッパー・カナダ植民地の政治家。スコットランドに生まれ,15歳で移住。商店経営などののち,1824年より《コロニアル・アドボケート》紙を発刊。当時のアッパー・カナダ政界を牛耳る〈家族盟約〉攻撃をはじめとして政治の民主化を訴え,急進的な改革指導者として知られるようになった。28年立法議会に当選。アメリカ型共和制の採用を主張して議会からの追放・当選を繰り返すが民衆の人気は絶大で,35年にはトロント初代市長に選ばれた。しかし同年〈苦情を申し立てる7回目の報告〉が議会で却下され,翌年の選挙でマッケンジーと改革派が敗北を喫すると,彼は平和的な手段では政治の民主化は達成できないとみて,37年12月トロント郊外で蜂起を計画した。しかし蜂起はあっけなく鎮圧され,彼自身はアメリカ合衆国へ逃亡した。49年大赦によりカナダへ戻ったが,往年の影響力は駆使できなかった。後のカナダ首相のW.L.M.キングは孫に当たる。
執筆者:


マッケンジー
Alexander Mackenzie
生没年:1764-1820

スコットランドの探検家。現在のカナダを探検,測量したことで有名。ルイス島に生まれ,10歳のとき両親とともにニューヨークに移住。伯父の手引きで毛皮取引に携わるようになり,1787年北西会社社員となってアサバスカ湖近辺に駐在するが,89年,ここから北極海まで,後に彼の名が冠せられるマッケンジー川を下降した。93年,マッケンジー川の西方への支流を遡行しロッキー山脈を越えて太平洋へ到達,陸路北アメリカ大陸を横断した最初のヨーロッパ人となった。99年,経営方針への不満から北西会社を離れイギリスへ赴くが,まもなく北アメリカへ戻り,自身の毛皮交易会社を設立。1801年に探検記を発表した。05年にはロワー・カナダ立法議会に選出されたが,08年スコットランドへ戻り,12年に結婚。急死を遂げるまでスコットランドに住んだ。
執筆者:


マッケンジー
Compton Mackenzie
生没年:1883-1972

イギリスの小説家,軍人,実業家。70冊以上の小説がある。初め劇作で出発し,ロンドンの踊子を描いた小説《謝肉祭》(1912)で一応の成功を収めたが,上流階級の私生児マイクルの幼年時代,オックスフォード生活,ロンドンでの遊蕩を生き生きと描写した2巻本《不気味な通り》(1913,14)と,彼の恋愛,結婚などを扱った続編《ガイとポーリン》(1915),《シルビア・スカーレット》(1918),《シルビアとマイクル》(1919)で非常な人気を博した。老年になっても創作力は衰えを見せず,とくに20世紀初頭の40年間における一人の男の成長を描いた4巻本《愛の四風》(1937-45)はマイクルものにまさるとも劣らない。ほか,《張り合う怪物》(1952),《薄氷》(1956)などの秀作がある。レコード雑誌《グラモフォン》の編集者としても知られる。
執筆者:


マッケンジー
Frederick Arthur Mckenzie
生没年:1869-1931

カナダの新聞記者,著述家。ケベック生れ。1904年ロンドンの《デーリー・メール》紙の特派員として朝鮮を訪れ,日露戦争の経過,日本の朝鮮支配にふれた《東京からチフリスまで》(1905)を刊行。06年再び朝鮮,中国,日本を訪れ,《ベールを脱いだ東洋》(1907)を著した。07年三たび朝鮮を訪れ義兵闘争の取材旅行を行い,日本の対朝鮮軍事支配を告発した《朝鮮の悲劇》(1908)を刊行した。三・一独立運動が起きると翌20年《朝鮮の自由のための闘い》を刊行して,日本の武断統治の実態と独立運動の姿とを伝えた。晩年はソ連・東欧方面の特派員として活躍し,31年カナダで没した。
執筆者:


マッケンジー
Alexander Mackenzie
生没年:1822-92

カナダの政治家で,自由党としては初めての首相。在職1873-78年。スコットランドに生まれ,20歳でアッパー・カナダへ移住。1861年連合カナダ植民地立法議会に選出されて政界に入る。改革党(のちの自由党)のG.ブラウンの後継者として73年,政治汚職の容疑で下野した保守党から政権を引き継ぎ,74年の選挙で勝利を得てリーダーシップを確立した。彼の率いる自由党統治は短期間であったが,有能な法相E.ブレークを得てカナダ最高裁判所を設立し,総督の権限が縮小されるなど,カナダの自治権の進展をみた。80年自由党党首も辞し,公生活からほぼ引退した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マッケンジー」の意味・わかりやすい解説

マッケンジー
Mackenzie, William Lyon

[生]1795.3.12. スコットランド,ダンディー
[没]1861.8.28. トロント
カナダのジャーナリスト,政治家,反乱指導者。 1820年カナダに移住し,商人となるが,24年から革新系の政治的主張を盛った新聞『植民地で主張する者』を刊行し,当時のアッパーカナダ植民地における寡頭政治,「家族盟約」による統治を激しく攻撃した。 28年改革派のなかでも急進的な一員としてアッパーカナダ下院に当選したが,激しい政府攻撃ゆえに5回も除名と再選を繰返した。 35年トロント市の初代市長に選ばれ,議会でも改革派が勢力を増加して,主としてマッケンジーの手に成る「不満についての委員会第7報告」を提出するにいたった。しかし政府側の反撃も鋭かった。 37年イギリス本国議会がカナダ改革派の要求を拒否したことに憤激して反乱を計画,蜂起は失敗し,彼自身はアメリカへ逃亡した。このアッパーカナダの反乱は L.パピノーの指導によるローワーカナダの同年の反乱とともに,マッケンジー自身はその樹立を望んだわけではなかったが,ダラム報告によりカナダにおける責任政府樹立の端緒となった。 49年大赦により帰国し,51年再び下院の議席を得た。 58年引退。

マッケンジー
Mackenzie, Alexander

[生]1822.1.28. スコットランド,パースシャー
[没]1892.4.17. トロント
カナダの政治家。首相 (在任 1873~78) 。 1842年カナダへ移住。 52~54年改革派系の新聞を編集して G.ブラウンと親交を結び,61年連合カナダ植民地議会に選出されて政界に入る。コンフェデレーションの実現に尽力した。 67年自治領の成立とともに連邦下院に選ばれ,73年カナダ太平洋鉄道建設にからむ収賄事件で失脚した J.マクドナルドの保守党内閣のあとをうけて初の自由党内閣が成立した際,首相に任じられた。在任中,カナダに最高裁判所を設置してイギリスへの上告を減少させ,総督の権限を制限するなど独立国家としての地歩を固めたが,自由党の奉じる自由貿易主義では不況を克服することはできず,78年マクドナルドが返り咲いた。 80年自由党党首も辞任し,政界からは遠ざかった。

マッケンジー
McKenzie, Roderick Duncan

[生]1885.2.3. カルマン
[没]1940.5.6. ミシガン,アンアーポー
アメリカの都市社会学者。都市のコミュニティー研究に人間生態学の理論を展開したシカゴ学派の1人。アメリカの都市人口の膨張が 1900年代に入って急速に顕著となり,都市の成長とともに都市の病理現象を表出させた社会的背景に対して,都市問題の実践的科学としての都市理論に人間生態学のアプローチを適用させ,都市社会学の足場を築いた。主著『メトロポリタン・コミュニティー』 The Metropolitan Community (1933) 。

マッケンジー
Mackenzie, Sir Alexander

[生]1755? ストーノウェー
[没]1820.3.11. パース
スコットランド出身の探検家。 1779年モントリオールの貿易会社に入る。ロシア人の毛皮市場を奪うため,のちに彼の名にちなんで命名されたマッケンジー川を下り,グレートスレーブ湖から北極海まで足を延ばして調査。 93年にはフォート・チピワイアンからロッキー山脈を越えて,北緯 52°の地点で太平洋にたどり着いた。これは白人としてメキシコ以北における最初のアメリカ大陸横断である。

マッケンジー
Mackenzie, (Sir Edward Montague) Compton

[生]1883.1.17. ダラム,ウェストハートルプール
[没]1972.11.30. エディンバラ
イギリスの小説家。スコットランド出身。オックスフォード大学で法律を学んだのち文学に転じた。多作家であるが代表作とされるのは『シニスター・ストリート』 Sinister Street (2巻,1913~14) で,写実的伝記小説作家としての名声を確立したもの。ほかに膨大な自叙伝がある。

マッケンジー
McKenzie, Robert Telford

[生]1917.9.11. バンクーバー
[没]1981
カナダ生れのイギリスの政治学者,社会学者。主著としては政党の構造を分析した『英国の政党』 British Political Parties: The Distribution of Power within the Conservative and Labour Parties (1955) がある。

マッケンジー
Mackenzie, William James Millar

[生]1909.4.8. エディンバラ
[没]1996.8.22.
イギリスの政治学者。マンチェスター大学,グラスゴー大学の教授を歴任。行政学や選挙を中心として多方面にわたる業績がある。主著"Free Election" (1958) ,『政治と社会学』 Politics and Social Science (67) 。

マッケンジー
Mackenzie, Sir Morell

[生]1837.7.7. エセックス,レイトンストーン
[没]1892.2.3. ロンドン
イギリスの医師。イギリス最初の咽喉疾患専門家。ロンドン大学で医学を修めたのち,パリ,ウィーン,ブダペストに留学し,喉頭鏡の操作を修得してロンドンで開業。 1887年5月ドイツの皇太子フレデリックの侍医をつとめた。

マッケンジー
Mackenzie, Henry

[生]1745.8.26. エディンバラ
[没]1831.1.14. エディンバラ
イギリスの小説家。スコットランド出身。『感情の人』 The Man of Feeling (1771) は繊細な感情の持主に起るさまざまな体験を描き,18世紀後半のセンチメンタリズム文学の代表作の一つとなっている。

マッケンジー

「リンデン」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディア 「マッケンジー」の意味・わかりやすい解説

マッケンジー[川]【マッケンジー】

カナダ北西部の大河。グレート・スレーブ湖に発し,北西流して北極海の支海ボーフォート海に注ぐ。広義にはグレート・スレーブ湖から上流のスレーブ川,アサバスカ湖,アサバスカ川,ピース川なども加え全長4241km。流域面積は180万5000km2にもなる。6〜10月航行可能。沿岸は森林資源,地下資源が多い。
→関連項目マッケンジー

マッケンジー

英国のカナダ探検家,毛皮商。1789年に3隻のカヌーで102日にのぼる探検を行いマッケンジー川に到達。次いで1793年には,白人として初めて北アメリカを横断し,太平洋岸に達した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「マッケンジー」の解説

マッケンジー Mckenzie, Fredrick Arthur

1869-1931 カナダの新聞記者。
ロンドンの「デーリー-メール」紙の特派員となり,1904年から朝鮮・日本を取材。日本の朝鮮支配を告発した「朝鮮の悲劇」や「朝鮮の自由のための闘い」などをあらわした。享年62歳。ケベック出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「マッケンジー」の解説

マッケンジー

生年月日:1885年2月3日
アメリカの都市社会学者
1940年没

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世界大百科事典(旧版)内のマッケンジーの言及

【ガイアナ】より

…精糖会社ブーカー社による寡占が進み,さらに工業,海運,保険などをも掌握するにいたった。この伝統的な砂糖産業に加えて,デメララ川沿いのマッケンジーでボーキサイトが採掘され,世界有数の産出量を誇り,アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国に輸出されている。
[歴史]
 1834年の奴隷廃止後の労働力の担い手として1917年までに約25万人のインド人移民が同国に導入され,減退しかかった砂糖生産を回復させた。…

【ノースウェスト・テリトリーズ】より

…州都イェローナイフ。カナダ全土の3分の1余りを占め,三つの行政区,マッケンジーMackenzie,キーウェーティンKeewatin,フランクリンFranklinに分かれる。面積337万9683km2,人口6万5800(1995)。…

【オンタリオ[州]】より

…19世紀前半のアッパー・カナダは運河建設など交通網の改良に伴う経済成長の結果,政治的にも成熟をみせた。英国国教会と結託して政界を牛耳る〈家族盟約〉に抵抗して,政治の民主化運動を推進したW.L.マッケンジーは37年に蜂起を計画したが,彼の過激主義は保守的な風土に受け入れられず失敗した。しかしこの反乱の結果を視察したダラム卿は民主化を勧告し,41年アッパー,ロワー両カナダの統合が連合カナダ植民地として実現し,48年ここに責任政府が樹立されて大幅な自治を獲得した。…

【カナダ】より

…減速経済の下,世界各国はむしろ雇用の拡大のために厳しい外国企業の争奪戦の段階に入っていたのである。
[北米市場統合への動き]
 加米経済関係の緊密化は,両大戦間期のアメリカ企業の対カナダ直接投資により深まりつつあったが,マッケンジー・キング自由党政権下で1935年に締結された加米互恵条約によっていっそう強化された。第2次世界大戦以後,59年の防衛生産分担協定を通してさらに強化された。…

※「マッケンジー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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