コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

アムルサナ Amursana

2件 の用語解説(アムルサナの意味・用語解説を検索)

世界大百科事典 第2版の解説

アムルサナ【Amursana】

1722‐57
ジュンガル王国の領侯で,モンゴリアにおける反清独立闘争の闘士。ジュンガル王国の王ダワチの即位(1753)後,これと不和をきたして敗れ,清に偽って下って乾隆帝に援助を求めた。このため清軍はアムルサナと協力して1755年(乾隆20)ジュンガル王国を滅ぼしたが,アムルサナは王国の支配権の継承を許されなかったので清に対して反乱を起こし,57年敗れてロシアへ逃れて病死した。この結果,清朝のジュンガル支配が確立した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アムルサナ
あむるさな
Amursana
(?―1757)

オイラート人、ホイト部長。ジュンガル王国末期の1750年、ガルダン・ツェリンの子ラマ・ダルジャがハンとなった際、チョロス部のダワチらとともに同じガルダン・ツェリンの幼子ツェワン・ダシをたてて争った。しかし失敗し、西方のカザフスタンへ逃れた。1752年末ジュンガリアに戻り、ふたたびラマ・ダルジャと争い、これを倒すとダワチをハンに擁立し、自らはその補佐についた。しかし1754年、ダワチと不和となり、争って敗れると清(しん)朝に降(くだ)った。同年11月、熱河(ねっか)において乾隆(けんりゅう)帝に謁見し、親王の爵を得た。1755年2月、清朝のジュンガル遠征が開始されると、北路の副将軍に任じられた。同年5月ジュンガル王国が滅亡すると、乾隆帝はジュンガル王国を四分し、アムルサナをホイト部長に任じた。しかし彼はジュンガル全体のハンになることを望み、同年秋に反乱を起こした。清朝から追討軍が派遣されるとカザフスタンに逃れ、さらに1756年末ロシア領に逃れた。その後ロシアとの接触を図ったが、1757年7月末セミパラチンスク(現セメイ)付近で天然痘にかかり、同年9月なかばトボリスクで死去した。アムルサナの行動に対する評価は二分され、旧ソ連、モンゴルでは、清朝からの独立を目ざしたモンゴルの英雄として、また中国では祖国の分裂を謀った人物としての評価を得ている。[森川哲雄]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内のアムルサナの言及

【乾隆帝】より

… つとに清朝に帰属していたチベットにおいて,ジュンガルと内通した反乱が起きてからは,王をたてずダライ・ラマに総攬させ,清朝派遣の駐蔵大臣の監督権を強め,ジュンガルとの交通を厳禁してチベット支配を完全なものにした。ジュンガルとはアルタイ山脈を境界とするということで和議が成立していたが,45年(乾隆10),ガルダン・ツェリンの死とともに内紛が生じ,有力者アムルサナが清朝に投降してきた。これを好機に,乾隆帝は消極策をおしきり,55年,ジュンガルに出兵し,イリ(伊犂)を平定した。…

※「アムルサナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

アムルサナの関連キーワードカンチェンジュンガジュンガル準部トンガ醇雅ジュンガル盆地ガルダンズンガリアズンガルジュンガルハン

今日のキーワード

信長協奏曲(コンツェルト)

石井あゆみによる漫画作品。戦国時代にタイムスリップした現代の高校生が病弱な織田信長の身代わりとして生きていく姿を描く。『ゲッサン』2009年第1号から連載開始。小学館ゲッサン少年サンデーコミックス既刊...

続きを読む

コトバンク for iPhone