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アラクチェーエフ Arakcheev, Aleksei Andreevich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アラクチェーエフ
Arakcheev, Aleksei Andreevich

[生]1769.10.4. ノブゴロド
[没]1834.5.3. グルジノ
ロシアの軍人,政治家。陸軍砲兵将校を経て,1796年ペテルブルグ軍司令官に累進し,皇帝パーベル1世のもとで軍制改革を行なったが,その過酷さのゆえに部下の離反を招き,2度も職を奪われた。 1803年皇帝アレクサンドル1世に呼戻され,08年陸相,10年国家評議会軍事部議長に任命された。ナポレオンの侵略に対する「祖国戦争」での勝利ののち,「農奴制の危機」に直面して反動に転じたアレクサンドル1世の治世の後半,狂信的な君主制擁護者として国政の全権を掌握,軍事機構を全行政部門に拡大する「アラクチェーエフ体制」を確立した。専制の過酷さと粗野な軍人気質を示す言葉として同時代人に憎悪された「アラクチェーエフシチナ」のなかで,特に有名なものは,16年から採用された屯田兵制度である。これは農民と兵士に新たな負担を課すことにほかならず,各地で屯田兵の反乱が続発した。このような情勢のなかで初めはアレクサンドル1世の改革に期待をよせた知識人も幻滅を感じて次第に急進化し,デカブリストの反乱を促すことになった。 25年ニコライ1世の即位とともに政府の要職から離れたが,彼の確立した警察・軍事機構は専制のなかにしっかりと根をおろした。

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世界大百科事典 第2版の解説

アラクチェーエフ【Aleksei Andreevich Arakcheev】

1769‐1834
ロシアの軍人,政治家。性格は冷淡で暗かったが,非常な努力家。優れた砲兵士官として頭角を現し,アレクサンドル1世に重用されて軍事行政に敏腕を振るった。1808年,陸軍大臣。〈対フランス戦争はすべて予の采配になった〉と豪語したが,戦略上の彼の影響力は大きくはなかった。ナポレオン戦争後の国家財政再建のため,アレクサンドル1世は自給自足のばら色の屯田制を着想し,この立案を彼に託した。16年から実施され,最高時には40万人の兵士と家族とを擁し,全陸軍の3分の1を包含したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アラクチェーエフ
あらくちぇーえふ
Алексей Андреевич Аракчеев Aleksey Andreevich Arakcheev
(1769―1834)

ロシアの軍人、政治家、伯爵。パーベル1世とアレクサンドル1世に仕え、とくに後者の治世の後半には権力を一手に掌握、警察と軍隊を使って厳しい弾圧政治を行った。これは世に「アラクチェーフシチナ」(アラクチェーエフ体制)とよばれた。1816年以降、屯田制度を実施し、民衆の反感を買った。[外川継男]

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367日誕生日大事典の解説

アラクチェーエフ

生年月日:1769年9月23日
ロシアの軍人,政治家
1834年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

世界大百科事典内のアラクチェーエフの言及

【ロシア帝国】より

…18世紀には兵役は事実上終身徒刑と同じで,その後25年になったが,兵士の待遇は極端に悪く,病気や体罰による損耗率も非常に高かった。またナポレオン戦争後アラクチェーエフ体制下の屯田兵制が国民の怨嗟(えんさ)の的になった。兵士あがりの下士官・将校の教養は低く,貴族出身の将校は兵士を農奴扱いした。…

※「アラクチェーエフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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