日本大百科全書(ニッポニカ) 「屯田制」の意味・わかりやすい解説
屯田制
とんでんせい
中国で国有地に農民を導入して耕作させる制度。耕作者が兵士の場合を軍屯、一般民の場合を民屯という。前漢に始まり、清(しん)末まで存続した。前漢の武帝(在位前141~前87)が西北辺境に設けた軍屯が最初で、後漢(ごかん)の初めには内郡にも軍屯が置かれた。三国魏(ぎ)の曹操(そうそう)(155―220)は、財政確保を目的として各地に民屯を置き、郡県官とは別の典農(てんのう)官に管理させた。官牛を用いる者は収穫の6割、私牛の場合は5割を徴収し、魏の財政は屯田からの収入で賄われた。また呉(ご)や蜀(しょく)との国境地域には軍屯を設置し、呉や蜀にも軍屯があった。しかし魏末と晋(しん)初に典農官が廃止され、屯田民の租税負担も州郡民と同じになった。
その後、東晋時代に五胡(ごこ)の侵入に備えて軍屯が復活し、唐代(618~907)には辺境に軍屯、内地に民屯が置かれ官が直接経営した。とくに唐末には官や藩鎮(はんちん)が民を雇用して経営する方式が現れた。北宋(ほくそう)、南宋にも屯田があり、とくに金では女真(じょしん)、契丹(きったん)族を河北、河南地方に移住させ、漢族の民田を没収して屯田を与えた。しかし漢族を小作人として耕作させることが多かった。元も同様で、各衛、各行省に大規模な屯田を設置して軍糧にあてたが、兵士はしだいに耕作から離れて地主化した。明(みん)(1368~1644)では内地はもちろん北辺に至るまで軍屯を設け、のちには軍屯のなかで守備兵と耕作者とが分化した。軍屯のほかに民屯があり、また塩商による商屯もあった。清では屯田は存在はしたが、しだいに民田化した。
[五井直弘]