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アングル Ingres, Jean Auguste Dominique

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アングル
Ingres, Jean Auguste Dominique

[生]1780.8.29. モントーバン
[没]1867.1.14. パリ
フランスの画家。 1791年ツールーズの美術学校に入学,97年パリに出て J.ダビッドに学ぶ。 1801年『アガメムノンの使者たち』でローマ大賞を得たが,実際のローマ滞在は 06年からで,その間パリですでにリビエール夫妻とその娘たちの肖像など,すぐれた肖像画を描いた。 27年サロン出品の『ホメロス礼賛』 (ルーブル美術館) で有名となり,古典派の指導者と目されたが,その作風はロマン派的要素,あるいは抽象的要素をも含むと考えられる。 35~41年ローマのフランス・アカデミーの館長。『奴隷のいるオダリスク』 (フォッグ美術館) はこの時期の作品。 41年帰国,『モアテシエ夫人』その他数多くの肖像画を制作。晩年の名作として『トルコ風呂』 (59~63,ルーブル美術館) がある。

アングル

山形鋼」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディアの解説

アングル

ゲルマン人の一つ。北欧に原住地をもつ。5―6世紀にブリテン島に渡来し,今日の英国人の祖先の一つとなった。長身,空色の目,細く高い鼻など北方白人種としての特徴を備えている。

アングル

フランス新古典主義の画家。モントーバン生れ。1796年ダビッドの門に入り,のち2度にわたってローマに滞在,ラファエロや古代ギリシア・ローマ芸術の影響を受けた。非凡なデッサン力と明快で安定した形体感覚,それに柔らかな明暗描写を特徴とし,おもに歴史画,神話画,肖像画を制作。
→関連項目オダリスクオリエンタリズムオルセー美術館クールベ古典主義シャセリオードガ前田寛治ルノアールロマン主義

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世界大百科事典 第2版の解説

アングル【Jean Auguste Dominique Ingres】

1780‐1867
フランス新古典主義の画家。モントーバンに,地方画家の息子として生まれる。トゥールーズの王立アカデミーで絵を学び,17歳のときパリに出,当時全盛であったダビッドのアトリエにはいる。ここで古代と古典主義の美術を勉強し,21歳の若さでローマ大賞を獲得(1801)。政情不安の折から,ローマには遅れて1806年に赴き,ラファエロやシスティーナ礼拝堂,ローマ時代の遺跡などに心ひかれ,作品にもその体験をいかす。ローマ賞の給費が切れたあともローマに残り,ここで14年,フィレンツェに4年と,長期のイタリア滞在となった。

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大辞林 第三版の解説

アングル【angle】

角度。
〔カメラ-アングルの略〕 撮影するときのカメラの角度。
物の見方。観点。
かど。すみ。

アングル【Jean Auguste Dominique Ingres】

1780~1867) フランスの画家。一九世紀古典主義の指導者。的確な描写で典雅な歴史画・肖像画を描き、特に「オダリスク」「泉」など裸婦画に多くの名作を残した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アングル
あんぐる
Jean Auguste Dominique Ingres
(1780―1867)

フランスの画家。8月29日モントーバンに生まれる。トゥールーズの王立アカデミーに学んだあと1797年パリに出てダビッドの門に入る。1801年『アガメムノンの使者』でローマ賞を得たが、当時の政治的・経済的状況のためローマへの出発は5年後となった。フィレンツェを経由し、ローマのビラ・メディチに滞在したローマ時代(1806~1820)に、バチカンの「ラファエッロの間」やシスティナ礼拝堂に深い感銘を受けるとともに、古代貨幣や古代彫刻にも興味をもち、多くの優れた肖像画のほか、後の何点もの浴女の作品の発端となった『バルパンソンの浴女』(1808・ルーブル美術館)が描かれた。1810年、給費滞在の期間終了後もローマにとどまり、注文肖像画によって生計をたてながら、彼のロマン派的な詩想を象徴する『オシアンの夢』(1813・モントーバン美術館)のほか、1814年には『スノンヌ夫人』(ナント美術館)、『グランド・オダリスク』(ルーブル)などを描いた。1820~1824年のフィレンツェ滞在中、フランス政府の注文によって『ルイ13世の誓い』(モントーバン大聖堂)を描き、この大作を携えて1824年パリに戻り、ドラクロワの『キオス島の虐殺』の出品された同じサロンに展示、ダビッド亡きあとのロマン派に対抗する、伝統と古典主義の象徴として公的な活動に従事することとなった。1827年のサロンでも、彼の『ホメロス礼賛』(ルーブル)はドラクロワの『サルダナパロス王の死』に対抗したが、一方では市民階級の新しい個性を的確に描いた『ベルタン氏』(1832・ルーブル)のような作品をも描いている。1834年のサロン出品作の不評に失望したアングルは、翌1835年ローマのフランス・アカデミーの館長として再度イタリアに赴く。6年後の1841年にパリに戻るが、もはや名実ともに巨匠として、またアカデミズム、古典主義の規範の擁護者としてであった。『泉』(1856)、『トルコ風呂(ぶろ)』(1863・ともにルーブル)などを晩年の代表作として残し、1867年1月14日パリで没した。
 彼の作品の主題は、古典、アルカイズム、オリエント、ロマン主義などきわめて多岐にわたる。これらの主題の描写では、考古学的、歴史的な資料の収集や複製の制作などを行い厳密な写実性を追求する一方で、曲線の体系を主とする様式化、歪曲(わいきょく)によって構図を整える。正確な動きを執拗(しつよう)に追求しながら、不動性へと結晶させるのである。どちらかといえばドラクロワを好んだボードレールがアングルを評価したのも、この「奇異なもの」によってである。このアングルの多様性や構図は、セザンヌたちによっても、またキュビスムやシュルレアリスムによっても受け継がれた。現在、生地モントーバンには、彼の油彩および4000点以上もの素描やその他の資料を収集したアングル美術館がある。[ダニエル・テルノア・中山公男]
『ロバート・ローゼンブラム著、中山公男訳『アングル』(1970・美術出版社) ▽中山公男編『リッツォーリ版世界美術全集 11 アングル』(1975・集英社)』

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世界大百科事典内のアングルの言及

【オリエンタリズム】より

…音楽では,モーツァルトの《後宮よりの誘拐》(1782)のトルコ趣味が早い例で,後にはベルディの《アイーダ》(1871初演)のような,エジプト風俗に関してかなり歴史的考証を経たものも見られる。美術の分野では,ロマン主義の代表者ドラクロアの《アルジェの女たち》(1834),《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》(1826)などが東方への熱い思いを伝えるが,アングルのような新古典主義の画家による《グランド・オダリスク》(1814)など,ロマン主義に限らず幅広い層の関心をあつめた。後の世代のシャセリオー,フロマンタン,ジェロームなどへと,時代が下ってゆくにつれ,単なるエロティシズムや浅薄な好奇心を満たすだけに終わり,しだいに新鮮さと力を失っていった。…

【新古典主義】より

…ローマ滞在中の《ホラティウス兄弟の誓い》で名声を確立したダビッドは,革命期(《マラの死》《サビニの女たち》等),帝政期(《ナポレオンの戴冠式》)を通じて活躍し,多くの弟子たちを育てあげた。その弟子のなかでは,ジロデ・トリオゾン,ジェラール,そしてとくにアングルが重要である。アングルは,ロマン派的情熱の持主であったにもかかわらず,その卓越したデッサン,平面化された構成,緻密な写実性と理想的世界の追究(《ホメロス礼讃》《泉》等)により,ダビッドの後継者として,19世紀後半まで新古典主義の中心であった。…

【フランス美術】より

…そこには当然,さまざまの歴史的,社会的理由があるが,いずれにしても19世紀以来,パリは国際的な美術の動きの中心となったのである。 そのようなさまざまの異なった価値観の対立と共存は,まずサロンを舞台として,新古典派のアングルとロマン派のドラクロアの対立から始まった。アングルは,資質としてはきわめてロマン派的なものももっており,その様式にはその後の近代絵画の展開に結びつく清新な要素もあったが,社会的には新古典派の代表としての役割を引き受けなければならなかったのである。…

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