近世ヨーロッパにおける文学・芸術上の一風潮で、東方趣味の意。この呼称に含まれる「オリエント」の概念は、考古学や歴史学上のオリエントほど厳密なものではなく、極東やアフリカ北部までも含み、ヨーロッパからみた東方世界全体をさす。ナポレオンのエジプト遠征、アルジェリアのフランスへの併合などによって、オリエントはあこがれの対象を超えて、身近な興味と関心の対象となり、とりわけフランス人とイギリス人はオリエントと深い接触をもつようになり、その結果オリエンタリズムとよばれる作品や研究が18世紀から19世紀にかけて多数生み出された。
[高見堅志郎・久米 博]
文学では、18世紀のモンテスキューの『ペルシア人の手紙』やボルテールの『マホメット』などは啓蒙(けいもう)思想的観点から東西の文明比較を行い、19世紀にはユゴー、シャトーブリアン、ラマルチーヌ、フロベールらが東方に題材をとり、ロマン主義の一要素である異国趣味(エキゾチシズム)あふれる作品を発表した。
フランス美術界では、ジュール・ロベール・オーギュストJules Robert Auguste(1789―1850)は初めてオリエントを題材にした画家の一人であり、またオリエントの装飾品のコレクターでもあった。しかし事実上オリエンタリズムを導いたのは、1832年にモロッコやアルジェリアを旅行して『アルジェの女たち』などの傑作を残したドラクロワである。ドラクロワののち、ドゥカンAlexandre Decamps(1803―60)、フロマンタンEugène Samuel Auguste Fromentin(1820―76)らが東方主題を好んでとりあげた。これらの画家は狭義のオリエンタリストとよばれる。その多くは異国情緒に興味を示したものであるが、輝かしい色彩の発見など、美術史に貢献した要素も見逃せない。オリエントへの関心はこれらロマン派の画家たちばかりでなく、アングル、シャルダン、シャッセリオ、ジェロームJean Léon Gérôme(1824―1904)ら、新古典主義者たちにも共通してあった。なかでもアングルの『グランド・オダリスク』や『トルコ風呂』が有名である。
オリエントを極東にまで拡大すれば、シノワズリーchinoiserieやジャポニスムjaponismeも広義のオリエンタリズムに含まれよう。シノワズリーは中国風、中国趣味の意味で、大航海時代以降、中国の文物がヨーロッパにもたらされ、それに影響されて17世紀後半から18世紀後半にかけて中国風の家具、陶磁器、織物、版画、庭園がヨーロッパに登場した。ジャポニスムは日本風、日本趣味の意味で、19世紀後半フランスでゴンクール兄弟の紹介で始まった日本美術への趣味をさす。とくに浮世絵は広く収集・愛好されて印象派の絵にも影響を与えた。ジャポネズリーともよばれる。
[高見堅志郎・久米 博]
オリエンタリズムという語は、エドワード・サイードが1978年に発表した著書『オリエンタリズム』の影響によって、従来の東方趣味、東方研究という以外の語義を帯びるようになった。彼はこの著書で、そもそもオリエントやオリエンタリズムとは西洋人が一方的につくり上げた概念であるとして、その概念自体を批判した。
18世紀以来西洋人は東方世界に旺盛(おうせい)な興味を抱き、軍事的、商業的、芸術的、学術的とさまざまな目的でオリエントと交渉をもち、その結果膨大な文献が生み出された。サイードによれば、1800年から1950年までにヨーロッパで近東を扱った書物は6万冊に上り、体系的なオリエント学が成立したのである。それらの全体をサイードは、ミシェル・フーコーにならってディスクール(言説)としてとらえる。サイードはこの言説としてのオリエントを綿密に検討し、分析して、「オリエンタリズムは西洋の東洋に対する文化的支配の様式であり、したがってそれはヨーロッパ人の自民族中心主義(エスノセントリズム)の所産にほかならない」ということを、つぶさに、執拗(しつよう)に論証するのである。
ここでいうオリエントとは、主として中近東、北アフリカのイスラム的オリエントをさす。イスラム世界はキリスト教世界に近接し、ヨーロッパ人にとってたえず地理的、文化的に不安をかきたてる存在であった。イスラム世界は8世紀から16世紀までは、ヨーロッパ世界に対し、政治的、文化的に優位に立っていた。ルネサンス(文芸復興)を準備した人文主義(ユマニスム)もイスラム世界を経由してギリシア、ローマ文化がヨーロッパ世界に摂取されたものであった。やがてそれが逆転し、19世紀から第二次世界大戦まではイギリス、フランスがオリエントとオリエンタリズムを支配し、大戦後はアメリカがそれを引き継いだ。オリエンタリズムにはこうしたヨーロッパのオリエントに対する優越関係が色濃く反映している。ヨーロッパ人は自分たちに対する「他者」として、二項対立をなすようにオリエント像をつくり上げる。すなわちヨーロッパと比較してオリエントはつねに、後進的、受動的、停滞的、非合理的、官能的、等々なのである。そしてヨーロッパ人は、失われた過去の古典的なオリエントの偉大さを回復してやるのが西洋の使命であると自負するようになり、それは欧米の植民地主義の根拠の一つとなった。
そうした言説の典型的な例として、サイードはオリエンタリズムの創始者シルベストル・ドゥ・サシAntoine-Isaac Silvestre de Sacy(1758―1838)とその継承者エルネスト・ルナンをあげる。18世紀末にヨーロッパ人はサンスクリット語を発見し、それがヘブライ語よりも古く、インド・ヨーロッパ語族に属することがわかると、ヘブライ語やアラビア語などの「セム語」とインド・ヨーロッパ語との関係は逆転する。セム語学者のルナンは、セム語をインド・ヨーロッパ語と比べて、倫理的にも生物学的にも堕落した形態であると断定する。ルナンはセム語をさらに一般化して、「セム族」という類型をつくりだし、それをアーリアンと比較して「人間性の劣悪な配合」とみなすのである。しかしこうした「セム語」「セム族」といった概念は、サシやルナンによる文献学の実験室での創造物にほかならない、とサイードは強調する。
サイードのこの著書は、発表直後から賛否両論を巻き起こした。それはまたオリエンタリズムに限らず、異文化理解の困難さを示している。異文化を理解しようとしても、それは結局自分の言語や文化の枠組みでそれを「表象」することに帰するからである。サイードのこの著書のもたらした影響の一つは、オリエントの芸術を西洋的偏見なしに、それ自体として発見し、評価しようとする動きが現れたことである。
[久米 博]
『E・W・サイード著、四方田犬彦訳『パレスチナへ帰る』(1999・作品社)』▽『E・W・サイード著、大橋洋一訳『文化と帝国主義1』(1988・みすず書房)』▽『E・W・サイード著、大橋洋一訳『知識人とは何か』(1988・平凡社)』▽『E・W・サイード著、山形和美訳『世界・テキスト・批評家』(1988・法政大学出版局)』▽『E・W・サイード著、今沢紀子訳『オリエンタリズム 上下』(1993・平凡社)』▽『板垣雄三著『歴史の現在と地域学 現代中東への視角』(1992・岩波書店)』▽『P・A・コーエン著、佐藤慎一訳『知の帝国主義 オリエンタリズムと中国像』(1988・平凡社)』▽『今福龍太著『クレオール主義 The Hetherology of Culture』(1991・青土社)』▽『稲賀繁美著『講座二十世紀の芸術1 十九世紀フランス絵画とその外部 オリエンタリズムをめぐって』(1989・岩波書店)』▽『彌永信美著『歴史という牢獄 ものたちの空間へ 「問題としてのオリエンタリズム」』(1988・青土社)』▽『西川長夫著『国境の越え方 比較文化論序説』(1992・筑摩書房)』
ヨーロッパ人のオリエント(中近東,北アフリカ,ときにアジア全域をも含む)の風俗や事物に対する趣味と好奇心をいう。その萌芽的現象としては16世紀のベネチアのような,東方世界との接触の機会の多い場所で例がみられるが,おもに18世紀にはじまり19世紀の前半に全盛期を迎える。このことは,この現象が,文明の接触というよりむしろヨーロッパ文明自身が内包する問題--キリスト教への不信や物質文明による人間疎外など--に起因していると言えよう。しかし現実には,目新しいものへの単なる好奇心のような皮相なものまで,原因は多岐にわたり,その結果も,時には自らの文明に対する深い批判精神や豊かな創造の源を生み出すことから,物珍しいものの表現や他民族への蔑視に終始するものまであるが,全般的には趣味的現象にとどまった。それは,18世紀宮廷文化における新奇なものへの憧れやナポレオンのエジプト遠征(1798-99)に際して見られたような異文明の遺産の略奪という形態が,オリエント文化の本質的理解の妨げになっているのかもしれない。文学においては,ガランによる《千夜一夜物語》の翻訳(1704-17),モンテスキューの《ペルシア人の手紙》(1721),ボルテールの《マホメット》(1741)などがその早い例で,啓蒙主義的文明批評のにおいが強かったが,しだいにエキゾティシズムに傾いてゆく。ユゴーの《東方詩集Orientales》(1829),ラマルティーヌの《東方紀行》(1835)などがロマン主義文学者による代表例である。音楽では,モーツァルトの《後宮からの誘拐》(1782)のトルコ趣味が早い例で,後にはベルディの《アイーダ》(1871初演)のような,エジプト風俗に関してかなり歴史的考証を経たものも見られる。美術の分野では,ロマン主義の代表者ドラクロアの《アルジェの女たち》(1834),《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》(1826)などが東方への熱い思いを伝えるが,アングルのような新古典主義の画家による《グランド・オダリスク》(1814)など,ロマン主義に限らず幅広い層の関心をあつめた。後の世代のシャセリオー,フロマンタン,ジェロームなどへと,時代が下ってゆくにつれ,単なるエロティシズムや浅薄な好奇心を満たすだけに終わり,しだいに新鮮さと力を失っていった。
→エキゾティシズム
執筆者:馬渕 明子
元来 〈オリエンタリズム〉とは,上述のような近代ヨーロッパの文学・芸術に見られる東洋趣味,ないしは欧米の東洋学・東洋研究を意味するやや古風で中性的な用語であった。しかし1978年,アメリカの批評家・比較文学者エドワード・サイードE.W.Said(1935-2003)がその著《オリエンタリズム》のなかで,この言葉を〈ヨーロッパのオリエントに対する思考と支配の様式〉として批判的に位置づけ,世界的に大きな反響を巻き起こして以来,サイードの立場や方法に対する賛否を超えて,この新しい〈サイード的定義〉が一般に広く用いられるようになった。
執筆者:編集部
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エドワード・サイードが1978年に発表した同名自著のなかで批判した言説と文化的覇権の総体。元来は東洋趣味や東洋学を意味したが,このとき以後「ヨーロッパのオリエントに対する思考および支配の様式」というサイード流の定義が一般に広まった。それによれば,ヨーロッパはオリエント(アラブ・イスラーム世界)を他者とみなし,みずからをこれと対照的な存在と信じることで,自身の力とアイデンティティを獲得してきたという。その過程でオリエントには受動性,非合理性,幼児性,停滞,不誠実などの負の性格が例外なく賦与された。特にヨーロッパが強大化した18世紀末以降は,西洋がその力を背景に東洋を表象し,それを東洋に強制する形での文化的な支配が帝国主義支配の支柱となり,大学をはじめとする諸制度はこれに奉仕してきたのである。サイードによるこのような批判は,他者をいかに表象すべきかという問題を正面から提起したものとして,人文社会科学の多様な分野に大きな刺激を与えている。
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…メリルJames Merrillの長詩《サンドーバーの変化する光》(1982)は詩における最近の最大の収穫であり,ブルームHarold Bloomの《アゴーン》(1982)は文学批評における成果の一つであるが,いずれも神秘思想の色が濃い点を特色とする。アラブ系の批評家サイードEdward W.Saidの《オリエンタリズム》(1978)も,西欧的テキストの中にのみ存在する〈オリエント〉を西欧がいかにして形成し,それに基づいて,いかに支配の姿勢を維持してきたかを解明した,優れた文明批評の書である。【志村 正雄】
[日本におけるアメリカ文学]
アメリカ文学は文明開化時代の日本に,まずその開化の精神のモデルを表現したものとして入ってきた。…
… エキゾティシズムはこのように人間の心性に根ざしたものであるため,古代から折にふれて発生した形跡があり,それが伝承や美術工芸などにうかがわれるが,同時にそうした異国への情緒的関心が,単なる趣味にとどまらずにその時代の美意識に新たな展開をもたらした例も多い。西欧近代においては,17,18世紀にトルコとの接触によって始まった東洋趣味(オリエンタリズム)が,やがて19世紀における絵画や文学の異国趣味をもたらし,強烈な光線と色彩,率直な人情風俗へのあこがれなどがロマン主義的美学の端的なあらわれとなった。サン・ピエールやシャトーブリアンの文学,ドラクロアの絵画などにはこうした傾向がうかがわれ,ゴーギャンにいたってはタヒチの風土に人間の生命観の根源を求めた。…
…第2次大戦後に,それがソ連・東欧研究,中国研究などの異なる政治イデオロギー圏の研究,ならびに日本,東南アジア,アフリカ,ラテン・アメリカ研究などの〈現代〉地域研究として定着した。 他方で,それに,古典学の方法と伝統(言語哲学と文献学)の延長線上に開花してきた東洋学と東洋美術・文化研究(オリエンタリズム)がはぐくんだ非西欧文化世界の現代思想・文学,政治・宗教運動への関心と並行して,〈社会科学と東洋学の結婚〉を模索してきた傾向が合流する。イギリスのイスラム研究者H.A.R.ギブがその中心的人物であったが,そのとき研究対象は〈大〉文化圏であったし,社会科学の視座と方法は汎大西洋圏の経験を普遍化した〈一国世界論〉の論理を体系化したものであったので,地域研究を志向する側からの不満は早晩明確になるはずであった。…
…東洋学とは東洋を対象とする研究のことで,英語のOrientalism(オリエンタリズム)またはOriental Study(オリエント学)の訳語に当たる言葉であり,東方学とよぶこともある。実際の用例としては,単に東洋の事物万般に関する研究をさすのではなく,東洋の言語,文学,歴史,宗教,哲学,学術,美術,音楽など,狭義の文化を研究する学問を意味し,文献学的ないしは歴史学的な手法で研究されることが多い。…
…32年にはモルネー伯爵の外交使節団に加わってモロッコを訪問する。この旅でイスラム文化圏のエキゾティックな風俗と強い光の下の鮮やかな色彩に強い感銘を受け,帰国後の作品はロマン主義の一支流をなすオリエンタリズムの形成に大きな役割を果たすことになる。その中でも代表的なものは,《アルジェの女たち》(1834),《モロッコのユダヤの結婚式》(1841)など。…
…ダビッドの弟子であったジロデ・トリオゾンの《大洪水》や,ドイツのフリードリヒの《希望号の難破》なども,同様の自然の恐ろしさを主題としたものである。また,ホメロスやオウィディウスなどのギリシア・ローマの文学的遺産に対して,北方の民族的伝説を歌い上げた《オシアン》は,アングル,ジロデ・トリオゾン,ジェラールなどに霊感を与え,ナポレオンのエジプト遠征(1798‐99)によって強められたオリエンタリズムは,グロの《ジャファのペスト患者を訪れるナポレオン》やアングルの《オダリスク》などの華やかな異国趣味の世界を生み出した。 しかしながら,これらの画家たちは,主題の扱い方においては新しいロマン主義的傾向を強く見せているが,表現様式においては,なお多くの点で,古典主義の伝統を受け継いだ新古典主義の枠内にあった。…
※「オリエンタリズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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