デジタル大辞泉
「前田寛治」の意味・読み・例文・類語
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まえた‐かんじ【前田寛治】
- 洋画家。鳥取県出身。東京美術学校卒業後渡仏。独自の写実主義をめざしたが、作風はしだいに主観表現に傾いた。代表作「海」「裸体」「二人の労働者」。明治二九~昭和五年(一八九六‐一九三〇)
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前田 寛治
マエダ カンジ
大正・昭和期の洋画家
- 生年
- 明治29(1896)年10月1日
- 没年
- 昭和5(1930)年4月16日
- 出生地
- 鳥取県東伯郡中北条村国坂(現・北条町)
- 学歴〔年〕
- 東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科〔大正10年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 帝展特選(第6回)〔大正14年〕「J・C嬢の像」,帝展特選(第8回)〔昭和2年〕「横臥裸婦」,帝国美術院賞〔昭和4年〕「海」
- 経歴
- 大正4年上京、白馬会葵橋洋画研究所に学ぶ。5年東京美校に入学、藤島武二らに師事。また内村鑑三に傾倒。10年第8回二科展に「花による子供」、第3回帝展に「花と子供等」を出品、それぞれ初入選。11〜14年渡仏し、エコール・ド・パリの自由な雰囲気にふれ、またアングル、セザンヌ、クールベらの影響を受け、写実主義絵画を研究。帰国後「J・C嬢の像」を第6回帝展に出品し特選。15年“1930年協会”の設立に参加。また前田写実研究部(のち前田写実研究所)を主宰して写実主義の理論を展開、フォービスム的筆致の作品を発表した。昭和4年「海」で帝国美術院賞受賞。他の代表作に「裸婦」「棟梁の家族」など。著書に「前田寛治画論」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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前田寛治
まえたかんじ
(1896―1930)
洋画家。明治29年10月1日鳥取県に生まれる。倉吉中学校を卒業後、上京して葵橋(あおいばし)洋画研究所に入り、黒田清輝(せいき)の指導を受ける。1921年(大正10)東京美術学校西洋画科を卒業、帝展に出品し、翌年フランスへ留学した。クールベのレアリスムに傾倒し、また福本和夫(かずお)から唯物史観の感化を受けて、社会意識の強い独自の写実主義を目ざした。1925年帰国して第6回帝展に『J・C嬢の像』を出品し、特選となる。翌年同志とともに「一九三〇年協会」を創立、また本郷・湯島の自由画室に写実研究所を開設した。質感、量感、実在感を絵画の写実的要件としたが、彼自身の作風はしだいにフォーブ的な主観表現へと向かった。帝展で特選、無鑑査ののち、1929年(昭和4)に審査員として出品した『海』は帝国美術院賞を受ける。翌昭和5年4月16日没。ほかに代表作として『二人の労働者』『裸体』『棟梁(とうりょう)の家族』がある。
[小倉忠夫]
『瀧悌三著『前田寛治』(1977・日動出版部)』
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前田寛治 (まえたかんじ)
生没年:1896-1930(明治29-昭和5)
洋画家。鳥取県北条町に生まれた。1921年(大正10)東京美術学校卒業。在学中は藤島武二の指導をうけ,また内村鑑三に傾倒。翌22年渡仏してエコール・ド・パリの自由な雰囲気にふれ,また旧友福本和夫と交遊し彼のマルクス主義思想の影響を受ける。アングル,クールベにひかれ,古典主義,写実主義を研究し,25年帰国した。同年の帝展で特選となって画壇に地歩を築き,翌年には里見勝蔵,佐伯祐三,小島善太郎らと一九三〇年協会を結成して滞欧作40点を出品,また帝展にも出品を続けて若きホープとみなされ,29年《海》(タイ国大使館)で帝国美術院賞を受けた。本郷湯島に前田写実研究所を開設して,唯物史観に基づく知的で新しい写実主義を主張したが,33歳で東京に没した。代表作は《棟梁の家族》(1928,鳥取県立博物館),《裸婦》(1928,神奈川県立近代美術館)。
執筆者:匠 秀夫
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前田寛治
まえたかんじ
[生]1896.10.1. 鳥取,中北条
[没]1930.4.16. 東京
洋画家。1921年東京美術学校卒業,翌 1922年フランスに留学。エコール・ド・パリの自由な雰囲気にふれ,一方ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル,ギュスターブ・クールベにひかれ,知的な新しい写実を目指した。1925年帰国,同年帝国美術展覧会(帝展)特選(→官展)。1929年『海』(東京,タイ大使館)で帝国美術院賞を受けた。一方,1926年佐伯祐三,里見勝蔵らと一九三〇年協会を設立して滞欧作 40点を出品。また本郷湯島に前田写実研究所を開設して,唯物史観に基づく知的で新しい写実主義を主張した。主要作品『二人の労働者』(1923,大原美術館),『赤い帽子の少女』(1926,兵庫県立近代美術館),『裸婦』(1925,東京国立近代美術館),『裸体』(1928,東京国立近代美術館)。(→フォービスム)
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前田寛治 まえた-かんじ
1896-1930 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治29年10月1日生まれ。大正11年フランスへ留学。クールベに傾倒し,また倉吉中学時代の同級生福本和夫の唯物史観の影響をうけ,独自の写実主義を提唱した。15年「一九三○年協会」創立にくわわり,のち前田写実研究所を開設。昭和5年4月16日死去。35歳。鳥取県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。代表作に「海」(帝国美術院賞),「J・C嬢の像」「棟梁の家族」。
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前田 寛治 (まえた かんじ)
生年月日:1896年10月1日
大正時代;昭和時代の洋画家
1930年没
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