フランスの画家。8月29日モントーバンに生まれる。トゥールーズの王立アカデミーに学んだあと1797年パリに出てダビッドの門に入る。1801年『アガメムノンの使者』でローマ賞を得たが、当時の政治的・経済的状況のためローマへの出発は5年後となった。フィレンツェを経由し、ローマのビラ・メディチに滞在したローマ時代(1806~1820)に、バチカンの「ラファエッロの間」やシスティナ礼拝堂に深い感銘を受けるとともに、古代貨幣や古代彫刻にも興味をもち、多くの優れた肖像画のほか、後の何点もの浴女の作品の発端となった『バルパンソンの浴女』(1808年。ルーブル美術館)を描いた。1810年、給費滞在の期間終了後もローマにとどまり、注文肖像画によって生計をたてながら、彼のロマン派的な詩想を象徴する『オシアンの夢』(1813年。アングル・ブールデル美術館)のほか、1814年には『ド・スノンヌ夫人』(ナント美術館)、『グランド・オダリスク』(ルーブル美術館)などを描いた。1820~1824年のフィレンツェ滞在中、フランス政府の注文によって『ルイ13世の誓い』(モントーバン大聖堂)を描き、この大作を携えて1824年パリに戻り、ドラクロワの『キオス島の虐殺』が出品された同じサロンに展示、ダビッド亡きあとのロマン派に対抗する、伝統と古典主義の象徴として公的な活動に従事することとなった。1827年のサロンでも、彼の『ホメロス礼賛』(ルーブル美術館)はドラクロワの『サルダナパロス王の死』に対抗したが、一方では市民階級の新しい個性を的確に描いた『ベルタン氏』(1832年。ルーブル美術館)のような作品をも描いている。1834年のサロン出品作の不評に失望したアングルは、翌1835年ローマのフランス・アカデミーの館長として再度イタリアに赴く。6年後の1841年にパリに戻るが、もはや名実ともに巨匠として、またアカデミズム、古典主義の規範の擁護者としてであった。『泉』(1856年。オルセー美術館)、『トルコ風呂(ぶろ)』(1863年。ルーブル美術館)などを晩年の代表作として残し、1867年1月14日パリで没した。
彼の作品の主題は、古典、アルカイズム、オリエント、ロマン主義などきわめて多岐にわたる。これらの主題の描写では、考古学的、歴史的な資料の収集や複製の制作などを行い厳密な写実性を追求する一方で、曲線の体系を主とする様式化、歪曲(わいきょく)によって構図を整える。正確な動きを執拗(しつよう)に追求しながら、不動性へと結晶させるのである。どちらかといえばドラクロワを好んだボードレールがアングルを評価したのも、この「奇異なもの」によってである。このアングルの多様性や構図は、セザンヌたちによっても、またキュビスムやシュルレアリスムによっても受け継がれた。現在、生地モントーバンには、彼の油彩および4000点以上もの素描やその他の資料を収集したアングル・ブールデル美術館がある。
[ダニエル・テルノア・中山公男]
『ロバート・ローゼンブラム著、中山公男訳『アングル』(1970・美術出版社)』▽『中山公男編『リッツォーリ版世界美術全集11 アングル』(1975・集英社)』
フランス新古典主義の画家。モントーバンに,地方画家の息子として生まれる。トゥールーズの王立アカデミーで絵を学び,17歳のときパリに出,当時全盛であったダビッドのアトリエにはいる。ここで古代と古典主義の美術を勉強し,21歳の若さでローマ大賞を獲得(1801)。政情不安の折から,ローマには遅れて1806年に赴き,ラファエロやシスティーナ礼拝堂,ローマ時代の遺跡などに心ひかれ,作品にもその体験をいかす。ローマ賞の給費が切れたあともローマに残り,ここで14年,フィレンツェに4年と,長期のイタリア滞在となった。その間,生活のために描いた肖像画が,その優美さと清新なリアリズムによって評価され,高名を博す。また裸体画や歴史画なども多く試み,ラファエロ研究の集大成である宗教画《ルイ13世の誓い》を仕上げて,24年パリのサロンに出品,この年帰国する。このサロンは,弱冠26歳のドラクロアの《キオス島の虐殺》が賛否両論の渦に巻きこまれた年であり,折から帰国のアングルと対抗する形になり,以後両者はよきにつけあしきにつけロマン主義対新古典主義の両旗手として,画壇を二つに割るほどのライバルと見なされるようになった。間もなくレジオン・ドヌール勲章を受け,美術アカデミー会員に選ばれ,アトリエを開く。35年,かつて学んだローマのビラ・メディチにあるフランス・アカデミー院長に選ばれる。ここで6年務めたあと41年再度帰国し,押しも押されぬ大家として,著名人の肖像や公共建築物の装飾の注文を多く受ける。また裸体画にも意欲的に取り組み,《泉》(1856),《トルコ風呂》(1863)などで女性美を追求した。アングルの芸術は新古典主義という範疇にはいるが,ダビッドのように新時代の英雄的側面をうたいあげるものとは趣を異にしている。宗教画,神話画,歴史画などの分野は本人が熱を入れたほどには成功していず,むしろ裸体画,特に肖像画の分野で傑作を多く残した。その線描デッサンを基調にした冷ややかな,しかしみごとな写実力は,モデルの存在感を完膚なきまでに写しとる。《オシアンの夢》(1812ころ),《パオロとフランチェスカ》(1819)など,ロマン派が好む主題にも関心を示していた。また優れた写実力がありながら,しばしば描写の〈誤り〉を指摘されたが,これはとりわけ女性画における肉体の線の誇張を重視したためで,アングルの美の規範が古典的均衡とも写実的正確さとも異なる,曲線の美しさにあったことを示している。印象派のドガ,ルノアールらにも深い影響を与えた。
執筆者:馬渕 明子
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1780~1867
フランスの画家。ダヴィドの弟子。イタリアに長く滞在してラファエロの画風を学んだ。正確な素描と純粋な線に優れ,後代に影響を与えた。作品に「ルイ13世の誓い」「ホメロス讃仰」「泉」など。
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…音楽では,モーツァルトの《後宮よりの誘拐》(1782)のトルコ趣味が早い例で,後にはベルディの《アイーダ》(1871初演)のような,エジプト風俗に関してかなり歴史的考証を経たものも見られる。美術の分野では,ロマン主義の代表者ドラクロアの《アルジェの女たち》(1834),《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》(1826)などが東方への熱い思いを伝えるが,アングルのような新古典主義の画家による《グランド・オダリスク》(1814)など,ロマン主義に限らず幅広い層の関心をあつめた。後の世代のシャセリオー,フロマンタン,ジェロームなどへと,時代が下ってゆくにつれ,単なるエロティシズムや浅薄な好奇心を満たすだけに終わり,しだいに新鮮さと力を失っていった。…
…ローマ滞在中の《ホラティウス兄弟の誓い》で名声を確立したダビッドは,革命期(《マラの死》《サビニの女たち》等),帝政期(《ナポレオンの戴冠式》)を通じて活躍し,多くの弟子たちを育てあげた。その弟子のなかでは,ジロデ・トリオゾン,ジェラール,そしてとくにアングルが重要である。アングルは,ロマン派的情熱の持主であったにもかかわらず,その卓越したデッサン,平面化された構成,緻密な写実性と理想的世界の追究(《ホメロス礼讃》《泉》等)により,ダビッドの後継者として,19世紀後半まで新古典主義の中心であった。…
…そこには当然,さまざまの歴史的,社会的理由があるが,いずれにしても19世紀以来,パリは国際的な美術の動きの中心となったのである。 そのようなさまざまの異なった価値観の対立と共存は,まずサロンを舞台として,新古典派のアングルとロマン派のドラクロアの対立から始まった。アングルは,資質としてはきわめてロマン派的なものももっており,その様式にはその後の近代絵画の展開に結びつく清新な要素もあったが,社会的には新古典派の代表としての役割を引き受けなければならなかったのである。…
※「アングル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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