アンゴラ(アフリカ)(読み)あんごら(英語表記)Republic of Angola 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンゴラ(アフリカ)」の意味・わかりやすい解説

アンゴラ(アフリカ)
あんごら
Republic of Angola 英語
República de Angola ポルトガル語

アフリカ南西部にある国。正称はアンゴラ共和国República de Angola。西は大西洋に面し、北はコンゴ民主共和国(旧ザイール)、東はザンビア、南はナミビアに接するが、コンゴ川ザイール川)河口の右岸に飛び地カビンダをもつ。長くポルトガル領であったが、1975年11月に独立した。国名のアンゴラは、原地名ンゴラNgolaに由来する。面積約124万6700平方キロメートル、人口564万6166(1970年センサス)、1212万7071(2006年推計)、2578万9024(2014年センサス)。首都はルアンダ

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自然

地形は、その大部分が標高1000メートル以上の高原であり、標高200メートル以下の平坦(へいたん)地は、大西洋に面した海岸地帯にみられるにすぎない。幅50キロメートルから160キロメートルの海岸平野は河川が少なく、土地はやせている。内陸の高原地帯は、ほぼ北のコンゴ水系と南のザンベジ水系の分水嶺(ぶんすいれい)にあたり、最高峰は南西部のモコ山(2619メートル)である。水系の発達した部分は起伏が多いが、大部分は起伏の少ない丘陵地となっている。このため海岸平野の大部分は高温多雨の気候で、ベンゲラ以北ではアブラカン、マングローブが繁茂する。これに対して内陸の高原地帯では、気候はサバナ型で温度も温帯並みとなり、過ごしやすい環境となっている。雨期は10月から翌5月までで、6月から9月が乾期となり、この期間はとりわけ乾燥冷涼な気候となる。海岸平野から高原への移行地帯には熱帯雨林型の森林が発達しているが、高原地帯はサバナの疎林となり、とりわけ南部は乾燥が著しく、とげのある低木を中心にした乾燥サバナとなっている。なおアンゴラ近海は暖流と寒流とがぶつかり、好漁場となっている。

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歴史

アンゴラの歴史は、まだその大部分が明らかにされておらず、とりわけ15世紀末のヨーロッパ人の渡来以前の歴史ははっきりしていない。紀元1000年ごろまでには、現在のアンゴラの住民であるバントゥー語系の諸民族が、この地方にまで移住してきていたのは確かであるとされている。それ以前は、狩猟や採集をおもな生業とする民族が住んでいたであろうと推測される。民族的には、コイサン語系の民族であったと考えられる。バントゥー語系の諸民族は、鉄器を使用する農耕民族であり、アンゴラ地方では内陸の高原地帯に割拠し、おそらく先住民族を吸収してしまったと考えられる。しかし彼らのほとんどは小規模な部族社会を維持していたらしく、大規模な部族国家を形成していなかった。わずかに、北西部のコンゴ川河口地方を中心にバコンゴ人が国家を形成していた。

 1483年、インド航路を求めて、アフリカ大陸の周航を目ざしていたポルトガル人が、アンゴラ海岸にまで到達した。ついで1498年バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回りインド航路を開いたが、アンゴラ海岸はその基地の一つとなり、1559年にはポルトガルの初代総督が派遣されている。そしてまもなくカリブ海の諸島やポルトガル領のブラジル、サントメ島などで、サトウキビ栽培の発展に伴う奴隷貿易が始まると、アンゴラはその輸出地の中心となった。その後、奴隷貿易にはオランダ、イギリス、フランスなども加わり、実にアンゴラだけでも数百万人がアメリカ大陸各地へ連れ去られたといわれている。そのため19世紀末には、アンゴラの人口は少なくなり、その荒廃は著しいものがあった。

 19世紀末のヨーロッパ列強によるアフリカ分割に際して、現在のアンゴラの地が、ポルトガルの支配下に置かれることになった。ポルトガルは内陸支配を強め、植民地経営を進めたが、20世紀初頭まではアンゴラ人の抵抗は激しく、約30年にわたる征服戦争が行われた。そうしたさなかの1910年にポルトガルは共和制となり、同国は政治的安定に欠けることとなったが、1930年代に入り、サラザール独裁政治のもとで、本格的な植民地経営が行われるようになった。しかしその後の世界恐慌、第二次世界大戦などにより植民地経営は挫折(ざせつ)した。1950年代に入り急激で過酷な植民地政策がとられ、経済開発はいちおうの成功はみたものの、強制労働、低賃金などの悪弊のため、アンゴラ住民の独立運動が起こった。1954年にはアンゴラ人民同盟(UPA)が結成され、1960年代に入るとポルトガルに対する武力闘争も始まった。

 動乱が激しくなるとともに、ポルトガルは南アフリカ共和国ローデシア(現、ジンバブエ)と協力関係をもちながらゲリラの鎮圧方法を模索した。一方、解放運動の側にも分裂が起こり、のちに初代大統領となったネトの率いるアンゴラ解放人民運動MPLA)、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)などが生まれた。1974年ポルトガルに政変が起こり、アンゴラにも独立を認める政策がとられた。三つに分裂していた解放組織と具体的交渉に入り、1975年11月MPLAの人民共和国樹立によって、独立を達成し、MPLA議長のネトが大統領に就任した。しかし、独立直後から政争が激化し内戦が起こった。

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政治

1979年にネトが病死したあと外相のドス・サントスが大統領を継いだ。しかしその後も南アフリカ共和国の侵攻、ナミビアの独立などをめぐって内戦状態が続き、その間ドス・サントスは市場経済と複数政党制の実現に向けて改革を進めた。1991年、アンゴラ包括和平協定がMPLAとUNITAとの間で締結されたが、1992年の大統領選挙をめぐってUNITAが武装蜂起し、内戦が再開された。1993年国連の仲介で和平交渉が進められ、1994年和平協定に調印、1997年国民総合政府が樹立された。しかし、1998年内戦が再燃。2002年2月UNITA議長サビンビが戦死、UNITAの勢力が弱まり、4月政府とUNITAなど反政府勢力が停戦合意に関する覚書に署名し、内戦は事実上終結した。この内戦により大量に発生した難民の帰還、定住問題が深刻化し、難民に対する国際的な食糧援助が実行された。また、内戦時に敷設された多数の地雷の撤去も大きな問題として残されている。さらに、石油資源の豊富な飛び地カビンダでは、独立を目ざす動きもでてきている。2008年9月に、1992年以来16年ぶりに国会議員選挙が行われたが、MPLAが82%の得票率で圧勝した。

 議会は一院制で定数220議席で任期は4年である。

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外交

1976年、国連加盟。アフリカの国・地域が加盟する世界最大の地域機関であるアフリカ連合(旧アフリカ統一機構)、南部アフリカの地域協力機構である南部アフリカ開発共同体(旧南部アフリカ開発調整会議)、ポルトガル語を公用語とする国による国際協力組織であるポルトガル語諸国共同体など、多くの国際機関に加盟している。なお、2003年より2年間、国連安全保障理事会非常任理事国を務めた。

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経済・産業

アンゴラの経済は、1950年代から急速に進められた開発事業により、独立直前の1970年代には、他の熱帯アフリカ諸国に比べて著しい成長を示していた。とりわけ工業生産高は毎年15%の伸びをみせていた。なかでも経済の中心となっているのは、1950年代から採掘の始まった石油で、アンゴラの輸出額の8割を占め、同国の外貨収入は石油輸出に依存しているといっても過言ではない。2007年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟している。また独立前には原油精製をはじめ、飲料、セメント、タバコなどの工業生産も成長し始めていたが、独立に伴う内戦とポルトガル人技術者の引き揚げによって大きな打撃を受けた。独立前に日本や旧西ドイツに輸出していたカシンガの鉄鉱石は年産70~80万トンであったが、UNITAに搬出用の鉄道を破壊され、開発が中止された。

 アンゴラでもっとも早く開発されたのは、ルアンダ地方に産するダイヤモンドである。1990年の生産量は130万カラットで、同年の輸出額の15%近くを占めた。生産量は増加しており、1999年には410万カラット、2002年には600万カラットの生産があった。アンゴラの輸出額の98%は石油とダイヤモンドで占められている(2003)。独立前には年産20万トン以上もあったコーヒー豆の生産は、1990年には5000トン、2005年には1250トンにまで落ち込んでおり、もともと輸出の中心であったコーヒー生産にも内戦の影響は大きく及んでいる。コーヒー生産地域の北部のコーヒー園はその3分の2が破壊されたといわれており、もともと人口の多い内陸高原地帯の農地の多くが荒廃している。アンゴラの輸出用作物にはほかにトウモロコシ、サイザル麻、やし油、落花生、ゴマ、タバコなどが知られているが、これらの生産が独立前の状態に復帰するのは、なお多くの年月を要するであろう。

 また交通についても、こうした経済、産業を支えうるまでには至っていない。主要な港はロビト、ルアンダ、ナミベで、国内の輸送幹線は1927年に完成したベンゲラ鉄道である。この鉄道は1931年にはコンゴ民主共和国(旧ザイール)のカタンガ州のカタンガ鉄道に結ばれ、モザンビークのベイラやマプートに達している。しかし独立後の内戦で多くの橋が破壊され、その運行は一時停止されていた。このように、アンゴラの経済は独立前の状態に回復することが第一で、新しい発展計画はそのあとからということになろう。

 なお、2000年以降、中国との関係が急速に強化され、原油供給の見返りとして、中国からの金融支援や技術援助が急増している。

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社会・文化

独立前の1960年代末では、人口の90%がアフリカ人で、7%にあたる約40万人がポルトガル人を中心とするヨーロッパ人、残りが混血であったとされている。独立後はこれらヨーロッパ系住民のほとんどが本国に引き揚げ、その人口は極度に減少した。アフリカ人住民の大部分はバントゥー語系の諸民族からなり、そのなかで最大の人口を有するのはオビンブンドゥで、総人口の約37%とされている。そのほか、キンブンドゥ、バコンゴ、チョクエ、ヌガンゲラなどが主要な民族である。共通語はポルトガル語で、アフリカ語のなかではオビンブンドゥ語がもっとも広く通じる。住民の宗教では、それぞれの社会の伝統的な信仰(アニミズム)が一般的であるが、古くからポルトガル人の布教によるカトリックも広く浸透している。

 ポルトガル植民地時代から教育の普及には力を注いでおり、独立後、1980年代ごろは非識字率が70%であったが、1992年には42%、2003年には33.2%と減少している。ヨーロッパ人技術者の引き揚げによる技術者不足が深刻で、この点はキューバの援助とアンゴラ人の教育、訓練を急ぐ方針がたてられている。また1960年代から人口の都市集中が著しく進み、首都ルアンダにスラム街が生まれるなど、都市政策も大きな課題となっている。

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日本との関係

日本は1976年(昭和51)2月にMPLAの現政府を承認し、9月には外交関係を樹立した。その背景の一つには、独立前からアンゴラ近海へ出漁していた日本漁船のため、アンゴラとの関係を安定したものとしたい考えがあった。1992年(平成4)にはPKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)適用第一号として国連のアンゴラ選挙監視団に3人を派遣した。2001年(平成13)12月に在日アンゴラ大使館、2005年1月に在アンゴラ日本国大使館が開設された。2001年1月にドス・サントス大統領が来日している。

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『ラウル・バルデス・ビボ著、後藤政子訳『アンゴラの白い雇い兵』(1977・恒文社)』『W・G・バーチェット著、吉川勇一訳『立ち上がる南部アフリカ1 アンゴラの解放』(1978・サイマル出版会)』『青木一能著『アンゴラ内戦と国際政治の力学』(2001・芦書房)』


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