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1600年にエリザベス1世により喜望峰からマゼラン海峡に至るアジア貿易の独占権を賦与され,設立された会社。日本にも商館を設置したが,1623年のアンボン事件を契機として東南アジアから撤退し,以後インドの植民地経営に従事。1757年プラッシーの戦でフランスとベンガル王侯の連合軍を破ったほか,各地の王侯国を占領し支配を拡大したが,1857年のシパーヒーの反乱の結果,翌年インドはイギリス国王の直接支配となり,会社は解散。
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…彼らの中でとくに有力な者はナーヤカと呼ばれ15世紀以降には数県にまたがる地域を一円支配する領主となる者もいたし,また,ナーッタム,パーライヤッカーラン(ポリガール)と呼ばれる地主・小領主層も南インドの南部に現れた。
[イギリス東インド会社]
18世紀末からインドの直接支配を目ざしたイギリス東インド会社政府は,本国の近代的な地主制の観念を導入し,かつインド古代法典に基づき〈インドでは古来,国家が最高の土地所有権者である〉という論拠に立って新たな徴税制度を実施した。その結果,旧来,土豪地主・領主層であったザミーンダールは,その行政権,軍事権を奪われ,単なる地租徴収請負人の地位に落とされた。…
…しかし,17世紀後半になると世界商業の覇権は,3度にわたるイギリス・オランダ戦争を通じてイギリスの手に移る。1600年に設立されたイギリス東インド会社が,57年に近代的に改組・強化されたこと,カリブ海や北アメリカ大陸におけるステープル生産が成長し,商品作物を大量に供給したことなどが,イギリスの覇権獲得に有利に作用した。このころになると,イギリスはまた,王立アフリカ会社などを組織して,アフリカ人奴隷の貿易にも乗り出す。…
…1826年にイギリス東インド会社とシャム(タイ)王国との間に締結された通商条約。イギリス東インド会社は1817年以降ペナンを基地としてシャムとの貿易に進出したが,法的な保護はなかった。…
…これによりオランダのアムステルダム,エンクハイゼン,ホールン,ロッテルダム,デルフト,ミッデルブルフの6ヵ所に散在していた個々の会社が統合され,それぞれは東インド会社のカーメル(支部)と改称された。イギリス東インド会社設立はこれより2年早いが,その資本金はオランダの会社の1/10にも満たず,またその性格も航海ごとに起債する当座企業の性格を残していたので,オランダ東インド会社は世界最初の株式会社と見なされている。取締役会は前身会社の取締役72名を引き継ぎ,徐々に60名まで減らし,その上に17人会と呼ばれる重役会を置いた。…
…アチェを基地としてマレー半島に進出し,71年クアラ・ケダに商館を開設した。当時ケダでは内乱が発生しており,スルタンはペナン島の割譲と引換えにイギリス東インド会社の保護を求めようとした。会社はかならずしも乗り気でなかったが,ライトはスルタンの代理として会社と交渉し,86年彼の半ば独断でペナン島の会社による領有を宣言した。…
※「イギリス東インド会社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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