マン(読み)まん(英語表記)Horace Mann

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マン」の意味・わかりやすい解説

マン(Thomas Mann、小説家)
まん
Thomas Mann
(1875―1955)

ドイツの小説家。ハインリヒ・マンの弟、クラウス・マンの父。6月6日、北ドイツの旧ハンザ同盟都市リューベックで数代にわたって穀物商会を営んできた豪商の家に生まれる。市参事会員の父親の死後、遺言により商会は清算された。1894年実科高等学校を修了すると、母や弟妹を追って南ドイツのミュンヘンに移った。19歳であったが、それまでのリューベック時代、由緒ある古都の市民的職業倫理の精神は、マンの「精神的生活形式」の支柱としてその創作態度に大きな影響を与え、ブルジョア的な生活環境は、後年社会主義への共感を示すマンの生活感情に基礎を与えるに至っている。

 ミュンヘンに移り住んで火災保険会社の無給見習社員として勤務のかたわら書き上げた短編小説『転落』が、詩人デーメルに認められ、これがきっかけとなって作家生活に踏み出す。これから1898年までに前後2回、あわせて2年近くイタリアに滞在するが、この間、短編小説『小男フリーデマン氏』をフィッシャー書店の文芸誌『ドイツ展望』の編集部に送ったことが機縁となって、同書店との半世紀以上に及ぶ関係が生じた。まず最初の短編集『小男フリーデマン氏』が98年に刊行され、書店主ザームエル・フィッシャーから「少し長い小説」を書くよう促されて『ブデンブローク家の人々』が誕生することになった。約30年後に授与されたノーベル文学賞の授賞対象はこの長編処女作である。この時期の作品にみられる心理主義はややもすれば唯美主義への傾斜を示すが、第二の短編集『トリスタン』(1903)に収められた『トニオ・クレーガー』は、作品を自己の「生そのものの表現形式」とみる倫理性の表現で、以後この立場は一貫して変わるところがない。

 1905年、マンの唯一のドラマ『フィオレンツァ』が完成、フィレンツェの実質上の支配者ロレンツォ・デ・メディチとドミニコ会修道士サボナローラとの対決を描いて、生と精神の問題を『トニオ・クレーガー』に引き続いて追究した作品である。この年マンはカトヤ・プリングスハイムと結婚、まもなく長編小説『大公殿下』が構想される。ドイツのある小国の若い君主が国家財政の危機を、アメリカの富豪の娘との結婚によって救うというメルヘン的な筋立てのなかで、王侯的存在の生活形式が吟味される(1909)。続いて詐欺師マノレスクの回想に想を得た『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の執筆が始まるが、「非現実的幻想的存在形式の心理学」としてのこの小説は1913年に中断する。12年の「頽廃(たいはい)の悲劇」『ベニスに死す』に対応する「風刺劇」として『魔の山』が計画される。

 1914年第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)にあたって国民的感動にとらえられたマンは、エッセイ『フリードリヒと大同盟』(1915)などの論文によって、西欧デモクラシーに対する帝政ドイツの戦いを支持、兄のハインリヒをはじめとする反帝政平和主義者たちの反発を招いた。これを契機に自身のドイツ性の徹底的検討を試み、大戦のほとんど全期間をこの作業に費やした。その成果が論集『非政治的人間の考察』(1918)である。これによってマンは、いわば保守層の指導的イデオローグと目されることになったが、ワイマール共和国成立後、共和制を敵視する保守勢力が先鋭な非人間的傾向を示し出すのにつれて、マンはこれにしだいに反発を強め、22年『ドイツ共和国について』と題する講演でデモクラシー擁護の立場を宣言した。マルクスとヘルダーリンの「出会い」のなかにドイツの未来の可能性をみ、「その出会いはいままさに行われようとしている」としたのはこのころのことである(『ゲーテとトルストイ』)。24年に刊行された『魔の山』は、第一次世界大戦勃発に至る「7年間」が時間的枠組みになっているが、基礎になるのはマンの大戦後の思想的、政治的立場である。『旧約聖書』「創世記」のヨゼフ挿話を扱った『ヨゼフとその兄弟』四部作(『ヤコブ物語』『若いヨゼフ』『エジプトのヨゼフ』『養う人ヨゼフ』)は、1920年代の非合理主義嗜好(しこう)に対する批判的立場からの、心理学による神話の人間化の試みであり、古代世界を舞台に人類の和解の歌をうたい上げたものである。しかし26年からこれが完成するまでの16年間に世界は大きく変動し、マン自身も33年国外旅行に出たまま帰国を断念、フランス、スイスを経て、38年アメリカに移り住み、44年にはアメリカの市民権を得る。

 これより先1929年、ドイツ人としては第一次世界大戦後最初のノーベル文学賞受賞者となった。同じ年マン自身が「ファシズムの心理学」とよんだ短編小説『マーリオと魔術師』を執筆、その後も『理性に訴える』(1930)などの講演やエッセイを通じてファシズムに対する警告を続けた。33年ヒトラーの政権掌握後まもなくドイツを離れたが、ドイツとの精神的かかわりを維持する方法を模索して、36年、ようやくヒトラー・ドイツとの絶縁を表明した。この年に計画した、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の女主人公のモデルのワイマール訪問とゲーテとの再会を描く長編小説『ワイマールのロッテ』は、アメリカ移住の翌年39年に完成、またインド伝説による短編小説『すげかえられた首』(1940)に続いて、「ヨゼフ」小説の第四部『養う人ヨゼフ』の執筆が開始され、43年の初頭に「悠々と流れゆく7万行」の「人類の歌」全巻が完結する。同じく『旧約聖書』に題材を求めた、モーセを主人公とする短編小説『掟(おきて)』は、『ヨゼフ』完成後まもなく2か月足らずで書き上げられた。

 1900年代の初めから腹案として温められていた「ファウスト」小説が同じ1943年に取り上げられる。第二次世界大戦後の47年に完成したこの『ファウストゥス博士』は、講演『ドイツとドイツ人』や『われわれの経験からみたニーチェの哲学』が示すように、ドイツ精神の自己批判の性格を色濃く帯びている。この作品の厳しいドイツ批判、さらにはドイツ再建の精神的支柱として帰国を要請する各方面からの声を退けたことは、反感と敵意を招いた。

 1949年ゲーテ生誕200年記念にあたり、ドイツ統一の願いを込めて旧西ドイツのフランクフルトとソビエト地区ワイマールで同じ記念講演を行ったが、このことは「ヨーロッパの良心」の行動として共感をよんだ反面では、旧西ドイツの反共的気分ばかりでなく、アメリカの反共的風土をも刺激することになり、それが、52年アメリカに決別してスイスのチューリヒ近郊に移る原因の一つになった。

 この間、グレゴリウス伝説による「恐ろしいほどに不倫な罪人が神によってローマ教皇にさえ選ばれる」限りない恩寵(おんちょう)の物語『選ばれし人』が1948年から3年余を経て51年に完成、さらに40年にわたる中断ののち54年完成した『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』第一部はマンの最後の小説作品となった。55年ふたたび東西ドイツで「シラー」講演を行ったが、その後6月末オランダ旅行に出て病を得、7月下旬血栓(けっせん)症によりチューリヒ州立病院に入院、20日後の8月12日、死去した。遺体はヨーロッパ帰還以来の住居のあるチューリヒ湖の湖畔キルヒベルクの教会墓地に埋葬された。

[森川俊夫]

トーマス・マンの短編

トーマス・マンは60年余りの創作生活のなかで、『トニオ・クレーガー』(1903)のようなかなり長いものを含めて、約30の短編を書いているが、大半は18歳から30歳代なかばまでの比較的若いころの作品である。それらのうち、長編小説『ブデンブローク家の人々』(1901、マン26歳)以前に発表されたものが12編、それ以後のものが『ベニスに死す』(1912)までで13編ある。

 かりに前者をA群、後者をB群とよぶことにすると、A群でマンが語り続けたのは、世紀末の「デカダンス」、あるいは「生からの疎外」というテーマであり、登場人物はほとんどみな心身ともに病み、疲れている。彼らを苦しめる不治の病(『幸福への意志』)、身体障害(『小男フリーデマン氏』)、病的肥満(『ルイースヒェン』)、アルコール中毒(『墓地への道』)などは、すべて「生からの疎外」の原因であり、またその象徴である。にもかかわらず登場人物の多くは生への強い意志ないし執着をもっていて、彼らなりの行動をするのであるが、結局はことごとく挫折(ざせつ)する。『ブデンブローク家の人々』の成功によって作家としての自覚が固まったのち、マンの最大の関心は、アウトサイダーとしての芸術家(または知的人間)のあり方とその救済という問題に移る。そのもっとも美しい結実は『トニオ・クレーガー』であるが、『トリスタン』(1903)、『神童』(1903)、『予言者の家にて』(1904)、シラーをモデルにした『生みの悩み』(1905)など、B群の短編の多くは同じ問題意識を背景にしたものである。

 後期の短編になると、作者の視点は大きく広がる。『無秩序と幼い悩み』(1925)はドイツのインフレーション時代の混乱を、『マーリオと魔術師』(1930)は台頭しつつあるファシズムの恐怖を描き、また『すげかえられた首』(1940)と『掟(おきて)』(1943)は神話的題材を通して、いずれも読者に現代に生きることの意味を問いかけている。

 短編作家としてのマンの筆はきわめて精緻(せいち)で、行動の奥にある人間の心理を鋭くえぐり、的確に描き出す。しかもそれらの作品には、つねに一定の距離を置いて対象をみるところから生ずる独特のユーモアがある。

[片山良展]

『高橋義孝他訳『トーマス・マン全集』12巻・別巻1(1971~72・新潮社)』『前田敬作訳『非政治的人間の考察』上中下(1985・筑摩叢書)』『V・ハンセン、G・ハイネ編、岡元藤則訳『トーマス・マンは語る』(1985・玉川大学出版部)』『望月市恵・小塩節訳『ヨセフとその兄弟』1~3(1985~88・筑摩書房)』『岩田行一・森川俊夫他訳『トーマス・マン日記』(1985~2004・紀伊國屋書店)』『実吉捷郎訳『トオマス・マン短篇集』、『トニオ・クレエゲル』改版(岩波文庫)』『関泰祐・関楠生訳『ファウスト博士』上中下(岩波文庫)』『望月市恵訳『ワイマルのロッテ』上下、『ブッデンブローク家の人びと』上中下(岩波文庫)』『青木順三訳『講演集 ドイツとドイツ人』(岩波文庫)』『佐藤晃一訳『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(新潮文庫)』『高橋義孝訳『魔の山』上下、『マリオと魔術師』(新潮文庫)』『浅井真男・佐藤晃一訳『ベニスに死す』(角川文庫)』『カーチャ・マン著、山口知三訳『夫トーマス・マンの思い出』(1975・筑摩書房)』『片山良展・義則孝夫編『トーマス・マン文学とパロディー』(『ドイツ文学研究叢書』1976・クヴェレ会)』『辻邦生著『トーマス・マン』(1983・岩波書店)』『マリアンネ・クリュル著、山下公子・三浦国泰訳『トーマス・マンと魔術師たち――マン家のもう一つの物語』(1997・新曜社)』『ウルリヒ・カルトハウス著、大澤隆幸訳『トーマス・マンの文学世界』(1999・リーベル出版)』『友田和秀著『トーマス・マンと一九二〇年代――『魔の山』とその周辺』(2004・人文書院)』『奥田敏広著『トーマス・マンとクラウス・マン――「倒錯」の文学とナチズム』(2006・ナカニシヤ出版)』『小塩節著『トーマス・マンとドイツの時代』(中公新書)』


マン(Heinrich Mann)
まん
Heinrich Mann
(1871―1950)

ドイツの作家。リューベック生まれ。トーマス・マンの兄。ミュンヘンやベルリン大学に学ぶ。初期には新ロマン主義、新保守主義を唱えたが、しだいに社会批判の鋭い小説とデモクラシーを訴える評論で活躍する。『怠け者天国で』(1900)はベルリンの出版界の腐敗をつく小説。1893年以降数年間のイタリア滞在から生まれた作品のうち『女神(めがみ)たち』(1903)は自由・美・愛を非市民的存在形態として賛美し、ニーチェの影響の濃い作品だが、『小都市』(1909)では民衆を初めて描く。ウィルヘルム2世治世下のドイツを扱う作品『ウンラート教授』(1905)および『臣下』(1914)、『貧民』(1917)、『指導者』(1925)の三部作では、権力に弱いドイツ人を戯画化した。第一次世界大戦中には、ドイツの侵略を弁護した弟のトーマスや多くの知識人に対して、『ゾラ論』(1915)によって反論。ワイマール共和国の時期にも、軍国主義の克服、フランスとの協調を訴えた。1933年ナチスに追われてフランスに亡命。フランスで反ファシズム活動の中心的人物となる。同時に『アンリ4世の青春』(1935)、『アンリ4世の完成』(1938)において、民衆を信じ国民の統一に全力を尽くしたこの国王の苦難の生涯を描いて、歴史小説でアクチュアルな課題にこたえた。1940年渡米後は、窮乏生活を強いられたが、そのなかで小説『リディーツェ』(1943)、回想録『一時代の点検』(1945)などを書く。1950年、ドイツ民主共和国(東ドイツ)で創立された芸術アカデミーの会長に選ばれ、ベルリンに帰る準備を整えたが、出発直前、ロサンゼルスの近郊サンタ・モニカで死亡した。

[長橋芙美子]

『小栗浩訳『歴史と文学』(1971・晶文社)』『片岡啓治訳『息吹き』(1972・恒文社)』『小栗浩訳『アンリ四世の青春』新装版、『アンリ四世の完成』(1989・晶文社)』『三浦淳他訳『ハインリヒ・マン短篇集』1~3巻(1998~2000・松籟社)』『山口裕訳『小さな町』(2001・三修社)』『山口裕著『ハインリヒ・マンの文学』(1993・東洋出版)』


マン(Klaus Mann)
まん
Klaus Mann
(1906―1949)

ドイツの小説家、評論家。トーマス・マンの長男。ペシミスティックな文明批評の立場から小説、評論、自伝を書いた。1933年オランダのアムステルダムに亡命、オルダス・ハクスリー、ハインリヒ・マン、アンドレ・ジッドらと亡命者の機関誌『集合』(1933~35)を編集する。1936年アメリカに帰化し兵役にもついた。第二次世界大戦後ドイツに帰ったが、南フランスのカンヌで自殺する。名優グスタフ・グリュントゲンスをモデルにした小説『メフィスト』(1936)は映画化もされて話題をよんだ。ほかに小説『悲愴(ひそう)交響曲』(1935)、自伝『転回点』(1942)などがある。

[小栗 浩]

『小栗浩・渋谷寿一・青柳謙三訳『マン家の人々』『反抗と亡命』『危機の芸術家たち』(原題『転回点』1970~71・晶文社)』『岩淵達治他訳『メフィスト』(1983・三修社)』『小栗浩訳『転回点――マン家の人々』(1986・晶文社)』『奥田敏広著『トーマス・マンとクラウス・マン――「倒錯」の文学とナチズム』(2006・ナカニシヤ出版)』


マン(Horace Mann)
まん
Horace Mann
(1796―1859)

アメリカの教育家。幼時は貧困のうちに過ごしたが、苦学してブラウン大学を卒業、のち弁護士となる。1827年マサチューセッツ州議会議員となり、1835年から1837年まで州議会上院議長。この間、アメリカ最初の州教育委員会の設置に尽力した。1837年から1848年まで務めた州教育長Secretary在任中は、毎年、教育長年次報告書を作成。この州内の教育事情の調査報告書によって公教育の価値やその諸問題について大衆を広く啓蒙(けいもう)した。また、アメリカにおける最初の師範学校の設立(1839)に尽力したほか、教師の地位・待遇の改善、教育施設の完備、道徳教育や実業教育の振興にも努力した。その後、奴隷制反対のホイッグ党(アメリカ)員として連邦下院および上院議員に選ばれ(1848~1853)、最後にアンティオーク大学初代学長として活躍(1852~1859)。徹底した男女共学、黒人学生入学を断行し、新しい大学経営を行った。

[大江正比古]


マン(Thomas Mun、貿易商人)
まん
Thomas Mun
(1571―1641)

イギリスの貿易商人、重商主義期の理論家。貿易商として活躍し、のち東インド会社の重役となった。1620年に始まる不況期に、貨幣不足の原因として同社の銀輸出が非難の的となった際、『東インド貿易論』A Discourse of Trade, from England unto the East-Indies(1621)を公刊し、一般的貿易差額論の立場から会社を弁護した。のち不況の原因や対策をめぐって一連の経済論争が生じたが、彼は貿易委員会で活躍しつつ、しだいに貿易差額論を整備した。さらにこれを体系化して主著『外国貿易によるイングランドの財宝』England's Treasure by Foreign Trade ……(1664)を著した(執筆はほぼ1626~30年)。これによってマンは、中継貿易のみに基づく単なる貿易差額論ではなく、元本の増大に基礎を置く一般的貿易差額こそ一国の富の基準であるという重商主義の原理を確立した。しかしこの元本論も商業資本の運動からとらえたものであり、生産過程そのものの分析を経たものではなかった。彼の理論は、その後多くの重商主義者の古典とみなされるようになり、重商主義を批判したアダム・スミスによっても、イギリスだけでなく他のすべての商業国の経済政策の基本的信条となったと評価された。

[田中敏弘]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マン」の意味・わかりやすい解説

マン
Mann, Thomas

[生]1875.6.6. リューベック
[没]1955.8.12. チューリヒ
ドイツの小説家,評論家。 H.マンの弟。富裕な穀物商の家に生れたが,1891年の父の死後家運は傾いた。 93年ミュンヘンに移り,保険会社に勤務しながら,ミュンヘン大学で美術史,文学史などを聴講。 1933年亡命,38年アメリカに逃れた。第2次世界大戦後はスイスに定住。ショーペンハウアー,ニーチェ,ワーグナーらの影響を受け,完成された文体と,神話への志向,パロディーの駆使などにより,20世紀の最も重要な作家の一人に数えられる。最初の小説『ブッデンブローク家の人々』 Die Buddenbrooks (1901) における市民性と芸術性,生と精神の対立は,短編『トーニオ・クレーゲル』 Tonio Kröger (03) ,『ベニスに死す』 Der Tod in Venedig (12) などにも形を変えて追究され,彼の終生のテーマとなった。『魔の山』 Der Zauberberg (24) ,『ファウスト博士』 Doktor Faustus (47) などは,文化・時代分析の書ともいえよう。ほかに4部作『ヨーゼフとその兄弟たち』 Joseph und seine Brüder (33~43) ,『ワイマールのロッテ』 Lotte in Weimar (39) ,『選ばれし人』 Der Erwählte (51) ,『詐欺師フェーリックス・クルルの告白』 Bekenntnisse des Hochstaplers Felix Krull (54) ,政治評論『非政治的人間の考察』 Betrachtungen eines Unpolitischen (18) など。 29年ノーベル文学賞受賞。

マン
Mann, Heinrich

[生]1871.3.27. リューベック
[没]1950.3.12. カリフォルニア,サンタモニカ
ドイツの小説家,評論家。トーマス・マンの兄。富裕な穀物商の家に生れ,出版社に勤めたのち,イタリア,フランスに滞在,特にフランスの思想,教養から深い影響を受けた。ウィルヘルム体制下の権威主義的な社会に攻撃を加えた時代批判の小説で知られる。第1次世界大戦中は急進的デモクラシーを唱道して弟トーマスとさえ対決。 1930年プロシア・アカデミーの文芸部門の長となる。 33年チェコスロバキアを経てフランスに亡命,反ファシズム運動を行う。 40年アメリカに逃れ,49年東ドイツ・アカデミー院長に任じられたが,帰国を前にして死亡。『逸楽郷にて』 Im Schlaraffenland (1900) ,『ウンラート教授』 Professor Unrat oder das Ende eines Tyrannen (05) ,『小さな町』 Die kleine Stadt (09) ,3部作『帝国』 Das Kaiserreich (14~25) ,歴史小説『アンリ4世の青春』 Die Jugend des Königs Henri Quatre (35) ,『アンリ4世の完成』 Die Vollendung des Königs Henri Quatre (38) などのほか,『精神と行動』 Geist und Tat (31) などの文明批評,政治評論がある。

マン
Mun, Thomas

[生]1571.6.17. 〈洗礼〉ロンドン
[没]1641.7.21. 〈埋葬〉ロンドン
イギリスの経済著述家。イタリア,レバント貿易に従事したのち,1615年東インド会社理事。同社の貿易がイギリスの鋳貨を流出させるとの非難にこたえて『イギリスの東印度貿易に関する一論』A Discourse of Trade,from England unto the East-Indies: Answering to Diverse Objections which are usually made against the Same (1621) を著わし,さらに『東インド会社の請願と進言』 The Petition and Remonstrance of the Governor and Company of the Merchants of London,trading to the East-Indies (28) を公刊して会社を弁護,また 30年頃に執筆した『外国貿易によるイギリスの財宝』 England's Treasure by Foreign Trade (公刊 64) で個別的貿易差額説に基づく重金主義を批判し,全般的貿易差額説に立つ重商主義経済理論を展開した。

マン
Mann, Delbert Martin, Jr.

[生]1920.1.30. カンザス,ローレンス
[没]2007.11.11. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国の映画監督,テレビドラマ演出家。テレビでの低予算の手法を映画に応用し,『マーティ』Marty(1955)や『独身者のパーティ』The Bachelor Party(1957)といったテレビドラマの映画化作品を制作した。2作とも脚本はパディ・チャイエフスキーによる。『マーティ』は予想外にヒットし,アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した。長編映画とテレビ映画を数多く手がけ,NBCで放送された高視聴率ドラマシリーズ「フィルコ・テレビジョン・プレイハウス」Philco Television Playhouseでは 100以上のドラマを制作した。また,1969~71年には全米監督協会の会長を務めた。

マン
Mann, Horace

[生]1796.5.4. マサチューセッツ,フランクリン
[没]1859.8.2. オハイオ,イエロースプリングズ
アメリカの教育家。「アメリカ公教育の父」と呼ばれており,その改革案は多くの点で現代公教育の基盤をなしている。貧困と逆境のなかで育ち,ようやくブラウン大学に入学を許され,1819年卒業。生涯の仕事として法曹界入りを希望し,23年弁護士となる。 27~33年マサチューセッツ州議会議員,35~37年同州上院議員,37~48年同州教育委員会初代教育長。この間公立学校制度の改革,教師の待遇改善などを行い,またアメリカ合衆国初の師範学校の創設 (1839) に尽力した。のち連邦下院議員 (48~53) ,アンティオーク大学学長 (52~59) をつとめ,教育改革に貢献した。

マン
Mann, Klaus

[生]1906.11.18. ミュンヘン
[没]1949.5.22. カンヌ
ドイツの小説家。トーマス・マンの長男。 18歳で文筆生活に入り,ベルリンで劇評家,ジャーナリストをしていたが,1933年アムステルダムに亡命。同地で亡命者の雑誌『集合』 Die Sammlungを発行。 36年渡米し帰化,アメリカ兵としてアフリカ戦線で戦った。行動的に自由の世界を切り開こうとしたが,フランスで自殺した。第2次世界大戦後の混乱のなかで精神の無力に絶望した世代の典型といえる。小説『悲愴交響曲』 Symphonie pathétique (1935) ,自叙伝『転回点』 The Turning Point (42) などがある。

マン
Mann, Thomas(Tom)

[生]1856.4.15. ウォリックシャー,フォールズヒル
[没]1941.3.13. ヨークシャー,グラシントン
イギリスの労働運動指導者。通称トム・マン。 1881年合同機械工労働組合に加入。 89年ロンドンの港湾労働組合初代委員長となり,最低賃金制,8時間労働制,労働権を要求して港湾ストライキを指導。独立労働党の結成に尽力し,94~97年全国書記。 96年国際船舶・港湾・河川労働組合連盟を創設し,初代委員長となった。 1916年イギリス社会党に加入,20年にはイギリス共産党の創立に加わった。

マン
MAN AG

ドイツのエンジン,機械会社。 1986年 M.A.N.マシネンファブリク・アウクスブルク=ニュルンベルク (持株会社) とグーテホフヌングスヒュッテとの合併により設立。トラックやバス,印刷機械,鉄鋼の生産を中心にプラント建設,ディーゼルエンジン,タービン,ボイラ,土木機械などを手がける。輸出は全体の約6割,そのほぼ半分がヨーロッパ向けである。年間売上高 213億 5400万マルク,総資産 140億 2200万マルク,従業員数6万 2564名 (1997) 。

マン
Mun, Albert, Comte de

[生]1841.2.28. セーヌエマルヌ,リュミニー
[没]1914.10.6. ボルドー
フランスの政治家。キリスト教社会主義者。 1870年普仏戦争の際,メッスで捕虜となったが,そのときキリスト教的社会活動に献身することを決意。 71年「労働者カトリック・クラブ」を設立,81年より雑誌『カトリック協会』を発行した。ブーランジェ事件に共鳴し,反教権主義政策に反対した。 97年アカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。

マン
Man

コートジボアール西部の町。マン県の県都。ブワケ西南西約 280kmに位置。ダン族の交易中心地で,カカオ,コーヒー,木材,畜産物などを集散。南方に豊富な鉄鉱石の鉱脈が発見され,ヨーロッパ,アメリカ,日本の協力により,1980年代に開発が始まった。象牙細工の伝統工芸も有名。国内空港がある。人口8万 8294 (1988) 。

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