イグナティウスデロヨラ(読み)いぐなてぃうすでろよら(その他表記)Ignatius de Loyola

デジタル大辞泉 「イグナティウスデロヨラ」の意味・読み・例文・類語

イグナティウス‐デ‐ロヨラ(Ignatius de Loyola)

[1491?~1556]スペイン宗教家。スペイン北部バスク州のロヨラ城主の子。清貧貞潔を掲げてイエズス会創立プロテスタント宗教改革に対抗し、カトリック失地回復異邦人への伝道尽力

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イグナティウスデロヨラ」の意味・わかりやすい解説

イグナティウス・デ・ロヨラ
いぐなてぃうすでろよら
Ignatius de Loyola
(1491―1556)

イエズス会の創立者。本名イニゴ・ロペス・デ・レカルデÍñigo López de Recalde。スペイン、バスク地方ロヨラの貴族の出身。若くして軍隊に入り、指揮官にまで昇進した。1521年にフランス軍がパンプロナを包囲すると徹底抗戦を主張、奮戦中に負傷した。自宅療養中に手近にあった聖人伝を読むうちに回心、以後キリストの兵士になることを決意した。回復後、カタルーニャのマンレーサで1年間修道生活を送り、この間に後世有名な『霊操』Ejercicios Espiritualesの大部分を書いた。その後エルサレムに巡礼、帰国するとスペインのアルカラとサラマンカの両大学に在籍、勉学と同時に宣教活動も始め、一時は異端審問所から疑惑を受けて投獄された。1528年パリ大学に進み、1534年には学位を受けた。同時にここでディエゴ・ライーネスDiego Laínez(1512―1565)、フランシスコ・ハビエール(ザビエル)など6名の同志を得、後のイエズス会創立につながる清貧、貞潔、宣教を内容とした誓いをたてた(1534)。一行は、所期のエルサレム渡航を政治情勢の悪化によって阻まれたため、教皇の指示に従ってイタリア各地で宣教と教会改革に取り組んだ。そのなかでイグナティウスは、神に仕える兵士団としての新しい修道会の構想を固め、その会則を定めた。会則は1540年に教皇の認可を得、ここにイエズス会が公式に成立した。翌1541年イグナティウスは全員一致で初代総長に選出され、会の内部組織の確立を図り、また各地への会の進出に努めた。1556年7月31日ローマで没した。ちなみにイエズス会の総長職は終身制。1622年教皇グレゴリウス15世Gregorius ⅩⅤ(在位1621~1623)によって列聖。

[小林一宏 2017年11月17日]

『霊操刊行会訳『霊操』(1956・エンデルレ書店)』『A・エバンヘリスタ、佐々木孝訳・編『ロヨラのイグナチオ――その自伝と日記』(1966・桂書房)』『門脇佳吉訳『霊操』(岩波文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「イグナティウスデロヨラ」の意味・わかりやすい解説

イグナティウス・デ・ロヨラ
Ignatius de Loyola
生没年:1491-1556

イエズス会の創立者。洗礼名はイニゴ,スペイン北部バスクのギプスコアにあるロヨラ城に生まれ,宮廷教育(1506-17)を受けた後,ナバラのスペイン副王の軍人(1518-21)となった。対仏戦争に従軍,1521年5月20日パンプローナの戦で両足に砲弾を受け重傷を負った。ロヨラ城の病床にあってこれまで〈世俗の虚栄に溺れていた〉彼はヤコブス・デ・ウォラギネの《黄金伝説》とルドルフ・フォン・ザクセンの《キリストの生涯》に感動し,回心の光を見た。彼は死の危機をさまよったが,21年秋回復,翌年3月モンセラートのベネディクト修道院を訪れて罪の告白をし,その近くのマンレサで黙想と苦行の生活(1522-23)を送った。これは彼の著作《霊操(心霊修行)》(1548)の基本となった。エルサレム巡礼(1523-24)後,バルセロナでラテン語(1524-26),アルカラとサラマンカで高等教育(1526-27),パリで哲学と神学(1528-35)を学び,36年ベネチアで神学を修了して翌年6月24日司祭に叙階された。このころ彼はその名イニゴにかえてアンティオキアのイグナティオスの名を使うことにした。37年末からローマに定住し,《会掟草案》を書き,40年9月教皇パウルス3世によってイエズス会創立が認可されるや,41年4月8日総長に選ばれ,没する時までその職に献身した。ローマ学院の創立(1551)でも知られる。彼の中心思想は〈キリストへの従い〉と〈教会奉仕〉の霊性にある。
イエズス会
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百科事典マイペディア 「イグナティウスデロヨラ」の意味・わかりやすい解説

イグナティウス・デ・ロヨラ

イエズス会創立者,聖人。スペイン,バスク地方の出身。軍人であったが,1521年負傷を機に回心,エルサレム巡礼ののち,バルセロナ,サラマンカ,パリなどで学び,1534年パリで7人の同志とともにイエズス会を結成(1541年以降総長),1537年司祭叙階。主著《心霊修業(霊操)》(1548年)は瞑想,苦行を通じての〈キリストのまねび〉を説く独創作。
→関連項目モンセラー[山]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イグナティウスデロヨラ」の解説

イグナティウス・デ・ロヨラ

ロヨラ

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のイグナティウスデロヨラの言及

【イエズス会】より

…カトリック教会内の司祭修道会の一つ。16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された(図)。耶蘇(やそ)会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。…

【キリスト教】より

…これらは厳格な会則をもつ修道会ではなく,社会的活動をめざす共同体である。 反宗教改革のにない手となったイエズス会は,イグナティウス・デ・ロヨラが起こしたもので(1540認可),これは〈戦闘部隊〉という意味でカンパニアと称された。1558年の会憲によれば,総会長の上に教皇が絶対の首長となり,会士はその命令に絶対に服従しなければならない。…

【涙】より

…しかもそれが受苦と悲哀の度合を深めるときは,しばしば失明の誘因となった。イエズス会の創立者であるイグナティウス・デ・ロヨラは,その《心霊日記》のなかで,祈りと観想のなかで流した涙について克明に記述し,ときに過度の流涙によって失明するのではないかとのおそれを告白している。また中国の浄土教の大成者である善導は,《往生礼讃偈》のなかで3種の懺悔を挙げ,流血・流涙による懺悔の重要性について論じているが,この考えは日本の親鸞の《教行信証》にも受けつがれた。…

【バロック】より

…こうして,従来は超自然的な霊感のうちにのみ求められていた力が,人間の意志に与えられることになる。イエズス会の開祖イグナティウス・デ・ロヨラは,〈私はいつでも,自分の欲するときに神を見いだすことができる〉とも,また,身体が〈進み,歩き,走る〉ことで訓練されるように,意志も訓練によって〈神意を見いだしうる〉ようになる,と述べている。そしてこのような自由意志の肯定と重視は,イエズス会を欲望の解放の時代にふさわしい活動的な集団たらしめた。…

※「イグナティウスデロヨラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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