イソクラテス(英語表記)Isokratēs

デジタル大辞泉 「イソクラテス」の意味・読み・例文・類語

イソクラテス(Isokratēs)

[前436~前338]古代ギリシャ、アテネ弁論家修辞家。ゴルギアス修辞学を学び、多くの子弟を教育。ペルシア征討を主張した「パネギュリコス(オリンピア大祭演説)」などで、散文の完成者とされる。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「イソクラテス」の意味・読み・例文・類語

イソクラテス

  1. ( Isokratēs ) 古代ギリシアアテナイ(アテネ)の弁論家。学園を創設し、修辞学を教えた。アテナイとスパルタ先頭に立ってペルシアを征討すべきだと説いた演説など残存。(前四三六‐前三三八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「イソクラテス」の意味・わかりやすい解説

イソクラテス
Isokratēs
生没年:前436-前338

古代ギリシア,アテナイの弁論家。若いころソフィストのゴルギアスに修辞学を学び,のちアテナイに弁論術の学塾を開き多数の門弟を育てて広く名声をはせた。生来声が小さく実際演壇には立たなかったが,自分の政治・教育理念を訴えるために多くの演説形式の評論を書いた。書簡をふくめて約30編の作品が,中世以来の写本のほか,部分的ではあるが1~2世紀ごろのパピルスによっても伝わっている。それらは,ポリス内部での党争,亡命者と傭兵の増大などの問題をかかえた前4世紀のギリシア社会を知る重要な資料である。彼は,〈ギリシア人の血をひいていなくてもその文化をわかちあう人はギリシア人である〉というすでにヘレニズム時代を予見した考えをもっており,その見地から,ギリシアの諸ポリスが和解協力して共通の敵ペルシアを討つことを願っていた。《オリュンピア大祭演説》(前380)においてその主導権をアテナイに託したが果たされず,彼の念願は,マケドニア王フィリッポス2世(《フィリッポス》前346)とその息子アレクサンドロス大王によって達成されることになる。彼は哲学者プラトンより10歳ほど年長でソクラテスのもとへも出入りしたが,抽象的なイデアの世界を追求したプラトンとは異なり,実践的な知の涵養こそがフィロソフィアであると説いた。作品中最も長い《財産交換について》(前353ころ)は,82歳の作者が法廷弁論の形式を借りてみずからの弁論家としての立場を披瀝(ひれき)した教育論である。彼はソフィストたちの弁論が陥る倫理的無責任を非難し,弁論は単なる説得の技術にとどまらず人間の英知の表現手段としての役割をもつべきだと主張した。この理想は,幾層にも分岐しながら一つのまとまりをもつ息の長いよく均衡のとれた独自の文体とあいまって,ローマキケロから絶賛され,さらにエラスムスらルネサンス期の人文主義者を経て近代の弁論に深い影響を与えた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「イソクラテス」の意味・わかりやすい解説

イソクラテス

ギリシアの弁論家。アテナイに弁論術の学校を開いて多くの大雄弁家を育てた。時に冗長であるが流れるような美文によってギリシア散文を完成させた。演説形式の評論と書簡が約30編伝わり,当時のギリシア社会を知る重要な資料である。ローマのキケロが絶賛し,エラスムスなどルネサンスの人文主義や近代の弁論にも影響を与えた。
→関連項目ヒュペレイデス

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イソクラテス」の意味・わかりやすい解説

イソクラテス
いそくらてす
Isokratēs
(前436―前338)

アテネの修辞家、政治評論家。ゴルギアスに学び、法廷弁論執筆にも携わったが、紀元前392年ごろアテネに学校を開き、政治家ティモテオスをはじめ多くの子弟を教育した。有力ポリス間の和解とペルシア遠征とを唱えた前380年の『オリンピア大祭演説』Panegyrikos、ペルシア征討をマケドニアのフィリッポス2世に期待した前346年の『フィリッポス』Philipposなどの政治評論は、前4世紀のギリシア社会の問題点をよくとらえたものとして重視されている。演説形式の作品21編、書簡9編が伝存しており、その技巧に富んだ文章は散文の模範として、キケロを通じて近代まで大きな影響力をもった。

[中村 純]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イソクラテス」の意味・わかりやすい解説

イソクラテス
Isokratēs

[生]前436. アテネ
[没]前338. アテネ
ギリシアの散文作家,雄弁家,教育者。アッチカ十大雄弁家の一人。修辞学教師から法廷演説代作者を経て,前 392年頃ソフィストの学校とは異なる学校を開き,人格形成,全人教育を目的に雄弁術のみならず広く一般教養を教え,道徳性を重んじた。開設以来全ギリシア世界から弟子を集め,すぐれた政治家,雄弁家,歴史家を輩出した。政論家としては一貫してギリシア統一とペルシア遠征を説いて,ヘレニズムの先覚者となり,散文作家としてはリズムと調和を重んじて,響きの美しい言葉と長い副文の積重ねによって均整のとれた流麗豊満な文体を生み出した。作品は演説や論文 21編と書簡9編が伝わる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「イソクラテス」の解説

イソクラテス
Isokrates

前436~前338

アテネの修辞・弁論家。若くしてソクラテスおよびソフィストたちの影響を受けた。前392年頃青年子弟のための学校を開く。視野の広い政治評論家として活躍し,ギリシアの統合とペルシアへの遠征を主張した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「イソクラテス」の解説

イソクラテス
Isokratēs

前436〜前338
パン−ヘラス主義(大ギリシア主義)を主張したアテネの弁論家
ゴルギアスに学び,プラトン学派と対立しながら弁論・修辞を教えた。マケドニア王フィリッポス2世による全ギリシアの統一とペルシア遠征を主張してデモステネスと対立し,カイロネイアの戦いののちに断食して死んだ。演説・評論がいくつか残存。キケロへの影響がみられる。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のイソクラテスの言及

【ギリシア文学】より

… 前4世紀初めのアテナイの文人たちの活動にはこのような幻滅感,ないしは遠心性ともいうべき特色が顕著ではあるが,反面,法廷や議会,祝典などの制度上の民主的機能の復活とともに,優れた弁論家が輩出し,名文を数多く後世に残していることも大きな特色である。リュシアスはもっとも純粋なアッティカ散文と称される弁論体によって,法廷弁論をつづり,イソクラテスは華麗な文体を駆使して全ギリシア的和合を目ざす政治と文化の理念を説く。中でもデモステネスの政治弁論はまさに壮絶といわねばならない。…

【ゴルギアス】より

…ソフィストとして活動を始めたのもこのころからであろうが,弁論術中心の教授法によってギリシア全土に名声を博した。その理念と方法は,イソクラテスの弁論術学校に継承発展され,さらに後の西欧文化の伝統にまで影響を与えている。また彼の華麗な文章技巧や修辞法は,ギリシア散文の発展に大きく貢献した。…

【修辞学校】より

…古代ギリシアでは民主政治の発展とともに政界進出の技能としての弁論術が重視されるようになった。このような時代風潮のなかで,プロタゴラスやゴルギアスなどのソフィストたちは諸地方を回り有為の青年たちに弁論術を教えたが,イソクラテスは前390年ころアテナイのリュケイオンの近くに修辞学校を開設し名声を博した。この学校は哲学的教養を重視するプラトンのアカデメイアとは対照的に,弁論術にたけた世俗的に有能な者の養成を主眼としていたが,彼の死後も勢力を保ち,これを範とした修辞学校が各地に設立された。…

※「イソクラテス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android