デモステネス(英語表記)Dēmosthenēs

デジタル大辞泉 「デモステネス」の意味・読み・例文・類語

デモステネス(Dēmosthenēs)

[前384~前322]古代ギリシャ、アテネ雄弁家マケドニアの侵略を警告し、アテネの自由を守るよう説いた。マケドニアによるギリシャ統一後、親マケドニア派に追われて自殺。

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精選版 日本国語大辞典 「デモステネス」の意味・読み・例文・類語

デモステネス

  1. ( Dēmosthenēs ) 古代ギリシア、アテナイ政治家。法廷弁論家として活躍。マケドニアの介入からギリシアの自由を守るよう説いた。マケドニア軍のアテナイ進駐の際、追われて服毒自殺した。(前三八四‐前三二二

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改訂新版 世界大百科事典 「デモステネス」の意味・わかりやすい解説

デモステネス
Dēmosthenēs
生没年:前384-前322

古代アテナイの政治家,雄弁家。アテナイの富裕な工業家であった父と幼いころに死別し,後見人による不正行為のために遺産を失ったため,若いころから法廷演説の草稿書きや修辞の教師をした。後見人の一人を訴えた演説が最初の民事関係の弁論で,これは当時の社会経済を知る貴重な史料である。前350年代中ごろからは公法および政治問題に関する演説によって法廷と議会で活躍する。フィリッポス2世の率いる新興国マケドニアがギリシア本土の内紛に乗じて勢力を伸張してくる情勢に対抗し,前351年からの10年間に《反フィリッポス演説》と同盟市オリュントスを支援する演説各3編を発表して反マケドニアの立場を鮮明にした。ヒュペレイデス,リュクルゴスらとともに,ギリシアの自由と独立を守るにはアテナイを中心とする都市国家の結束が必要であると訴え,テーバイを同盟側につけたが,カイロネイアの戦(前338)には完敗した。アテナイ内部では反戦・親マケドニア派のアイスキネスやイソクラテスと対立し,前者との論戦で公にした《栄冠論》(前330)はことに名高い。前324年マケドニア側からの逃亡者にまつわる事件で収賄の疑いをかけられ,敗訴して一時追放された。アレクサンドロス大王の没後もペロポネソス諸都市を遊説してギリシア再興をよびかけたが,前322年の敗戦でアテナイはマケドニアに降伏し,死刑を宣告された彼は追手を逃れてみずから毒を仰いだ。

 彼の名のもとに伝わる61編の作品中には偽作や同時代人の作も含まれるが,古代以来彼の弁論は,先行のアテナイの弁論作者たちの優雅さ,簡潔さを備えたうえに独自の力強さをもつとして称賛され,祖国愛に支えられた理想とあいまって近代欧米の議会演説にも大きな影響を与えた。歴史的に評価すれば,彼はフィリッポスの対ギリシア政策を誤解しており,イソクラテスのほうが時代を見通していたとされる。デモステネスは自由独立の市民団こそ都市国家の本質であるとする考えに殉じた最後の政治家といえよう。
執筆者:


デモステネス
Dēmosthenēs
生没年:?-前413

ペロポネソス戦争中に活躍したアテナイの将軍。とくに前425年,ペロポネソス半島南西岸ピュロス攻略の際,スファクテリア島においてスパルタ重装歩兵の一隊を捕虜とする武功をたてた。前413年,劣勢明らかとなったニキアス麾下のシチリア遠征軍の救援に赴き,敗走するアテナイ軍の後衛に任じたが,力尽き投降して処刑された。純然たる軍事指導者として終始し,政治家としての活動は行わなかった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「デモステネス」の意味・わかりやすい解説

デモステネス(雄弁家、政治家)
でもすてねす
Demosthenes
(前384―前322)

古代ギリシア、アテネの雄弁家、政治家。富裕な手工業者の家に生まれ、7歳で孤児となる。父の遺産を横領した後見人たちを告訴するためイサイオスに雄弁術を学び、法廷弁論の草稿書きや雄弁術の教師として生計をたてた。彼の名の下に伝わる民事関係の法廷弁論は、社会経済史の貴重な史料となっている。紀元前355年ころからは政治的弁論家としても登場し、マケドニアのフィリッポス2世攻撃の演説を繰り返し行い、ギリシアの自由を守るためにアテネ市民の決起を促した。そしてアテネとテーベとの同盟を成立させてマケドニアに決戦を挑んだが、前338年カイロネイアの戦いで完敗した。フィリッポス2世の没(前336)後、ギリシアの自由回復を図ったが失敗し、亡命した。フィリッポス2世の後を継いだアレクサンドロス大王の没(前323)後、帰国して再度反マケドニア運動を企てたが、ラミア戦争に敗れた。サロン湾内のカラウレイア島に逃れたが追跡され、毒を仰いで自殺した。

[篠崎三男]


デモステネス(将軍)
でもすてねす
Demosthenes
(?―前413)

アテネの将軍。ペロポネソス戦争中、各地に転戦して戦功をあげた。とくに紀元前425年には、スパルタ軍の一部をピロスのスファクテリア島に封鎖することに成功。前413年、ニキアス救援のためシチリアに赴き、制海権を失う前の早期撤退主張したがいれられず、陸路による撤退の後陣を務めて、シラクサ軍に降伏、処刑された。有能な戦略家であったが、政治的野心はなかった。

[中村 純]

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百科事典マイペディア 「デモステネス」の意味・わかりやすい解説

デモステネス

古代アテナイの政治家,雄弁家。《反フィリッポス演説》ほかを発表して反マケドニアの立場にたち,愛国心を鼓吹し,テーバイを引き入れてマケドニアに対抗。カイロネイアの戦に敗れた後も反マケドニア主義を堅持,のちアテナイをのがれ,服毒自殺。《栄冠論》など作品61編が伝わるが偽作が多い。
→関連項目アイスキネスヒュペレイデス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デモステネス」の意味・わかりやすい解説

デモステネス
Dēmosthenēs

[生]?
[没]前413
古代ギリシア,アテネの将軍。ペロポネソス戦争で活躍。前 426年コリントの植民市レウカおよびボイオチア攻略に失敗。しかしその後,ナウパクトス防衛とアムフィロキアのオルパエとイドメネでの二大勝利により令名をはせた。前 425年には海軍を率いて,メッセニアのピュロスを占拠し,クレオンとともにスファクテリアにあったスパルタ軍を破り,重装歩兵 (ホプリタイ ) の一団を捕虜にした。翌年メガラ,ボイオチア攻略に失敗。前 413年ニキアス援助のため,シラクサに派遣されたが,エピポラエ夜襲に失敗,退却の機を逸して降伏,処刑された。有能な軍人ではあったが,政治の場に立つことはなく,戦略家として知られた。

デモステネス
Dēmosthenēs

[生]前384/前383. アテネ,パイアニア
[没]前322. カラウリア(現ポロス)島
古代ギリシア最大の雄弁家。イサイオスの門に学んでから法廷演説家として出発し,やがて政界に入り,特に愛国者として反マケドニア運動の先頭に立ち,力と情熱を傾けた議会演説によって祖国の奮起を促した。彼の名で伝わる 61編の演説のうちで特に有名なものは,『フィリッポス弾劾・第1~第3』 Philippikaをはじめとする政治演説で,その文体は初めはイソクラテスの影響で調和と洗練を示したが,次第に情熱的な個性がほとばしり,重厚さと盛上がりによって人を圧するものとなった。アレクサンドロス大王の死後再び反マケドニア運動を行い,失敗して追及を受け,服毒自殺した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「デモステネス」の解説

デモステネス
Demosthenes

前384~前322

アテネの弁論家,政治家。7歳で孤児となり,父の遺産を横領した後見人たちを弾劾するため弁論術を学ぶ。その習得に成功してのち,職業的な法廷用弁論作者となる。政治家としては,当時強大になりつつあったマケドニアについて,ギリシア人たちに警告を与え,反マケドニア派の中心人物となった。しかしマケドニアのギリシア支配が実現され,抵抗運動を試みたが挫折して自殺。

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旺文社世界史事典 三訂版 「デモステネス」の解説

デモステネス
Demosthenes

前384〜前322
古代ギリシアのアテネの政治家・雄弁家
「フィリッピカ」などの演説でマケドニア王フィリッポス2世を攻撃し,ギリシア全土は結束してこれにあたれと主張,ギリシアのポリスをして反マケドニア同盟を結成させた。しかし,カイロネイアの戦い(前338)に敗れ,フィリッポスの死とともに再興をはかったが成功せず,自殺した。

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とっさの日本語便利帳 「デモステネス」の解説

デモステネス

話すことの二倍、人から聞くべきである。\デモステネス
ギリシャの政治家(前三八四~三二二)。

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世界大百科事典(旧版)内のデモステネスの言及

【ヘレニズム美術】より

…それは,多くの肖像の傑作を生んだ。ローマ時代のいくつかの模刻で伝えられているアテナイの雄弁家デモステネスの像は,この時代の彫刻家が,いかに人間の内面を具象化することができたかを語っている(コペンハーゲン,ニ・カルルスベルク彫刻館ほか)。これら模刻像の原作は,前280年,すなわちデモステネスの死後42年を経て制作されたものではあるが,そこには,志を果たすことなく世を去った悲劇的な愛国者の意思と性格が,簡潔な形でもってみごとに表現されている。…

【ギリシア文学】より

…リュシアスはもっとも純粋なアッティカ散文と称される弁論体によって,法廷弁論をつづり,イソクラテスは華麗な文体を駆使して全ギリシア的和合を目ざす政治と文化の理念を説く。中でもデモステネスの政治弁論はまさに壮絶といわねばならない。彼は,北方からギリシア全土の併呑をたくらむマケドニアの王フィリッポス2世に対抗して,ギリシアの自由を主張して果敢な論陣を張り,みずからの命をもってその政治責任を負う。…

【アイスキネス】より

…アテナイの政治家,弁論家。前4世紀後半のアテナイで,当時北方よりギリシア本土に勢力を伸ばしつつあったマケドニアへの対抗策をめぐり,強硬論を主張する代表的な政治家デモステネスと激しく対立し,裁判でも再三争ったが,前330年敗れてロドス島に隠棲した。両者の法廷弁論は,当時のアテナイの内政と外交の実状を明かす貴重な史料をなしている。…

【ギリシア文学】より

…リュシアスはもっとも純粋なアッティカ散文と称される弁論体によって,法廷弁論をつづり,イソクラテスは華麗な文体を駆使して全ギリシア的和合を目ざす政治と文化の理念を説く。中でもデモステネスの政治弁論はまさに壮絶といわねばならない。彼は,北方からギリシア全土の併呑をたくらむマケドニアの王フィリッポス2世に対抗して,ギリシアの自由を主張して果敢な論陣を張り,みずからの命をもってその政治責任を負う。…

【ヒュペレイデス】より

…アテナイの弁論家。リュクルゴスデモステネスと協調して,マケドニア勢力のギリシアへの進出を阻止するために活躍した。しばしば外地へ赴いて同盟結成を訴え,前340年アテナイがマケドニアに宣戦すると,私財を投じて三段橈船を仕立ててビザンティン攻防戦に参加したり,前338年アテナイ側の敗北後も抵抗を続け,奴隷を解放して市民軍を強化する提案を行ったりした。…

※「デモステネス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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