改訂新版 世界大百科事典 「イリュリア人」の意味・わかりやすい解説
イリュリア人 (イリュリアじん)
Ilirija
古代のバルカン半島西部の先住民で,これをギリシア人はイリュリオイIllyrioi,ローマ人はイリュリイIllyriiと呼んだ。いずれも古代インド・ヨーロッパ語系のいくつかの同族集団を指し,そのうち,ベネト族やダルマト族はベネチア,ダルマツィアに名をとどめている。語源については蛇ilurであろうという説が有力。彼らがバルカン半島に定着したのは前1000年ころと考えられるが,部族ごとに分裂し,長らく政治的中心を欠いていた。前3世紀ようやくシュコダル(アルバニア北部)を首都に,アドリア海沿岸部をネレトバ河口まで含めた国家を形成する。アグロンAgron王とその未亡人テウタTeuta女王の時代が最盛期だった。だが海賊行為を口実にローマから2度挑戦され(前229-前228,前219)南部を失った。前168年には国家も滅亡し,前11年ころにはローマ皇帝直轄属州となり,この地はイリュリクムと呼ばれていた。イリュリア人はローマ化されていったが,軍人として優れていたため多くの勇将を輩出し,アウレリアヌス,プロブス,ディオクレティアヌスなどローマ皇帝になった者も5名を数えた。6~7世紀に南スラブ人が到来,彼らの居住地を奪い同化していった。しかし半島南部にはこうした同化を免れた幾種族かがあって,彼ら特有の言語を保持しつつ現在のアルバニア人となったのだと考えられている。15世紀になってハルコンディラスなどのビザンティン人が,かつてのイリュリア地方に住む南スラブ人を誤ってイリュリア人と呼び始め,19世紀中葉まで誤解された。19世紀初頭に半島北西部を支配したナポレオンは,ここをイリュリア諸州と命名し,19世紀中葉クロアチアに起こった民族再生運動もイリュリア運動と名のった。イリュリア人の文化は,彼ら以前にバルカン半島全域に住んでいたトラキア人の文化,前4世紀に中央ヨーロッパから南下した一部ケルト人の文化と混合しているため,容易に特定し難い。また前5世紀ころからギリシア人はアドリア海沿岸都市(トロギル)や島嶼(フバル)に多くの植民都市を築いたのでギリシア文化の影響,下ってはローマ文化の圧倒的な影響を受けている。スロベニア共和国の首都リュブリャナに近い前7~前5世紀にかけてのバチェVače遺跡からは勇壮な騎馬像を浮彫した大ぶりの青銅製シトゥラ(バケツ),剣,矛,短剣,兜,胸当などの武器・武具,装身具,日常用品,祭器などが出土している(リュブリャナ国立博物館蔵)。またマケドニアのオフリト湖に近いトレベニシュテから出土した前6~前5世紀の黄金のマスク,青銅製クラテルなどの豪華な品々はベオグラード国立博物館に展示されている。彼らは文字を持たなかったため文書類は残っておらず,ギリシア文字やラテン文字で記されたイリュリア語のテキストもない。墓碑銘などもラテン文字(まれにはギリシア文字)で,しかもラテン語で書かれることもあった。彼らの事跡は,おもにローマの史家がローマに都合よく書いた記述に頼るほかなく,彼らの精神文化をうかがう手だてははなはだ乏しい。今日モンテネグロ沿岸コトル市に近いリサン村には,テウタ女王がローマ軍に敗れ投身自殺したと言い伝えられる岸辺がある。
執筆者:田中 一生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報