改訂新版 世界大百科事典 「イワン4世」の意味・わかりやすい解説
イワン[4世]
Ivan Ⅳ Vasil'evich
生没年:1530-84
モスクワ大公。在位1533-84年。ロシア史上最も強力かつ個性的な君主の一人で,イワン雷帝と呼ばれる。多くの歴史家や芸術家(A.K. トルストイ,レーピン,エイゼンシテイン)にとりあげられているが,1626年のモスクワ大火で記録の大半が焼失しているため,その生涯や人柄,政治的役割には不明の個所が多い。ワシーリー3世の子で3歳で即位し,1546年までは政権をめぐる有力貴族(ボヤーレ)の陰謀のなかで暮らしたが,府主教マカーリーからビザンティン風のキリスト教君主の理念を学び,47年そのすすめで正式にツァーリの称号をとった。イワンは後に,クルプスキーあての有名な書簡でもこの理念を実現するための絶対権力の必要を説いているが,この書簡は彼が当代一流の文章家・政論家でもあったことを物語っている。彼はこの時代の多くの君主と同様,君主権の神的起源を信じ,彼に対立するものには厳しい態度で臨み,とくにオプリチニナ期には大量の処刑者・犠牲者を出した。〈グローズヌイ(雷帝)〉というあだ名はその恐怖政治のためとされるが,元来は〈厳格な〉〈畏怖させる〉という意味で,暴君に対する形容ではなかった。イワンは気性が激しく,猜疑心も強く,81年にも息子イワンを口論の末打ち殺したが,1547年に結婚した最初の妃アナスタシアAnastasiya Romanovnaは,夫の怒りの発作をしずめることができたといわれ,イワンの治世も60年の彼女の死で二分されることが多い。
治世の前半は改革期で,ゼムスキー・ソボルの招集,新たな法令集(スジェブニク)の制定,ストグラフ会議の開催,中央と地方の行政と税制の整備,とくにコルムレニエkormlenie(住民負担の扶持による代官の支配)に代わる住民自治の導入,貴族と士族(ドボリャニン)の軍役義務の確定などの改革があいついだが,これを推進したのは有能な行政官アダシェフAleksei Fyodorovich Adashevを中心とするいわゆる〈選抜者会議〉であって,イワン自身の役割,功績ははっきりしない。この時期,対外的にはカザン・ハーン国とアストラハン・ハーン国の併合に続いて南方のクリム・ハーン国にも遠征軍が送られたが,イワンは北方への進出を優先させて1558年リボニア戦争を始め,アダシェフなどと対立した。彼は1553年重病で危うかった時,多くの重臣が彼の意に反して従弟のウラジーミル公Vladimir Andreevich Staritskii(1533-69)を後継者に推して以来,彼らに対して不信の念をもっており,60年アダシェフらを追放して国政を専断し始めた。イワンはリボニア戦争を継続する一方でオプリチニナ体制をしき,ウラジーミル公はじめ多数の有力貴族を倒し,また敵国との通謀の疑いでノブゴロドを破壊した。こうして彼は国家と社会を混乱におとしいれ,国土を疲弊させてスムータの遠因をつくったが,君主専制とバルト海への進出の課題はのちのピョートル1世などにうけつがれた。イワンとアナスタシアの子でボリス・ゴドゥノフの義弟,フョードル1世があとをついだ。
→モスクワ・ロシア
執筆者:鳥山 成人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報