インド統治法 (インドとうちほう)
The Government of India Acts
東インド会社からイギリスの王領に移管された後のインドに関しイギリス議会が制定した一連の基本法。その変遷はインドにおける代議制度発達の歴史であるとともに,イギリスとインド民族運動の対抗を反映したものである。以下には重要なもののみをとり上げる。最初の1858年法は王領への移管とこれに伴う一般的な事がらをのべている。つづく三つの法は61年,92年,1909年に制定され,いずれもインド統治法ではなく〈インド参事会法The Indian Councils Act〉という名になっている。それはこれらがおもに中央と州に設けられた行政および立法のための機関である参事会Councilに関するものであるからである。1861年法の規定では総督の下に5人の長官が任命され,総督を長とする参事会を構成する。これが行政部門である。これに同じく任命による若干名のメンバーを加えて拡大したものが立法機関である。このように行政と立法とは区別されていなかった。州においても単一の参事会が存在するだけであった。1892年法でもこの状態は変わらなかったが,各参事会で予算に関する討議と質問が許されるようになった。1909年法,つまりモーリー=ミントー改革によって初めて中央と州の両方で行政参事会と立法参事会が分離され,立法参事会で部分的に選挙制度が導入されたうえに予算以外の重要問題についても決議案の提出や質問が認められた。このときに導入された選挙制度は少数派であるムスリムに配慮した分離選挙制度である。
このときまでの州は名目的な存在で政府は事実上一つ中央にあるだけであった。第1次大戦後の二つの重要な改革である19年と35年のインド統治法の最大の眼目は州に実体をあたえることであった。これらはいずれも民族運動の発展にそなえてインド統治の仕方を詳細に定めており,インド政府法とよぶ方がふさわしい内容である。1919年法,つまりモンタギュー=チェルムスフォード報告による改革は州の予算を中央のそれから分離するとともに州独自の所管事項を定めた。また州議会では被選出議員が過半数をしめるようになった。しかし州の所管事項はさらに州議会議員の中から任命された閣僚の手にゆだねられるものと,従来通り州知事が任命する州の行政参事会の権限下に残るものに分けられた。議院内閣制が州政府の一部に限定してとり入れられたということであり,これを両頭制度Dyarchyとよぶ。中央では議会の権限がやや拡大しただけで行政部門には変化がなく,専制的というに近い体制が続いた。最後の重要な基本法である1935年法では総督にかなり強い権限を残しながらも,中央に一種の両頭制度を実現しようとしていたが,この部分は最後まで実現しなかった。前進がみられたのは州で,そこでは限定づきながら両頭体制がとり払われて一応議院内閣制が認められた。1909年以来,選挙権は次第に拡大したが独立にいたるまでは制限選挙であった。その一方,宗教を基本とする分離選挙制度は改革のたびに徹底したものになった。
→インド帝国
執筆者:山口 博一
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インド統治法
いんどとうちほう
The Government of India Acts
植民地インドの統治組織を定めた、イギリス議会の諸制定法の総称で、名称の異なる法律をも含む。統治法は、東インド会社が18世紀後半に領土経営を行うに及んで必要となったもので、19世紀なかば過ぎまでは、ロンドンの会社取締役会に対するイギリス政府の介入を強化し、インドにおける会社の統治機構を整序するのがその主目的であった。
ベンガル総督を置き、総督の取締役会あて通報の、関係閣僚へ報告を命じた1772年の規制法、閣僚2名を含む監督庁(インド問題委員会)の設置と総督、知事、軍司令官の社外からの任用とを定めた1784年のいわゆる「ピットのインド法」、東インド会社のインド貿易独占権を撤廃し領土をイギリスの主権下に置いた1813年特許法、会社の貿易機能を廃して植民地経営会社とし、ベンガル総督をインド総督に改め、「参事会における総督」に立法権を付与した1833年特許法、インド高等文官職の公開試験制度を導入した1853年特許法がその時期に属する。
インドの大反乱(セポイの反乱)後の1858年のインド統治改善法は、東インド会社を廃止してイギリス政府にインド大臣とインド省参事会を設け、総督を副王に併任してインドを国王植民地とした。1861年以後の数次のインド参事会法は、総督および州総督の行政参事会と、それに付加議員を加えて構成する立法参事会との組織を規定した。立法参事会の権能強化とそれへの民選議員の参加とが民族運動の要求として提起され、イギリスは総督と知事の最終決定権を留保しつつ部分的譲歩を重ねた。1892年法は付加議員の半数に非官吏をあて、その一部に間接選挙を採用し、立法参事会の予算質疑権を認めた。1909年法(モーリー・ミントー改革)は経済界の利益代表を立法参事会に加え、ムスリムの宗派指定議席と分離選挙を導入したが、民選議員を増員し、立法参事会の予算に関する決議権を認めた。1919年法(モンタギュー・チェルムズフォード改革)は中央立法府に二院制を採用し、中央と州を通じて民選議員数を増員し、多様な利益代表や宗派別選挙を伴いながらも直接選挙制を導入し、州所管事項の一部を、州立法参事会に基礎を置くインド人州大臣に移管して、民族運動の責任政府樹立要求に部分的に応じた。1935年法は藩王国をも含む連邦制を規定し、総督と州知事の最終決定権を留保のうえで、中央と州の責任政府を導入したが、中央政府関係の規定はついに実施されず、州自治も第二次世界大戦時の政情混乱のため十分には機能しなかった。
[高畠 稔]
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インド統治法
インドとうちほう
Government of India Act
イギリスが植民地インドの統治の大綱を定めた法。イギリス東インド会社のベンガル領有後イギリス議会が制定した多くの規制法。特許状法,直接統治時代に入ってからの多数の参事会法や統治法などをさす。まず 1773年ノースの規制法で,インドにおける最高統治機関として,ベンガル総督と参事会と高等法院を定め,1813年の特許状法で東インド会社の貿易独占権を大幅に制限。 33年の特許状法で会社の商業活動を廃止して統治専門とし,ベンガル総督をインド総督に改め,総督の立法権を強化した。 57年インド大反乱が起るとインド統治改善法を制定して,東インド会社の廃止と国王の名によるイギリス政府の直接統治を定め,内閣にインド担当国務大臣,その下にインド省を設け,大臣の補助機関としてインド評議会を設けて直接統治の機構を整備した。 61年のインド参事会法で総督の参事会の構成の整備を行い,マドラス,ボンベイ両州の立法権を認めた。第1次世界大戦後の民族運動に促されて成立した 1919年統治法はイギリス領インドを8つの知事管轄州に分け,州自治をある程度認めると宣伝したが,実際には州の知事と中央の総督の権限が強く,自治は空文に終った。この欺瞞的な改革へのインド人の反抗によって 35年に新しい統治法が制定された。これはインドを連邦制とし,中央に選挙による上下両院の立法府と,地方には州議会と議会に責任を負う行政府を設けた。この統治法によって州ではインド人の自治権が多少は認められたが,総督の任命する州知事が強大な権力を留保し,中央でも総督の権限は強大であった。この骨抜きされた自治に対するインド人の不満は完全自治要求から独立運動へと進み,第2次世界大戦後の 47年に独立を認めることとなった。
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インド統治法(インドとうちほう)
Government of India Acts
インド統治のためにイギリス議会が制定した一群の法律の総称。狭義には,1858年以降に制定された一連のインド統治法および61年と92年のインド参事会法をさす。広義には,ノースの規制法(1773年),ピットのインド法(1784年),イギリス東インド会社特許状法(1793,1813,33,53年)などの法律も含める。19世紀後半以降,インド統治法は,たんに植民地の行政制度を定めるだけでなく,議会制を限定的に導入するなどしてインド人の政治的不満を和らげると同時に,分離選挙制度を導入するなどして民族運動を分断するためにも使われた。立法にインド人が参加する道を開いた61年参事会法,モーリー‐ミントー改革で制定された1909年統治法,モンタギュー‐チェムスファド改革で制定された1919年統治法,サイモン委員会の勧告を受けて制定された1935年統治法が重要である。35年統治法の規定の多くは,インド憲法に取り入れられている。
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インド統治法
インドとうちほう
Government of India Act
イギリス議会がインド統治に関して定めた諸法
東インド会社時代の規制法(ベンガル総督の新設1773),インド法(監督局の新設1784),直接統治時代の統治改善法(1858),イギリス国王がインド皇帝となった国王称号法(1876),インド参事会法(モーリー・ミント改革1909),インド統治法(モンターギュ改革1919),連邦制の樹立と各州の責任自治制の確立を認めた新インド統治法(1935),1939年のインド統治法などがある。これらの法はいずれも議会と政府の至上権と総督の権力集中を目的としたので,インド民衆はつねに反対し,独立の日まで闘った。
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「インド統治法」の意味・わかりやすい解説
インド統治法【インドとうちほう】
英議会がインド統治のために定めた法律の総称。おもなものに,インド帝国の成立を定めたインド統治改善法(1858年)や,インド参事会法(1909年),州自治制を定めたモンタギュー=チェルムスフォード法(1919年)等がある。
→関連項目南アジア
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世界大百科事典(旧版)内のインド統治法の言及
【インド】より
… 第1次世界大戦が始まると,インド人は多大の犠牲を払ってイギリスに協力し,その代償として自治権を漸次付与するという公約をかち取った。しかし戦後の19年に制定されたインド統治法ではその公約は十分に果たされておらず,かえって民族運動の弾圧を目的としたローラット法が施行されたため,インド人の失望は大きかった。この時期に反英運動の指導者として登場したのがM.K.ガンディーで,彼はローラット法に反対してハルタル(罷業)を宣言し,また20年から22年にかけて国民会議派とムスリム連盟を指導して非暴力不服従運動を展開した。…
【インド帝国】より
…イギリスが面積,人口ともはるかに大きなインドを2世紀近く支配することができたのにはいくつかの理由がある。第1はイギリスの統治機構が全く硬直したものではなく,[インド統治法]の制定にみられるように民族運動の要求にたいし少しずつ譲歩を行い,穏健派をその内部にとり込んできたことである。第2はインド人内部のさまざまな生得の区分を利用して分割統治を行うことにかなり成功したことである。…
【不可触民】より
… イギリスの植民地であったインドで,19世紀半ばごろから,社会改革家や都市に住む不可触民の間に,不可触民の地位向上を目ざす運動がみられるようになった。20世紀に入ると,イギリスは分割統治政策の一環として不可触民の代表に立法府の議席を与える方策をとり,また1935年の[インド統治法]では不可触民を〈指定カースト〉と呼び保護を加えている。これに対し,民族運動の指導政党である国民会議派も,1917年の年次大会で不可触民制撤廃を綱領の一つとして採用し,その後ガンディーの指導下に社会改革運動を進めた。…
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