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インド統治法 インドとうちほう Government of India Act

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

インド統治法
インドとうちほう
Government of India Act

イギリスが植民地インドの統治の大綱を定めた法。イギリス東インド会社ベンガル領有後イギリス議会が制定した多くの規制法。特許状法,直接統治時代に入ってからの多数の参事会法や統治法などをさす。

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百科事典マイペディアの解説

インド統治法【インドとうちほう】

英議会がインド統治のために定めた法律の総称。おもなものに,インド帝国の成立を定めたインド統治改善法(1858年)や,インド参事会法(1909年),州自治制を定めたモンタギュー=チェルムスフォード法(1919年)等がある。
→関連項目南アジア

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世界大百科事典 第2版の解説

インドとうちほう【インド統治法 The Government of India Acts】

東インド会社からイギリスの王領に移管された後のインドに関しイギリス議会が制定した一連の基本法。その変遷はインドにおける代議制度発達の歴史であるとともに,イギリスとインド民族運動の対抗を反映したものである。以下には重要なもののみをとり上げる。最初の1858年法は王領への移管とこれに伴う一般的な事がらをのべている。つづく三つの法は61年,92年,1909年に制定され,いずれもインド統治法ではなく〈インド参事会法The Indian Councils Act〉という名になっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

インド統治法
いんどとうちほう
The Government of India Acts

植民地インドの統治組織を定めた、イギリス議会の諸制定法の総称で、名称の異なる法律をも含む。統治法は、東インド会社が18世紀後半に領土経営を行うに及んで必要となったもので、19世紀なかば過ぎまでは、ロンドンの会社取締役会に対するイギリス政府の介入を強化し、インドにおける会社の統治機構を整序するのがその主目的であった。
 ベンガル総督を置き、総督の取締役会あて通報の、関係閣僚へ報告を命じた1772年の規制法、閣僚2名を含む監督庁(インド問題委員会)の設置と総督、知事、軍司令官の社外からの任用とを定めた1784年のいわゆる「ピットのインド法」、東インド会社のインド貿易独占権を撤廃し領土をイギリスの主権下に置いた1813年特許法、会社の貿易機能を廃して植民地経営会社とし、ベンガル総督をインド総督に改め、「参事会における総督」に立法権を付与した1833年特許法、インド高等文官職の公開試験制度を導入した1853年特許法がその時期に属する。
 インドの大反乱(セポイの反乱)後の1858年のインド統治改善法は、東インド会社を廃止してイギリス政府にインド大臣とインド省参事会を設け、総督を副王に併任してインドを国王植民地とした。1861年以後の数次のインド参事会法は、総督および州総督の行政参事会と、それに付加議員を加えて構成する立法参事会との組織を規定した。立法参事会の権能強化とそれへの民選議員の参加とが民族運動の要求として提起され、イギリスは総督と知事の最終決定権を留保しつつ部分的譲歩を重ねた。1892年法は付加議員の半数に非官吏をあて、その一部に間接選挙を採用し、立法参事会の予算質疑権を認めた。1909年法(モーリー・ミントー改革)は経済界の利益代表を立法参事会に加え、ムスリムの宗派指定議席と分離選挙を導入したが、民選議員を増員し、立法参事会の予算に関する決議権を認めた。1919年法(モンタギュー・チェルムズフォード改革)は中央立法府に二院制を採用し、中央と州を通じて民選議員数を増員し、多様な利益代表や宗派別選挙を伴いながらも直接選挙制を導入し、州所管事項の一部を、州立法参事会に基礎を置くインド人州大臣に移管して、民族運動の責任政府樹立要求に部分的に応じた。1935年法は藩王国をも含む連邦制を規定し、総督と州知事の最終決定権を留保のうえで、中央と州の責任政府を導入したが、中央政府関係の規定はついに実施されず、州自治も第二次世界大戦時の政情混乱のため十分には機能しなかった。[高畠 稔]

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世界大百科事典内のインド統治法の言及

【インド】より

… 第1次世界大戦が始まると,インド人は多大の犠牲を払ってイギリスに協力し,その代償として自治権を漸次付与するという公約をかち取った。しかし戦後の19年に制定されたインド統治法ではその公約は十分に果たされておらず,かえって民族運動の弾圧を目的としたローラット法が施行されたため,インド人の失望は大きかった。この時期に反英運動の指導者として登場したのがM.K.ガンディーで,彼はローラット法に反対してハルタル(罷業)を宣言し,また20年から22年にかけて国民会議派とムスリム連盟を指導して非暴力不服従運動を展開した。…

【インド帝国】より

…イギリスが面積,人口ともはるかに大きなインドを2世紀近く支配することができたのにはいくつかの理由がある。第1はイギリスの統治機構が全く硬直したものではなく,インド統治法の制定にみられるように民族運動の要求にたいし少しずつ譲歩を行い,穏健派をその内部にとり込んできたことである。第2はインド人内部のさまざまな生得の区分を利用して分割統治を行うことにかなり成功したことである。…

【不可触民】より

… イギリスの植民地であったインドで,19世紀半ばごろから,社会改革家や都市に住む不可触民の間に,不可触民の地位向上を目ざす運動がみられるようになった。20世紀に入ると,イギリスは分割統治政策の一環として不可触民の代表に立法府の議席を与える方策をとり,また1935年のインド統治法では不可触民を〈指定カースト〉と呼び保護を加えている。これに対し,民族運動の指導政党である国民会議派も,1917年の年次大会で不可触民制撤廃を綱領の一つとして採用し,その後ガンディーの指導下に社会改革運動を進めた。…

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