ドイツの考古学者,美術史学者。北ドイツのシュテンダールStendalに靴職人の息子として生まれたが,苦学してハレ,イェーナで神学,医学を修めた。長らく家庭教師,ラテン語学校教頭,ビューナウ伯図書室司書を務めたが,その間に古典文学,美術への造詣を深め,1755年に発表した《ギリシア美術模倣論》によって一躍世に知られた。古典古代への憧れと,1754年にカトリックに改宗したこともあって,55年秋にイタリアへ赴き,ローマに移住。アルバーニ枢機卿の司書官を務め,その庇護の下に古代美術遺品の研究に専念。ローマ地方のほか,ナポリ,フィレンツェ地域の古代遺品の調査にあたった。ローマで著した多くの論文の中には,発掘が進められつつあったヘルクラネウムの遺跡に関する報告や,主著《古代美術史》(1764)がある。63年にはローマ市古代遺品監督官および教皇庁書記官に任ぜられた。68年,ドイツ,オーストリアを訪れ,ウィーンではマリア・テレジア女帝に拝謁したが,ローマへの帰途,トリエステの宿で凶漢に襲われ客死。ギリシア美術を賛美しつつ,生涯ギリシアの地を踏むことはなかった。彼の学問的功績は,環境風土といった条件に美術作品創造の源を探るとともに,美術の展開の研究に様式史的観点を導入し,それによって近代的な一学問分野としての考古学,美術史学の基礎を築いたことにある。また,より広く社会的には,18世紀後半以降の古典主義的動向(新古典主義)に精神的基盤を与えるという重要な役割を果たした。古代ギリシア美術の本質を〈高貴な単純さと静謐な偉大さedle Einfalt und stille Grösse〉と規定し,それを美の最高の規範とする主張は,同時期の美術界はもとより,精神界全般に広い影響を及ぼした。
執筆者:有川 治男
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ドイツの美学・美術史学者。経済的に恵まれない境遇に育ちながらも努力して、おもに古代ギリシア・ローマの文化を学び『ギリシア美術模倣論』(1755)を出版。当時おこりつつあった古典主義思想の先駆者として認められるようになった。のちイタリアに赴き、ローマで古代遺品や各地の遺跡の調査研究、そして著述に専念し、主著『古代美術史』(1764)を刊行したが、オーストリア旅行の途上、強盗に殺害された。彼は生涯ギリシアを訪れず、また古代彫刻の実物にも数多く接したわけではないが、作品の記述に基づく様式史の方法を創始することによって、美術史学や美学の研究に不滅の功績を残した。G・E・レッシングやゲーテ、ヘーゲルらの古代観、彫刻観に与えた影響も大きい。
[鹿島 享 2015年2月17日]
…クラシックclassicの呼名はラテン語のクラシクスclassicus(〈最上級の〉〈模範的な〉の意)から由来する(クラシクスは本来,クラシスclassis(ローマ市民の階級区分)における最上級層クラシキclassiciの形容詞形で,語意が転用されたもの)。この時代は一般には前5世紀後半の盛期クラシック(〈崇高な様式〉)と前4世紀の後期クラシック(〈優美な様式〉)とに区別される(この区別と命名はウィンケルマンによる)。盛期クラシックには,ペリクレスのアクロポリス復興計画に基づき,パルテノン,プロピュライア,エレクテイオンなどの壮麗な建物が完成し,彫刻では,フェイディアス,ミュロン,ポリュクレイトスらの巨匠が活躍した。…
…ルネサンス以来,古代の理想はローマの遺跡や美術作品を通じて理解されていたが,ギリシアの再発見は〈崇高〉という概念に結びつくものとして大いに評価された。これを支えた理論家としては,1754年に《ギリシア芸術模倣論》を著した美学者ウィンケルマンがいる。こうした中で,実際にギリシアの様式を用いて建築や工芸品をつくり上げる動きが生じた。…
…しかし,装飾要素を建築の付加的・付随的要素と見て,非本質的なものと見なす考え方も存在した。17世紀にイタリアの建築家V.スカモッツィは〈建築は抽象的な数,形態,大きさ,各部の関係を数学と同じ方法で用いる〉と述べ,新古典主義の理論家J.J.ウィンケルマンは〈建築において美はまず比例にある。建物は比例のみによって,装飾なしでも美しくなりうる〉と述べ,建築装飾の存在を否定的にとらえた。…
…
【形成史】
考古学はヨーロッパに始まり,世界にひろまった。古物を収集したり記録したりすることは洋の東西を問わず古くから行われていたが,初めて本格的な考古学的方法を実践したのはドイツ人のウィンケルマンである。彼は《古代美術史》(1764)において,文献の記述にとらわれず,作品自体の観察にもとづいてギリシア・ローマ美術の様式的発展を説いた。…
… しかし,明確な方法意識と体系を持った学問としての美術史が成立するのは,18世紀になってからである。J.J.ウィンケルマンは,晩年の労作《古代美術史》(1764)において,メソポタミア,エジプト,ギリシア,ローマなど,地域と時代によってはっきり整理された歴史区分と,それぞれの区分のなかで一定の発展形態を示す様式の原理に基づく最初の美術史を確立した。19世紀に入ると,ヘーゲル哲学の強い影響の下に,芸術発展の歴史を技術の進歩によって説明しようとするG.ゼンパーの《技術による諸芸術様式論》(1861‐63)や,芸術を民族,環境,時代の条件に還元しようとするH.テーヌの《芸術哲学》(1865)のような体系化の試みが進められる一方,19世紀後半,個々の作品をとくにその細部表現の特徴によって作者決定をしようとしたG.モレリをはじめ,B.ベレンソン,M.J.フリートレンダーなどの優れた鑑識家たちによる作品の〈戸籍調べ〉の進歩により,独立した学問としての美術史の基礎が築かれた。…
…50年代,考古学的関心が高まるとともにR.アダムらイギリスの芸術家との交流をもち,ロンドン好古学会の名誉会員に選ばれる。60年代にはローマ建築の起源論争において,J.J.ウィンケルマンらに対立するエトルリア文化賛美に基礎を置いた理論を激しく展開。また家具・装飾芸術のデザインを数多く手がける一方,修復家・美術商としての才もたけ,多角的な活動を続けた。…
※「ウィンケルマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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