メングス
Anton Raphael Mengs
生没年:1728-79
ボヘミア生れのドイツの画家。父イスマエルIsmael M.(1688-1764)はコペンハーゲン出身のユダヤ人の画家で,その厳しい教育は1741-44年のローマ滞在中まで続き,バチカン美術館で模写を行った。帰国後46年ドレスデンの宮廷画家となるが父と不和になり,カトリックに改宗。52年,最終的にローマに出てウィンケルマンと親交をもち,その古典主義的芸術理論に触れる。ナポリで知遇を得た,後のスペイン国王カルロス3世に招かれ,61-76年スペインの宮廷画家として,王宮や離宮にティエポロらとフレスコ画を競い,多くの肖像を描いて,若いゴヤを含む当時のスペイン画壇に絶大な影響力を与えた。ローマで没。著作があり,《美と絵画の好みに関する省察》(1762。ウィンケルマンに献呈)は高い評価を得た。
執筆者:神吉 敬三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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メングス
Mengs, Anton Raphael
[生]1728.3.22. ボヘミア,アウシヒ
[没]1779.6.29. ローマ
ドイツの画家。 1741年にローマに行き,ザクセン侯アウグスト3世のためにラファエロの作品を模写し,44年宮廷画家となった。 55年以降は主としてローマで活躍。ナポリ,マドリードの宮廷でも制作した。 J.J.ウィンケルマンと親交があり,古典主義的な作風で,宗教画やパステルによる肖像画を得意とし,同時代の古典主義的風潮のリーダーの一人となった。主要作品はビラ・アルバーニの天井画『パルナッソス』 (1761) 。著書に『絵画の趣味と美についての考察』 Gedanken über die Schönheit und über den Geschmack in der Malerei (62) がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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メングス
めんぐす
Anton Raphael Mengs
(1728―1779)
ドイツの画家。ボヘミアのアウシヒに生まれ、ローマで没した。父イスマエルIsmael M.(1688―1764)に絵を学び、1741年ともにローマに赴く。1744~1754年ドレスデンで宮廷画家として活躍、この間1746~1749年再度ローマに滞在。1754年ローマの聖ルカ・アカデミー会長となる。1761~1769年および1773~1774年には、スペイン宮廷の招きでマドリードに滞在する。彼は後期バロックから出発してラファエッロを研究し、またウィンケルマンに傾倒して折衷的な古典主義を創始した。ローマのビラ・アルバーニの天井画『パルナス』はその代表作。スペインではティエポロと壁画の競作があり、若いゴヤとの接触もある。
[野村太郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内のメングスの言及
【偽作】より
…他方,画家たちが古典探究の目的でコピー(模倣)した作品,工房作([工房]),あるいは他の画家の真正の作品などが,誤解もしくは故意によって,真作として流通する場合も少なくない。たとえば,A.R.メングスは古代へのみずからの傾倒と鑑識のほどを示すために《ユピテルとガニュメデス》を古代の絵画として制作したが,これにはウィンケルマンすらも惑わされている。ルーベンスやクラーナハの工房作が,オリジナルとして通用する場合も多い。…
※「メングス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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