改訂新版 世界大百科事典 「ウラルトゥ」の意味・わかりやすい解説
ウラルトゥ
Urartu
前9~前6世紀に西アジアに栄えた王国。隆盛期にはアルメニア高原の全域(現在のアルメニア,トルコ,イランにまたがる)を占めた。アッシリアではこの国のことがウルアトリUruatriまたはナイリNairiと呼ばれたが,自称はビアイニリBiainili,旧約聖書ではアララト(アララテ)Ararat王国の名で登場している。ウラルトゥはアッシリア名に由来する。
ウラルトゥの言語は,ソ連の言語学者メリキシビリG.Melikishviliによると,フルリ語に近く,フルリ・ウラルトゥ語族に属する。文字はアッカド式楔形文字の単純化したタイプ(新アッシリア変形)で,現在まで数百点の碑文が発見され,解読されている。ウラルトゥには最高神ハルディを含む3神が主要な役割を果たした。ハルディは獅子,戦神テイシェバは牡牛の上に立ち,太陽神シウィニは有翼の太陽円板を保持してひざまずいている。ウラルトゥ王国の領土はもとミタンニ王国領であったが,その崩壊後アッシリアの勢力下に入った。前9世紀の中ごろに,トゥシパ(現在のトルコのワン市)を首都とするウラルトゥ王国が成立した。サルドゥリ1世は首都の整備に力を入れ,前9世紀末から前8世紀後半にかけて,メヌア(在位,前810-前781),アルギシティ1世(在位,前781-前760),サルドゥリ2世(在位,前760-前730)の治下で隆盛期を迎え,領土も大いに広がった。北はザカフカス,南東はレザーイエ湖一帯,西はシリアにおよびアッシリアと対抗するまでに強力となった。征服地には城砦が構築され,今のアララト山北麓にあるメヌアヒニリ,エレバン市内のエレブニとカルミル・ブルル,アラクス川左岸のアルギシティヒニリなどの遺跡として残っている。国内の経済や軍事面では戦勝による多数の捕虜(奴隷)が大きな比重を占めた。前8世紀中ごろ以後,アッシリア王ティグラトピレセル3世,サルゴン2世らによって撃破され,領土の大半を失い,衰退期に入った。国内の反乱鎮圧のためにスキタイやキンメリアの騎馬部隊を雇ったのはこの時期である。前6世紀初頭メディア王国に滅ぼされ,アッシリアとともに姿を消した。
執筆者:加藤 九祚
美術
ウラルトゥ王国の美術は,アッシリア帝国やトルコ南部から北シリアにかけてのシロ・ヒッタイトなど近隣地域の美術から図像および技法の面で多くの影響を受けているが,金属工芸を主体に独自なものを見せる。その様式は,アッシリアの宮廷美術(アッシリア美術)の影響が顕著な〈中央様式〉と,西北イラン,カフカス北方の文化との類似性がみられる〈地方様式〉に大別される。後者は,技術がきわめて稚拙な作品が多く,民衆芸術的ともいえる。エレブニ,カルミル・ブルル,ワン(トプラクカレ),西北イランのバスタム等の遺跡から出土した有翼牡牛形人間像,従者像などの丸彫(青銅),牡牛を装飾した大鍋,動物や聖樹文を打ち出した帯状飾板などはウラルトゥ美術独特のもので,そこには,豊穣を祈る観念,邪悪を避ける希求など,西アジアの伝統的テーマが造形化されている。
執筆者:田辺 勝美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報