( 1 )①は後藤梨春「紅毛談」(一七六五)により「エレキテリシテート」の名で日本に初めて紹介されたが、実際に渡来したのは安政二年(一七七三)が定説。平賀源内が壊れたエレキテルを修復して見世物にしたこと(一七七六)は有名。以後、橋本宗吉等によって改良が加えられ明治に至る。表記としては「野礼幾天爾」「越列吉的爾」等が見える。
( 2 )②は明治初期には広く用いられていたが、しだいに用いられなくなり、明治後期以後は代わって「電気」が一般的になった。
摩擦起電器のこと、また電気の意味。オランダ語のelectriciteitの略訛(りゃっか)したもの。エレキテルの歴史的叙述で知られる『厚生新編』(1811~1839)には越列吉低力的乙多(エレキテリテイト)とある。『燈下雜記』(1813~1828)を著した町野傭次(まちののぶつぐ)はこのなかで『野礼幾的爾(エレキテル)全書』(堀口多著・1814)を筆写、そこには、宝暦(ほうれき)(1751~1764)のころオランダ人が公儀に献上したとある。また1773年(安永2)長崎入港のオランダ船の積み荷明細書にそれがある。文献上の初出は後藤梨春(ごとうりしゅん)(1696―1771)の『紅毛談(オランダばなし)』であるが、森島中良(もりしまなから)(万象亭(まんぞうてい))は『紅毛雑話』(1787)で、梨春のエレキテル図は実物に基づかないものと批判し、家蔵の品を写したという図を載せている。1770年(明和7)平賀源内は長崎で通詞(つうじ)西善三郎(にしぜんざぶろう)(?―1768)から故障したエレキテルを入手し、1776年(安永5)にこれを修復、模造もして有名となった。構造はガラスと錫箔(すずはく)とを摩擦して静電気をおこすものであり、源内作のエレキテルは今日、東京の郵政博物館と香川県さぬき市志度(しど)の平賀源内記念館に保存されている。橋本宗吉(そうきち)は静電気実験なども行って『阿蘭陀(オランダ)始制エレキテル究理原』(1811)を著し、高森観好(たかもりかんこう)(1750―1831)は数多くを製作、改良したといわれる。エレキテルは見せ物や医療器として珍重された。
[井原 聰]
江戸時代に蘭学を通じてもたらされた電気知識で,本来は摩擦起電機の意。オランダ語のelektriciteitがなまってエレキテル,さらに簡略化されて俗にエレキともいわれた。18世紀前半のヨーロッパで摩擦起電機やライデン瓶が発明され,電気ショックで人をおどろかせる見世物や遊び道具として人気を得たが,この知識が日本にもたらされ,後藤梨春(1702-71)が《紅毛談(オランダばなし)》(1765)にはじめてエレキテルを紹介し,平賀源内は1776年(安永5)にはじめて蓄電器つきの摩擦起電機をつくった。以後,森島中良(1756-1810),高森観好(1750-1830),橋本宗吉(1763-1836)などもつくっている。橋本宗吉稿の《阿蘭陀始制エレキテル究理原》(1881)は,それに付した実験の絵とともに有名である。当時電気ショックは医療にも効果があると考えられていたらしい。
執筆者:中山 茂
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野礼幾的爾・エレキテリセイリテイとも。オランダ語のelektriciteitの転訛。広義には電気の意味だが,日本では江戸中期に静電気を発生させる摩擦起電機をさした。平賀源内が1776年(安永5)製作したエレキテルが有名。火花放電・感電などの静電気現象は見せ物として利用された。幕末期にはダニエル電池が移入され,これを用いた誘導起電機が作られた。佐久間象山の製作した電気治療器もこの一種。
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