オバマ

百科事典マイペディア 「オバマ」の意味・わかりやすい解説

オバマ

アメリカの政治家。ケニア生れのイスラム教徒を父に,スウェーデン系アメリカ人を母に,ハワイのホノルルに生まれる。自身はキリスト教徒プロテスタント)。コロンビア大学卒業後,ハーバード大学ロースクールで学び,〈ハーバード・ロー・レビュー〉誌の編集長を務めた。シカゴで弁護士として法律事務所に勤務する一方,貧困層を救済する社会運動に従事し,1997年にはイリノイ州議会上院議員に当選,2004年まで務めた。2004年イリノイ州選出の合衆国上院議員に初当選し,民主党議員として頭角をあらわす。2007年2月には地元イリノイ州スプリングフィールドで大統領選出馬を正式表明,2008年1月から始まった民主党の大統領予備選はヒラリー・クリントン候補との熾烈な争いとなり予備選最終日までもつれたが,クリントン候補との接戦を制し,同年8月の民主党大会で正式に候補者指名を受けた。2008年11月の大統領選で,共和党マケイン候補を大差で破り,2009年1月第44代合衆国大統領に就任した。〈建国精神に立ち返り,合衆国を変革する〉との政治信条に基づき,当面する経済危機への対処としてグリーンニューディールなどによる大規模雇用の創出,医療保険制度や年金制度の改革,ブッシュ政権のイラク政策からの転換を打ち出し,2009年4月には,プラハで演説し,核兵器をはじめとする戦略兵器の国際的な禁止を提言するなど,リベラル派としての政策を矢継ぎ早に提案した。2009年7月にはメドベージェフ・ロシア大統領と核兵器削減交渉で合意。2009年度のノーベル平和賞を受賞した。しかし,内政面での最重要政策とした,医療保険制度改革は難航,改革法案はかろうじて上院を通過したものの,リベラル派,保守派の双方から反発が起こり,アフガニスタンの泥沼化に有効な歯止めがかからない現状もあって失望感が広がり,就任当初の高支持率は急速に落ち込んだ。2010年4月プラハで,メドベージェフ・ロシア大統領との間で,核弾頭削減の条約に調印,さらにワシントンで初の核安全保障サミットを開催するなど,核問題では一定の成果を上げた。内政の懸案だった医療保険制度改革法案を成立させたが,2010年の中間選挙で民主党は大敗,野党共和党が下院過半数を制し,オバマ政権は難しい議会運営を余儀なくされた。2011年5月ウサマ・ビン・ラディンの奇襲・殺害作戦に成功,支持率を回復。経済の回復傾向もあって,比較的堅実な支持率を維持し,共和党ロムニーと対決した2012年秋の大統領選で勝利し再選を果たし,政権2期目に入った。上下院選挙では,下院共和党多数,上院民主党多数のねじれ現象を解消できず,就任式直後に直面した〈財政の崖〉への対策で共和党の説得が難航,2期目の主要課題に掲げた銃規制強化や移民制度改革,地球温暖化対策などは下院を握る共和党との反対で進んでいない。外交ではアジア重視政策を打ち出した。2014年4月訪日して行われた日米首脳会談後の共同声明で,アメリカ大統領としてはじめて〈尖閣諸島は日米安保の防衛義務の範囲〉と明言した。支持率は2013年春以降落ち込み,2013年秋以降は不支持が支持を上回っている。共和党は,世論の支持が依然低いオバマケアを引き続き標的にしているほか2014年2月に勃発したウクライナ危機を巡ってオバマ政権の対露外交の姿勢を弱腰外交と批判。2014年11月の中間選挙では,共和党が上下院で過半数を制し,任期2年を残すオバマ政権の運営は一段と困難なものとなった。2015年4月,キューバのラウル・カストロ国家評議会議長との首脳会談を実現,両国関係の歴史的転換をもたらした。
→関連項目アメリカ合衆国核安全保障サミットグリーンニューディールケリー財政の崖サイバー戦争ヒラリー民主党(米国)ロムニー

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知恵蔵 「オバマ」の解説

オバマ

バラク・フセイン・オバマ(Barack Hussein Obama Ⅱ)。アメリカ民主党上院議員で、アメリカ合衆国大統領に史上初のアフリカ系アメリカ人として選ばれた。2009年1月20日に第44代大統領に正式就任予定。07年2月に大統領選への立候補を宣言し、“Change”“Yes,We Can”というスローガンのもと、経済格差と金融危機をもたらした共和党ブッシュ政権からの変革を訴え、ヒラリー・クリントン上院議員を下して民主党の大統領候補となり、共和党候補ジョン・マケイン上院議員と対決した。当初は経験不足も指摘されたが、9月のリーマンブラザーズ破綻(はたん)に端を発する金融危機を機に、経済に弱いマケインとの違いを印象付けて11月4日の投票で当選を勝ち取った。獲得選挙人数はマケインの173人に対して、365人という圧勝だった。今後、国内的には、新自由主義と決別して「大きな政府」によるテコ入れを、外交では、対話重視・国連重視の外交姿勢を基本に進めていくと予想される。具体的には、規制や金融機関の監視を強化し、低所得者層に目を向けた経済政策と、選挙公約だったイラク撤兵などの平和交渉である。
オバマは、1961年8月4日、ハワイにおいて、ケニア人留学生の父親と、米カンザス州出身の白人の母親との間に生まれた。両親は64年に離婚。父はケニアに帰国後、82年に自動車事故で死去。母はインドネシアからの留学生と再婚し、インドネシアで人類学者として働いた後、95年にハワイで死去。この間、オバマは67年から71年までジャカルタの小学校に通った後、母方の祖父母のいるホノルルに戻って、79年に高校を卒業(この祖母が大統領選の投票日前日に死去したことを演説で伝えるオバマのほおを一筋の涙が流れた)。ロサンゼルスの大学で学んだ後、ニューヨークのコロンビア大学で国際関係論を専攻し、83年に卒業。85年から3年間シカゴで住民の生活条件向上をめざすカソリック教会系団体の活動に従事した後、88年末にハーバード・ロースクールに入学。90年には黒人として初めて「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長に選出された。91年法学博士号を取得し、シカゴに戻って市民派弁護士として活動するかたわら、シカゴ・ロースクールで憲法学を教える。法律事務所で知り合ったミシェル・ロビンソンと92年に結婚。98年に長女、01年に次女が生まれ、4人家族である。
政治家としてのキャリアは、96年に地元シカゴのイリノイ州議会議員選挙に当選したことに始まる(再選され04年まで在職)。地方政治家に過ぎなかったオバマの名を全国に知らしめたのは、04年7月の民主党全国大会だった。大会の基調演説を引き受けたオバマは、「リベラルのアメリカも、保守のアメリカもない、アメリカ合衆国があるだけだ」という名演説で聴衆に感銘を与えた。同年11月の連邦上院選挙でイリノイ州選出の上院議員として初当選し、その第1期目に大統領選に立候補し当選を果たしたわけである。
アメリカ建国以来の黒人差別の長い歴史から誕生した「初の黒人大統領」だが、若い有権者の間では選挙結果に人種はほとんど影響を与えていない。オバマが選挙演説で述べたように、「黒人のアメリカも白人のアメリカもない。一つのアメリカがあるだけだ」という脱人種に向かっていると言える。また、実父がイスラムであるためオバマ自身もイスラムではないかと言われたことに対し、共和党のパウエル元国務長官は次のように述べた。「オバマがイスラムかと問えば、答えは違う。彼はずっとクリスチャンだった。しかし、本当の正答はこうだ。もしイスラムだったら何か問題があるのか。答えはノーだ。問題があるというなら、それはアメリカではない」。この国のこの力がオバマを大統領に選んだのだろう。

(高橋誠 ライター / 2008年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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