改訂新版 世界大百科事典 「オーストリア音楽」の意味・わかりやすい解説
オーストリア音楽 (オーストリアおんがく)
広い意味でドイツ文化というときにはオーストリア文化もその中に含まれる。その際とくに音楽についていえば,オーストリアの果たした役割は非常に大きいものがあった。ハイドン,モーツァルト,ベートーベンの3巨匠が代表するウィーン古典派の音楽,またシューベルトや,ヨハン・シュトラウス父子を生んだ音楽の都ウィーン。これらの名前からしてもオーストリア音楽の重要さは明らかだろう。ドイツと区別していうオーストリアは,地理的には現在の共和国の位置が示すように,北に対して南,西(ラインラント)に対して東の要素を強調し,南はイタリア,東はハンガリー,チェコスロバキアをはじめとする東欧と接することから豊かな文化交流の場所となっている。中世,ルネサンスにあってはハプスブルク家の勢力安定とともに,ウィーンの宮廷と教会に音楽文化が栄えた。とくにバロックになるとウィーン,ザルツブルクには,イタリア文化の影響の下にドイツ語圏で最も充実した新文化の中心が生じた。建築でそのことは今日なお明らかにみられる。例えばザルツブルク大聖堂の場合など,イタリア様式のアルプス以北における早い移植の例といえる。音楽でもイタリア新様式の移入は著しく早かった。バロックの初期にオペラがアルプスを越えて伝わる経路もザルツブルクが早く,グラーツを経てウィーン宮廷に至る道もドイツ文化圏できわめて重要なものであった。この土壌の上に,やがてモーツァルトのオペラに代表されるような独自の高い総合が生まれる。ハイドンは東欧的・民族的要素とイタリアニズムの混合から,オーストリア国際様式の基礎を築いていた。諸国民様式が豊かな交流によってもたらされた結果は,オペレッタ,ウィンナ・ワルツの音楽性も包摂して,19世紀全体を通じて醇成していった。それはシューベルト,ブラームス,ブルックナー,マーラーらに代表される。
現代音楽の口火を切る根本的な貢献がシェーンベルク,ウェーベルン,ベルクのいわゆる第2次ウィーン楽派によってなされたのもこの伝統の土壌ゆえのことであった。以後のオーストリアは,世界の音楽界の指導的役割からは一歩退いたとはいえ,良き意味の伝統の地力と広く深くゆきわたった音楽文化の高い水準で,ヨーロッパ音楽の最良の部分を代表し続けている。
オーストリアの音楽性は,豊かな民俗音楽にも現れており,各州に多様な伝承がまだ保たれている。チロルをはじめとするアルプス地方のヨーデル,シュタイアーマルク州の民俗舞踊,ケルンテン州の豊かな重唱など,その音楽性は醇朴であっても粗野ではなく,自然な豊かさを特徴としている。民俗楽器としてはチターが有名。ほかに打弦楽器のハックブレットやチェロに似て少し大きいバセットルなどがある。
→古典派音楽 →ドイツ音楽
執筆者:前田 昭雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報