改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ音楽」の意味・わかりやすい解説
ドイツ音楽 (ドイツおんがく)
バッハ,モーツァルト,ベートーベン,ブラームス,ワーグナーらに代表されるドイツ音楽の偉大さがしばしば語られる。しかし,ドイツ音楽を簡単に定義することはできない。ドイツ人の音楽といっても,前古典派から古典派の時代には,ボヘミアから移住してきた多くのチェコ系の音楽家が,ベルリン,マンハイム,ウィーンなどで活躍し,ドイツ音楽の形成に実質上大きく貢献した。19世紀にはユダヤ系音楽家の目ざましい活躍も忘れることができない。
他方16世紀末までのドイツ音楽は,イタリア,フランス,イギリスなどにくらべて明らかな後進性を示していた。ドイツがこれらの国々に比して,政治・経済面で立ちおくれていたからである。こうした後進性に対して,18世紀中葉に台頭したプロイセンはゲルマン民族の自覚を促し,ドイツ文化をドイツ精神の表れとして強調する風潮をもたらした。それは中欧における一種のナショナリズムと考えられる。この傾向が,第1次世界大戦の敗戦と,その後の戦勝国からの厳しい経済制裁によっていよいよ強められ,ついにはヒトラーの極右的ナショナリズムに到達したのである。第2次世界大戦後は,音楽の面でもこの極端な国粋主義を排して,過去の伝統の上に立ちながらも,新しい国際的な音楽文化の発展を目ざしている。
ここでは,ドイツ語を使用する地域を一つのまとまりと見て,オーストリア(オーストリア音楽)も視野に入れながら,ドイツ音楽とは何であるかを明らかにするために,(1)ドイツ音楽の歴史,(2)ドイツ音楽における南と北,(3)ドイツ音楽とドイツ語,(4)ドイツ音楽の特質,(5)日本におけるドイツ音楽の受容,の5点に問題を絞って論じる。
ドイツ音楽の歴史
ドイツ音楽の歴史は,アルプス以北に住むゲルマン人と,アルプス以南の古代ローマの文明社会およびローマ教皇庁を頂点とするキリスト教世界とのかかわり合いの歴史として始まる。ローマ側から見たゲルマンは蛮族であり,キリスト教により教化されなければならない異教徒の世界であった。しかしゲルマン人は狩猟・牧畜民としてローマ人とは異なった固有の宗教や文化をもっていた。デンマークで出土した北欧の青銅器時代の金管楽器〈ルール〉や,ローマの軍楽隊に雇われたゲルマン人の金管楽器奏者についての記録などからも明らかなように,ゲルマン人は地中海沿岸に住むラテン系の農耕民族とは異なった音楽をもっていたものと思われる。ゲルマン人が牧畜と農耕を中心にアルプス以北の諸地域に定着し,キリスト教を受けいれてゲルマン的中世世界を築いていく過程において,まず彼らはラテン的・ローマ的なグレゴリオ聖歌を受容しなければならなかった。ドイツ音楽の原点は,おそらくこの段階におけるゲルマン精神とラテン的キリスト教精神との対決にあるといわねばならない。9世紀に創設されたスイスのザンクト・ガレン修道院でくふうされたトロプス(進句)およびそれに次いで起こったセクエンティア(続唱)は,ゲルマン人にとって歌いにくいラテン語歌詞のメリスマ旋律を,新作のラテン語歌詞の付加により歌いやすくしようとした,いわゆるグレゴリオ聖歌のゲルマン的変容の最初の例である。これはまたオルガヌムのような初期多声音楽の発明とも密接な関係をもっている。
12世紀には,南フランスの騎士歌人トルバドゥールの影響を受けて,ドイツにも世俗騎士歌人ミンネジンガー(ミンネザング)が現れるが,ここではドイツ語がその旋律とリズムに影響を与えてドイツ人の音感覚を進展させる。その後を継いだ14世紀のマイスタージンガーではドイツ語がいっそう強く意識されて,次の時代への橋渡しをする。中世のドイツの多声音楽は,まだフランドル,フランス,イギリスを模倣する段階であったが,15世紀前半のパウマンKonrad Paumann(1415ころ-73)らにおいて,ドイツ人が音楽理論にすぐれ,またオルガン音楽の分野で早くから独自の能力を発揮していたことを示している。
ルネサンス時代になると,多声音楽の分野でようやくホーフハイマーPaul Hofhaimer(1459-1537),ゼンフルLudwig Senfl(1486ころ-1542ころ)らのドイツ人音楽家が活躍するが,しかし彼らに影響を与えたのはフランドル人のイザークである。またルネサンス後期にはラッススのような偉大なフランドル人音楽家がミュンヘンを中心に活躍して,ドイツ音楽の発展に寄与した。器楽の面ではシュリックArnolt Schlick(1460以前-1521以後)や前述のホーフハイマーらがドイツのオルガン音楽に道を開き,またユーデンキュニヒHans Judenkünig(1450ころ-1526),ノイジードラーHans Neusidler(1510以前-63)らがリュート音楽を発展させた。ルネサンス末期にはハスラーHans Leo Hassler(1564-1612),プレトリウスMichael Praetorius(1571-1621)らによって,新しくベネチアの複合唱様式の音楽がドイツに導入された。ルネサンス時代には,ドイツ音楽はフランドルの高度の多声技法とイタリアの輝かしい音響効果の世界から多くのものを学び取った。他方この時代の宗教改革とルターの聖書のドイツ語訳が,ドイツの音楽と文化の上に及ぼした大きい影響を忘れることはできない。しかしその成果が現実に現れるのは次の時代のことである。
17世紀から18世紀中葉にかけてのバロック時代は,ルネサンスの後を受け,さらに外国の音楽の諸様式に敏感に反応しながら,ドイツ音楽がオペラを除くほとんどすべての分野で開花する時代である。とくに北方のプロテスタント地域では,ルター派のコラールを取り入れた教会カンタータや受難曲が,シュッツからJ.S.バッハ(大バッハ)に至る教会音楽の流れのなかで徐々に創造され,真にドイツ語とドイツ精神に根ざしたドイツ音楽を形成する。こうしたドイツ的なものは宗教的声楽曲のみならず,オルガン音楽,リュート音楽,チェンバロ音楽,バイオリン音楽,器楽組曲,合奏協奏曲などの器楽の上にも顕著に現れる。宮廷と教会を中心としたこの時代のドイツ音楽は,今や外国音楽の模倣を脱して,その独自性を主張しうるところに達した。しかしその背後には三十年戦争の困苦と,その後に来るフリードリヒ大王の啓蒙絶対君主制によるドイツ人意識の高揚がある。そしてこのバロック時代の音楽は,その才能と豊饒さにおいて他に類を見ない大バッハにおいてその総決算を見ることとなる。
1750年のバッハの死以後今日に至るドイツ音楽の目ざましい発展については,よく知られているので,ここではその大筋を追うにとどめたい。18世紀中葉の新興市民階級の登場とともに,ドイツ音楽もバロックの貴族的・宮廷的・宗教的壮麗と威厳を捨て,簡単な和声伴奏の上に親しみやすい旋律を歌わせるホモフォニーによって,テレマンのロココ音楽,マンハイム楽派の多感様式,あるいはエマヌエル・バッハCarl Philipp Emanuel Bach(1714-88)のシュトゥルム・ウント・ドラング的音楽を生み出した。この方向はやがてハイドン,モーツァルト,ベートーベンらのウィーン古典派の交響曲や室内楽に結集され,ドイツ的なものを中心にイタリアや東欧の要素を内に含んで,全ヨーロッパに通用するドイツ音楽の頂点を形成した。しかし,われわれはウィーン古典派の純粋器楽のうちに,シュッツやバッハが開拓したドイツ的音楽語法が生きていること,そしてまたこのドイツ音楽とドイツ語の深い内的結びつきが,シューベルトに始まり,ロマン派の時代に展開するドイツ・リートの世界を支えていることを忘れてはならない。さらに従来最もおくれていた分野であるオペラが,モーツァルトのイタリア・オペラやドイツ語のジングシュピールにおいて開花し,やがてウェーバーのロマン主義的ドイツ国民オペラの確立を促し,ついには19世紀後半のR.ワーグナーの楽劇にまで達するのを見る。他方R.シューマン,メンデルスゾーン,ブラームス,R.シュトラウス,ブルックナー,マーラーらの音楽が,それぞれの個性をもちながらも,それらがドイツ音楽であるのは,それらの根底に,中世のゲルマン精神やドイツ民謡の世界への憧憬をひそませるドイツ・ロマン主義が支配しているからである。そして19世紀末から20世紀初頭に,シェーンベルク,ベルク,ウェーベルンらのウィーン楽派が登場して,意識的にR.ワーグナーの後期ロマン派音楽から脱却して,表現主義的無調音楽,さらには十二音音楽へと大胆な飛躍をするのであるが,そこに見られる徹底した過去との対決,また世界苦に裏打ちされたその芸術運動の厳しさのうちに,われわれは同じドイツ人の心性の別の働きを見る。
ドイツ音楽における南と北
ドイツの文化や社会を考える場合,つねに問題となることは南と北の対比である。南とはバイエルン州をはじめとする南ドイツとオーストリアを指し,北とはベルリン,ライプチヒ,ドレスデンといった旧東ドイツと,ケルン,ボンなどのライン川の下流や,ハンブルク,リューベックなどの北海沿岸地方を指す。宗教改革以来,南はカトリック文化圏で,造形的にはバロック的華麗さを好み,北はおおむねプロテスタント文化圏で,ゴシック的神秘性と構築性を志向する。ドイツの文化はキリスト教の進出とともに南から開け,北は文化的に後進地域であった。しかし,18世紀のプロイセンの台頭,ハプスブルク家の衰退などによって,形勢は逆転し,18世紀後半以降,少しずつ北に主導権が移っていった。
こうした南と北の特質はドイツ音楽にも反映し,とくに南では,ウィーンを中心に豊かな国際性を示す。ハイドン,モーツァルト,ベートーベン,シューベルト,R.シュトラウス,マーラー,シェーンベルク,ベルク,ウェーベルン,オルフら,ウィーン出身の音楽家も,他地域出身の者も,ウィーンでは,イタリアやボヘミア,ハンガリーなどの東欧の音楽,南ドイツやアルプスの民俗音楽などの諸要素を混在させながら,快適に響く和声,レントラーやワルツに見られるようなリズムの柔軟さと感情表出の温かさを特色とする。これに反し北では,ドレスデンのシュッツ,リューベックのブクステフーデ,ハンブルクのテレマン,ハレのヘンデル,ハンブルク生れのメンデルスゾーンやブラームス,ライプチヒ生れのシューマンやワーグナー,ベルリンのグラウン兄弟Johann Gottlieb Graun,Carl Heinrich G.,クワンツ,エマヌエル・バッハ,そしてワイマールとライプチヒで活躍したバッハのように,どちらかというとその音楽は閉鎖的で,重厚で,ゴシック風の複雑な音の構築を好み,感情表出の面では深く暗いものや,神経質で高ぶったものを特色とする。それは,モーツァルトやシューベルトのよく歌う南の音楽と,対位法的手法を駆使するバッハの緻密な音の織物やブラームスの重厚な響きとの対比によって明らかであろう。
ドイツ音楽はウィーンを中心とするこの南方的なものと,バッハに代表されるような北方的なものとを相互に深く浸透させ合いながら,イタリア,フランス,イギリスとは異なるドイツ音楽としての独自性と,ヨーロッパ音楽を代表する国際的影響力を生み出してきた。南と北が緊張をはらんで均衡を保つとき,ベートーベンの全世界に向かって語りかける普遍的音楽が生まれ,また南と北がゲルマン的ドイツ・ロマン主義の精神によって意識的に統合されるとき,ワーグナーの,まさにドイツ的な総合芸術としての楽劇が生まれる。
ドイツ音楽とドイツ語
子音の多い,強弱アクセントの明確なドイツ語の音声,その厳格な文法構造や文章法は,ドイツ人の思考方式,感情表現,さらにはその行動様式をも規定している。したがって国が異なっても,ドイツ語を使用する限り,ドイツの文化はドイツ語文化圏としてとらえうるのである。音楽も音を使って意志を伝達したり,感情を表したりする。音には事物を指示する働きはないが,音相互の間には言葉に似た一種の音の文法が成立して,意味を生み出す。これを音楽語法とか,音のテクスチャーなどという。当然のことながらドイツ音楽の語法とドイツ語との間にはきわめて深い関係がある。すでに述べたように,グレゴリオ聖歌がゲルマン世界にもたらされたとき,それはゲルマン人の言語と音感に合わせてゲルマン的変容を被らねばならなかった。母音の多いイタリア語で歌われるカンタービレなアリアを中心とするイタリア・オペラは,シュッツからバッハに至るプロテスタント教会音楽のなかで,ドイツ的なカンタータや受難曲に置き換えられ,叙唱的な語りと,コラール合唱のなかで真にドイツ語にふさわしい音楽へと作り変えられた。さらにモーツァルトやウェーバーは,ドイツ語の地の独白や対話を織り込んだジングシュピール《後宮からの誘拐》や,ドイツ・ロマン主義オペラ《魔弾の射手》を創造した。カンタービレな歌にのらないドイツ語の特性を生かそうとする方向は,ゴータの宮廷で活躍したチェコ人ベンダGeorg Benda(1722-95)のメロドラマや,またシェーンベルクのシュプレヒシュティンメにも見られる。
しかしドイツ語とドイツ音楽の結合の最大の成果は,シューベルトによって確立され,シューマン,ブラームス,H.P.J.ウォルフと続くドイツ・リートの世界である。とくにシューベルトは,ドイツ語の言葉としての特質を深く探り,ドイツの詩と音楽の共通の源泉にまでさかのぼって,ドイツ芸術歌曲の世界を開示した。シューベルト以後のリートでは,さらにドイツの詩が歌う深いドイツ・ロマン主義精神と気分をみごとに音楽の翼にのせた。ドイツ・リートは,イタリアの甘く歌いあげる歌でも,フランスの軽妙洒脱なメロディでもなく,まさにドイツ人の心情を吐露する語りかけ,ささやく歌である。他方ドイツ語の論理性や,その厳格な文法構造は,リーマンのいう〈4小節構造〉のような音楽のフレーズ構成の規則性や,フーガやソナタ形式に見られる形式の堅固さ,主題労作法のような音楽語法の論理性,また柔軟なリズムよりも拍節の規律性を好む特質に反映している。
ドイツ音楽の特質
すでに論じてきたところからも明らかなように,ドイツ音楽はヨーロッパの他の音楽に比して,現象面では旋律よりも和声を,旋律の柔軟な流れよりも声部間のからみによる緻密な構築を,浮動する自由なリズムよりも音楽の時間の流れを制御する拍節を,声楽よりも器楽を,幻想的な自由さよりも厳格な形式を重視する音楽である。このようにいうとドイツ音楽はいかにも堅苦しい,融通性を欠いた音楽と考えられるかも知れない。確かにドイツ音楽はイタリア音楽やフランス音楽にくらべると,その論理的構築性が目だつ。それはライプニッツの予定調和説,カントの《純粋理性批判》やヘーゲルの弁証法にも通じるドイツ人の心性の特質であり,それがバッハの《平均律クラビーア曲集》やコラール変奏曲,ウィーン古典派の精妙な室内楽,シェーンベルクらの十二音音楽を生み出し,そしてまたその同じ心性が,音楽学という音楽の実証的・理論的追求の世界を開拓した。しかしこうしたドイツ音楽の背後に,非論理的ともいえるゲルマン精神のロマン主義的情念の混濁,誇大妄想的な理念の追求,強い選民意識とその裏返しとしての悲劇的悲壮感や地中海世界への憧憬などが潜在していることを見のがしてはならない。このような意識下の世界は,ときとしてシュトゥルム・ウント・ドラングの激情の奔出や,ドイツ・ロマン主義音楽の幻想の世界や,表現主義の自虐的な世界苦体験となって浮上する。このいわばデモーニッシュなものは,中世の昔からブロッケン山やチューリンゲンの森,ボヘミアの森の奥深くに隠されたゲルマン人の心の故郷である。ドイツ音楽の本質的な重厚さはこの森の暗さによるといえる。ドイツ音楽は,その論理的構築性によってこの晦渋なドイツ精神の森に秩序と規範の道をつけ,他方イタリアやフランスの明晰と輝きの音楽を吸収消化して,それに重みと厚みを加えることによって,自らの音楽に全ヨーロッパ的普遍性と国際性を与えることに成功した。とくにウィーン古典派からロマン派にかけてのドイツ音楽は,19世紀の北欧,東欧,ロシアさらにはアメリカの音楽に対し,西欧世界の音楽のすぐれたモデルとして大きな影響を与えてきた。
日本におけるドイツ音楽の受容
明治維新と文明開化の流れのなかで,日本にとってドイツはとくにその軍事力と法律の面で見習うべき先進国であった。明治以来の政府の洋楽導入の方針もこの線に沿ったものであったので,教育制度や学校教育のなかの音楽にもドイツの影響は強かった。とくに第1次世界大戦からヒトラーの台頭する時代は,日本においても大正リベラリズムから徐々に右傾化して第2次世界大戦へと傾斜していく時代であるが,ようやく軌道に乗り始めた日本の洋楽の主流は,ドイツに留学した山田耕筰,諸井三郎らによるドイツ音楽であった。演奏家も多くはドイツに留学した。こうした事情が,ドイツ音楽を最もすぐれた先進国の音楽として崇敬する風潮を生み,音楽即ドイツという固定観念を日本人に植え付けてきた。しかしすでに昭和の初期に池内友次郎らがフランスに留学し,ドイツ音楽以外にも洋楽の世界があることを知らせた。第2次世界大戦の結果,日本もドイツも敗戦国となり,西洋音楽についての日本人の考え方も大きく変化した。なるほど今でもドイツ音楽は最も多く学ばれ演奏されているが,ドイツ音楽によってヨーロッパ音楽を,さらには音楽一般を代表させてよいものかどうか,日本人にとってドイツ音楽とは何なのかが,今や問い直されなければならない時に来ているように思われる。ドイツ音楽そのものも,十二音音楽,電子音楽,ミュジック・コンクレートなどの現代音楽のさまざまな試みのなかで模索し,揺れ動き,ある意味で無国籍化しつつある。他方今日のドイツ音楽は,音楽学の進展とも関連して,そのルーツを訪ねて古楽の復興に力を注いでいる。ドイツ音楽の根はまだまだ深く,われわれがそこから学び取るべきものは大きい。
執筆者:谷村 晃
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