百科事典マイペディアの解説
カトリック解放法【カトリックかいほうほう】
→関連項目アイルランド|アイルランド[島]|アイルランド問題|ウェリントン|オーコンネル|ラッセル
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…この間に,プロテスタントの多いアルスター地方では,ベルファストを中心に産業革命が進行し,リネン工業(木綿工業はイギリスと競合するため政策的に発展を妨げられた),造船業などを中心に産業の近代化が進み,地主小作関係も安定していたが,現在共和国を構成する地域では産業革命もほとんどおこらず,イギリス系不在地主制の下で貧しい農業経済が支配的であった。19世紀前半には,ダニエル・オーコンネルの指導の下に立憲的なカトリック解放運動が展開され,カトリック解放法(1829)の成立をかちとった。これはさらに合併撤回運動へと発展した。…
…またこの間19年には,下院委員会の委員長として,銀行券の兌換再開(イギリスはナポレオン戦争中,銀行券の兌換を停止していた)を答申し,経済通の一面を示した。28‐30年,ウェリントン内閣の下で再度内相を務めロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)を設立,この間,D.オーコンネルの指導するアイルランド分離運動に直面し,それまで反対してきたカトリック解放法(カトリック教徒への公職開放)をみずからの手で実現せねばならないはめとなった(1829)。34年,国王の指名によって第1次ピール内閣を組織したが,100日余りで野に下った。…
…この法によって祈禱書を拒んだ聖職者はその職を奪われ,また教育界にまで国教会の強制力が及び,国教徒と非国教徒の区別が決定的となった。1689年の寛容法によってプロテスタントの非国教徒に対してはこの強制は一応緩和されたが,イギリスにおいてほぼ信仰の自由が確立されるのは1829年のカトリック解放法によらねばならなかった。【栗山 義信】。…
※「カトリック解放法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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